ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

にているもの

2019-12-23 15:11:22 | 日記・エッセイ・コラム
新約聖書と仏典は似ていると思う。
ともに弟子たちが師匠の言行を記録したものである。
少なくとも私はそう理解している。
なぜイエスや釈迦は書物を残さなかったのか。
言葉の限界を知っていたからだ。
人間にとって言葉とは、
現実を切り分け識別し、それを声として伝える、
或いは文字として残しておくもの、
である。
でも言葉は現実ではない。
あくまで現実を示唆するものでしかない。
言葉は手段である。
手段は手段である。
手段に囚われたら現実を見失う。
だから言葉は利用するとしても、
それは仮想でしかないと心得て、
他に方途を求める。
つまり全身全霊で現実(真理)に対峙するのです。
60兆個にも及ぶという細胞のすべてを動員して、
その「気」をもって感得するのです。
一部の器官(脳)だけに頼るのではない。
それが祈りであり悟りである。
そこに智慧がある。
・・・・・
釈迦が生きていた時代に聖書は成っている。
なら釈迦は聖書を知っていたかも知れない。
直接的には知らなくとも、
時代に存する聖書的霊性には触れていたと思う。
勿論インド・チベットの前仏教的・ヒンズー的霊性にも。
しかして、
当時の霊性の中で深く思いを致し、
一念発起して出家し、
種々の修行を行ない、
ときに菩提樹の下で悟りを開いた、
と謂う。
それを自分一人のものとせず、他者に伝えようとしたのです。
それが仏教の始まりです。
イエスはユダヤ人ユダヤ教徒である。
ユダヤ教にも宗派があるようですが、
イエスはエッセネ派に属していたと云われる。
エッセネ派には珍しく修行という方があった。
イエスもそれを行なっていただろう。
それが荒野の修行として、マタイの一文に見られる。
でも修行とはどこか仏教的である。
イエスは仏教を知っていたのかも知れない。
その幼少期から青年期にかけては、
新約聖書にはまったく記載がない。
最も多感な成長期である、どこで何をしていたのか。
どこか遠くへ(インド・チベット)行っていたのか。
研究者の中には、そう言う者もいる。
なら話は分かりやすい。
・・・・・
だからこそ、
実のところ、
キリスト教と仏教はどこか似ていると、
勝手ながらそう思っている。
イエスは磔刑に処せられたが、
復活して昇天するとき弟子達に告げた、
何れ人々を救済する為に戻ってくると。
その時(世の終りには)人々は、
雲に乗ってやって来る私を仰ぎ見ると。
所謂イエスの再臨である。
中近東ではよく見られるメシア(救世主)思想である。
仏教はそも自己完結の行法であり、
自らの力で悟りを開くものである。
他人を救うのが目的ではないのだ。
もともとはそうだろうが、いつのことか知らないが、
メシア思想が入ってくる。
メシアという語の音韻が変化してミロクになったと言われるが、
これが仏教でいう弥勒菩薩となり、
56億7千万年後に現れて人々を救済すると。
それに弥陀来迎図というのがある。
臨終に際して救済のため、
阿弥陀如来が雲に乗ってやって来ると。
これらはイエスの再臨とよく似ている。
どこかで交わっているのか。
根底では繋がっているのか。
・・・・・
日本は古来神仏習合である。
土着信仰の神道と伝来宗教の仏教とが習合していると。
でもである。
私にしてみれば
日本に来る前から神仏は習合していた、
のだと…。
この場合の神は神々ではなく、
主イエスではあるが。