イエスは十字架上で人間のすべての罪を背負い亡くなった。
そして三日後に復活した、とされている。
罪を犯し楽園を追放されたアダムの末裔、人類を救ったのである。
ところでなぜ天国と地獄があるのか。
地獄は救われない人が行くところだろう。
それは救われない人がいるということだ。
すべての人を救ったのではないか。
それでは話が違う。
更に煉獄とか謂う、訳の分らないものもある。
煉獄とは天国か地獄か決まるまでの間、一時的にいる場所らしい。
決まってないとは、如何?
神様の台詞とも思えない。
神様ならその瞬間に分かる筈だ。
これは方便である。
人間のわざとらしい方便である。
・・・・・
天国に行けるのは悔い改めた者だけだと謂う。
それは尤もなことである。
だがそれは救いには条件があるということだ。
そんなこと聞いてないと言ってもダメらしい。
それでは巷の商売と変わらない。
私は何もキリスト教を揶揄してるのではない。
ただ分からないのである。
もとよりクリスチャンではない。
それに特にキリスト教を学んでもいない。
幼少期に米国の戦後政策の一貫か、各地で日曜学校が開かれていた。
そこにはよく行っていた、おやつが貰えるから。
だがほとんど身に付いていない。
どうも伝道は失敗したようだ。
だから勿論聞きかじりの知識しかない。
分からないのは当然としても、
それにしても疑問に思うのだ。
・・・・・
日本人はその多くが無宗教だと言われる。
それは問われれば答えられないからだろうが、
本当に無宗教なのか。
身の回りにはお寺や神社が幾らでもある。
勿論教会もある。
時にお参りにも行く。
戦前の家にはたいてい仏壇や神棚があった。
葬式は仏式で、結婚は教会や神社で行うことが多い。
だから決して無宗教ではない。
敢えて言えば多宗教なのである。
一つの教えに縛られるのが嫌なのかも。
やはり自由がいいのだ。
自由とは身上のことではない、心魂のことである。
社会に縛りがあっても、心魂は自由でいたいのだ。
だから多宗教的になるのか。
でもこれはなかなか良いもので、
否定の論理を振り回さずに済む。
・・・・・
先に記した通り私はクリスチャンではない。
それでもイエスを疑わない。
イエスが神であることも疑わない。
日本人の常として宗教に縛られることがないから。
否定の論理も振り回さないのだ。
それどころか、むしろイエスの信奉者である。
宗教上のではなく、人間イエスのそして神であるイエスの…。
ところで新約聖書に記されているのだが、
イエスがオリーブ山におられるとき弟子が尋ねた、
終りの時には何が起きるのですかと、
その答えの一つに、
私(イエス)を騙る者があちこちに現れる、
その者たちに決して惑わされてはいけない、
と…。
誰がイエスを騙るのか。
それは善意を装う者、正義を語る者、違いを認めない者等である。
そして極めつけは世界を救うとまで言うだろう。
そういう輩は絶対に信用しない。
今はその終りの時かも知れない。
不法がはびこり愛が冷えている。
そして三日後に復活した、とされている。
罪を犯し楽園を追放されたアダムの末裔、人類を救ったのである。
ところでなぜ天国と地獄があるのか。
地獄は救われない人が行くところだろう。
それは救われない人がいるということだ。
すべての人を救ったのではないか。
それでは話が違う。
更に煉獄とか謂う、訳の分らないものもある。
煉獄とは天国か地獄か決まるまでの間、一時的にいる場所らしい。
決まってないとは、如何?
神様の台詞とも思えない。
神様ならその瞬間に分かる筈だ。
これは方便である。
人間のわざとらしい方便である。
・・・・・
天国に行けるのは悔い改めた者だけだと謂う。
それは尤もなことである。
だがそれは救いには条件があるということだ。
そんなこと聞いてないと言ってもダメらしい。
それでは巷の商売と変わらない。
私は何もキリスト教を揶揄してるのではない。
ただ分からないのである。
もとよりクリスチャンではない。
それに特にキリスト教を学んでもいない。
幼少期に米国の戦後政策の一貫か、各地で日曜学校が開かれていた。
そこにはよく行っていた、おやつが貰えるから。
だがほとんど身に付いていない。
どうも伝道は失敗したようだ。
だから勿論聞きかじりの知識しかない。
分からないのは当然としても、
それにしても疑問に思うのだ。
・・・・・
日本人はその多くが無宗教だと言われる。
それは問われれば答えられないからだろうが、
本当に無宗教なのか。
身の回りにはお寺や神社が幾らでもある。
勿論教会もある。
時にお参りにも行く。
戦前の家にはたいてい仏壇や神棚があった。
葬式は仏式で、結婚は教会や神社で行うことが多い。
だから決して無宗教ではない。
敢えて言えば多宗教なのである。
一つの教えに縛られるのが嫌なのかも。
やはり自由がいいのだ。
自由とは身上のことではない、心魂のことである。
社会に縛りがあっても、心魂は自由でいたいのだ。
だから多宗教的になるのか。
でもこれはなかなか良いもので、
否定の論理を振り回さずに済む。
・・・・・
先に記した通り私はクリスチャンではない。
それでもイエスを疑わない。
イエスが神であることも疑わない。
日本人の常として宗教に縛られることがないから。
否定の論理も振り回さないのだ。
それどころか、むしろイエスの信奉者である。
宗教上のではなく、人間イエスのそして神であるイエスの…。
ところで新約聖書に記されているのだが、
イエスがオリーブ山におられるとき弟子が尋ねた、
終りの時には何が起きるのですかと、
その答えの一つに、
私(イエス)を騙る者があちこちに現れる、
その者たちに決して惑わされてはいけない、
と…。
誰がイエスを騙るのか。
それは善意を装う者、正義を語る者、違いを認めない者等である。
そして極めつけは世界を救うとまで言うだろう。
そういう輩は絶対に信用しない。
今はその終りの時かも知れない。
不法がはびこり愛が冷えている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます