「もの」は常に動いている。
動いている「もの」は互いに影響しあっている。
それが世界(宇宙)である。
「もの」が動いてなければどうだろう。
一瞬は永遠で永遠は一瞬、
つまり時がないのです、ちょっと想像できない。
でも現実は動いている。
動いている「もの」は互いに影響しあう。
だからお互いを知ろうとする。
それが世界(宇宙)です。
・・・・・
「もの」は「もの」です。
その「もの」の変化の有様が「こと」です。
動いてる「もの」はお互いを知ろうとする、
とは先に言ったこと。
だから「こと」を知ろうとする。
もとより「こと」は「こと」だけでは成り立たない。
「もの」の変化ですから。
つまり「もの」と「こと」は一体であり、
本来は一つのもので「ものごと」と謂う。
前に言ったようにそこを見落とせば文字通り落し穴になる。
唯物論がそれである。
こんな奇怪なものはない。
「もの」は「もの」だけでは知る意味がない。
変化の様子を知るのが本題である。
「こと」を知ることが重要なのだ。
ならそも初めから嘘がある、
「もの」だけを語るなどと。
とりわけ唯物史観というのが極め付け。
史観とはまさに「こと」のこと。
それを唯物論として論じるとは。
ちょっと理解できない。
・・・・・
知るとはどういうことか。
常に動いているものを知るとは。
知るとは定着させること、
定着させてこそ知ると謂える。
でも動いてるものは定着させられない。
だから一瞬を切り取るのです。
そしてそれを繰り返す。
パラパラ漫画のように。
実際の記憶もそのようである。
映像の記憶ならではだが。
それを更に一つにするのが言葉である。
言葉にすれば一言ですむ。
ときの思いを一言で表す。
その時点での「いま」を己の魂に映す。
その模様が「こころ」です。
それを全身で発する、声として。
言葉の始まりです。
「いま」の「こころ」、これが念です。
書いて字のごとく、今の心と記す。
世界という具象を映しても、
それは概ね抽象を抱え込む。
念とは概念にしかず。
言葉がおそろしいのはそれがその場限りではないこと。
繰り返せばどこまでも続くのです。
その時の「いま」が永遠に続くのです。
文字を持てば尚のこと。
そこがおそろしい。
・・・・・
日本語の世界にいれば、
新たな気付きが時に出てきて、
先のようなことも視野に入ってくる。
実に奥深い言語です。
さらにその先がある。
「明鏡止水、波一つない静かな水面に映せば、
世界は在るがままに映る」と。
欲を排し、我を捨てれば、
まんまの世界が写せると。
そしてそれを道として求める、
そういう文化が。
ちなみに言葉は基本的にデジタルだと。
ゆえに間があり闇があると。
さりながら日本語はそこも埋めている。
曰く、
言外の言、不立文字、行間を読め、空白の美、
等々。
それに一つの音で多くを伝える。
それに単語は区切らないで繋いでいる。
「てにをは」で。
真言に誠に、
奥が深い。
動いている「もの」は互いに影響しあっている。
それが世界(宇宙)である。
「もの」が動いてなければどうだろう。
一瞬は永遠で永遠は一瞬、
つまり時がないのです、ちょっと想像できない。
でも現実は動いている。
動いている「もの」は互いに影響しあう。
だからお互いを知ろうとする。
それが世界(宇宙)です。
・・・・・
「もの」は「もの」です。
その「もの」の変化の有様が「こと」です。
動いてる「もの」はお互いを知ろうとする、
とは先に言ったこと。
だから「こと」を知ろうとする。
もとより「こと」は「こと」だけでは成り立たない。
「もの」の変化ですから。
つまり「もの」と「こと」は一体であり、
本来は一つのもので「ものごと」と謂う。
前に言ったようにそこを見落とせば文字通り落し穴になる。
唯物論がそれである。
こんな奇怪なものはない。
「もの」は「もの」だけでは知る意味がない。
変化の様子を知るのが本題である。
「こと」を知ることが重要なのだ。
ならそも初めから嘘がある、
「もの」だけを語るなどと。
とりわけ唯物史観というのが極め付け。
史観とはまさに「こと」のこと。
それを唯物論として論じるとは。
ちょっと理解できない。
・・・・・
知るとはどういうことか。
常に動いているものを知るとは。
知るとは定着させること、
定着させてこそ知ると謂える。
でも動いてるものは定着させられない。
だから一瞬を切り取るのです。
そしてそれを繰り返す。
パラパラ漫画のように。
実際の記憶もそのようである。
映像の記憶ならではだが。
それを更に一つにするのが言葉である。
言葉にすれば一言ですむ。
ときの思いを一言で表す。
その時点での「いま」を己の魂に映す。
その模様が「こころ」です。
それを全身で発する、声として。
言葉の始まりです。
「いま」の「こころ」、これが念です。
書いて字のごとく、今の心と記す。
世界という具象を映しても、
それは概ね抽象を抱え込む。
念とは概念にしかず。
言葉がおそろしいのはそれがその場限りではないこと。
繰り返せばどこまでも続くのです。
その時の「いま」が永遠に続くのです。
文字を持てば尚のこと。
そこがおそろしい。
・・・・・
日本語の世界にいれば、
新たな気付きが時に出てきて、
先のようなことも視野に入ってくる。
実に奥深い言語です。
さらにその先がある。
「明鏡止水、波一つない静かな水面に映せば、
世界は在るがままに映る」と。
欲を排し、我を捨てれば、
まんまの世界が写せると。
そしてそれを道として求める、
そういう文化が。
ちなみに言葉は基本的にデジタルだと。
ゆえに間があり闇があると。
さりながら日本語はそこも埋めている。
曰く、
言外の言、不立文字、行間を読め、空白の美、
等々。
それに一つの音で多くを伝える。
それに単語は区切らないで繋いでいる。
「てにをは」で。
真言に誠に、
奥が深い。