ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

イエスと親鸞

2018-07-09 16:06:23 | 日記・エッセイ・コラム
天国とか地獄とかは方便である。
人間が語るところの方便である。
と思っている。
生まれる前に居た場所へはすべてのものが帰る。
来た時と同じように何も持たずに。
生けるものは漏れなくであり、
これは絶対公平の世界である。
・・・・・
イエスは神への回帰を説いて廻った。
何よりその原点である聖書に帰れと。
当時の宗教界は信仰が形骸化していたのである。
そこから利益を得ようとするばかりで。
だからこそ彼に帰依する者も多くいた。
しかし指導者等既得権者は大反発したのである。
イエスはこれを厳しく断罪した。
だからこその十字架刑である。
そして人類のすべての罪を背負い昇天することとなる。
これは旧約聖書で預言されていたことでもあるようだ。
生前のイエスは断罪する前に悔い改めよと説いた筈だ。
天国に行けるとか行けないの問題ではない。
純粋に信仰の問題として。
なのにキリスト教は悔い改めなければ天国に行けないと言う。
なんの為に罪を背負って死んだのか。
すべての人間を救う為ではないのか。
ここがどうにも馴染めないところだ。
聖書にはイエスが再臨したとき、
彼ら(十字架に架けた者)も悔い改めると記されている。
悔い改めとは生きて天国の門を見ることではないのか。
あくまでも現世での救いなのでは。
私はそう思っている。
・・・・・
親鸞はそれを往生と言った。
弥陀の本願にすがり念仏を唱えれば、誰でも極楽往生できると。
往生は死後のことだが、許よりそれは現世での救いでもあろう。
なお親鸞曰く「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と。
これには二通りの解釈があるらしい。
一つは文字通りの善人と悪人である。
善人は当然往生するから敢えて救う必要がない、
悪人はだからこそ救う必要がある、
それが広大無辺な弥陀の本願だと。
一つは善人とは自制心なきがゆえ自らを顧みない人間で、
悪人とは自制心あるがゆえ自らを顧みて懊悩する人間だと。
そんな善人でも救うのだから、悪人を救わない筈がないと。
どちらが正しいのか。
と言うか、どちらでもいいのだろう。
すべての人が往生できると謂うなら。
してみれば、弥陀の本願とイエスの昇天(再臨)は同じではないか。
まったくのところ。
だとしたら、親鸞はイエスの衣鉢を継ぐ者かも…。
ともかく相似相ではある。
・・・・・
日本人たる私は多宗教的だからか、
宗教はその根で皆繋がってると思っている。
勿論神道も。
神道は宗教とは言っても少し違うようですが。
それは教ではなく道ですから。
神ながらの道・自然(じねん)の道とは楽園への帰り道であり、
すべての計らいを捨てればそこは楽園だとも思います。
未だ追放されてない虫や草木等のいる世界であります。
計らいこそ罪の原点だと思っているのだが、
これはまあ当方の思い込みでありまして、
まことに一方的な…。