goo blog サービス終了のお知らせ 

ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

イエスを信奉する者

2018-07-02 13:27:58 | 日記・エッセイ・コラム
イエスは十字架上で人間のすべての罪を背負い亡くなった。
そして三日後に復活した、とされている。
罪を犯し楽園を追放されたアダムの末裔、人類を救ったのである。
ところでなぜ天国と地獄があるのか。
地獄は救われない人が行くところだろう。
それは救われない人がいるということだ。
すべての人を救ったのではないか。
それでは話が違う。
更に煉獄とか謂う、訳の分らないものもある。
煉獄とは天国か地獄か決まるまでの間、一時的にいる場所らしい。
決まってないとは、如何?
神様の台詞とも思えない。
神様ならその瞬間に分かる筈だ。
これは方便である。
人間のわざとらしい方便である。
・・・・・
天国に行けるのは悔い改めた者だけだと謂う。
それは尤もなことである。
だがそれは救いには条件があるということだ。
そんなこと聞いてないと言ってもダメらしい。
それでは巷の商売と変わらない。
私は何もキリスト教を揶揄してるのではない。
ただ分からないのである。
もとよりクリスチャンではない。
それに特にキリスト教を学んでもいない。
幼少期に米国の戦後政策の一貫か、各地で日曜学校が開かれていた。
そこにはよく行っていた、おやつが貰えるから。
だがほとんど身に付いていない。
どうも伝道は失敗したようだ。
だから勿論聞きかじりの知識しかない。
分からないのは当然としても、
それにしても疑問に思うのだ。
・・・・・
日本人はその多くが無宗教だと言われる。
それは問われれば答えられないからだろうが、
本当に無宗教なのか。
身の回りにはお寺や神社が幾らでもある。
勿論教会もある。
時にお参りにも行く。
戦前の家にはたいてい仏壇や神棚があった。
葬式は仏式で、結婚は教会や神社で行うことが多い。
だから決して無宗教ではない。
敢えて言えば多宗教なのである。
一つの教えに縛られるのが嫌なのかも。
やはり自由がいいのだ。
自由とは身上のことではない、心魂のことである。
社会に縛りがあっても、心魂は自由でいたいのだ。
だから多宗教的になるのか。
でもこれはなかなか良いもので、
否定の論理を振り回さずに済む。
・・・・・
先に記した通り私はクリスチャンではない。
それでもイエスを疑わない。
イエスが神であることも疑わない。
日本人の常として宗教に縛られることがないから。
否定の論理も振り回さないのだ。
それどころか、むしろイエスの信奉者である。
宗教上のではなく、人間イエスのそして神であるイエスの…。
ところで新約聖書に記されているのだが、
イエスがオリーブ山におられるとき弟子が尋ねた、
終りの時には何が起きるのですかと、
その答えの一つに、
私(イエス)を騙る者があちこちに現れる、
その者たちに決して惑わされてはいけない、
と…。
誰がイエスを騙るのか。
それは善意を装う者、正義を語る者、違いを認めない者等である。
そして極めつけは世界を救うとまで言うだろう。
そういう輩は絶対に信用しない。
今はその終りの時かも知れない。
不法がはびこり愛が冷えている。

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。