天国とか地獄とかは方便である。
人間が語るところの方便である。
と思っている。
生まれる前に居た場所へはすべてのものが帰る。
来た時と同じように何も持たずに。
生けるものは漏れなくであり、
これは絶対公平の世界である。
・・・・・
イエスは神への回帰を説いて廻った。
何よりその原点である聖書に帰れと。
当時の宗教界は信仰が形骸化していたのである。
そこから利益を得ようとするばかりで。
だからこそ彼に帰依する者も多くいた。
しかし指導者等既得権者は大反発したのである。
イエスはこれを厳しく断罪した。
だからこその十字架刑である。
そして人類のすべての罪を背負い昇天することとなる。
これは旧約聖書で預言されていたことでもあるようだ。
生前のイエスは断罪する前に悔い改めよと説いた筈だ。
天国に行けるとか行けないの問題ではない。
純粋に信仰の問題として。
なのにキリスト教は悔い改めなければ天国に行けないと言う。
なんの為に罪を背負って死んだのか。
すべての人間を救う為ではないのか。
ここがどうにも馴染めないところだ。
聖書にはイエスが再臨したとき、
彼ら(十字架に架けた者)も悔い改めると記されている。
悔い改めとは生きて天国の門を見ることではないのか。
あくまでも現世での救いなのでは。
私はそう思っている。
・・・・・
親鸞はそれを往生と言った。
弥陀の本願にすがり念仏を唱えれば、誰でも極楽往生できると。
往生は死後のことだが、許よりそれは現世での救いでもあろう。
なお親鸞曰く「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と。
これには二通りの解釈があるらしい。
一つは文字通りの善人と悪人である。
善人は当然往生するから敢えて救う必要がない、
悪人はだからこそ救う必要がある、
それが広大無辺な弥陀の本願だと。
一つは善人とは自制心なきがゆえ自らを顧みない人間で、
悪人とは自制心あるがゆえ自らを顧みて懊悩する人間だと。
そんな善人でも救うのだから、悪人を救わない筈がないと。
どちらが正しいのか。
と言うか、どちらでもいいのだろう。
すべての人が往生できると謂うなら。
してみれば、弥陀の本願とイエスの昇天(再臨)は同じではないか。
まったくのところ。
だとしたら、親鸞はイエスの衣鉢を継ぐ者かも…。
ともかく相似相ではある。
・・・・・
日本人たる私は多宗教的だからか、
宗教はその根で皆繋がってると思っている。
勿論神道も。
神道は宗教とは言っても少し違うようですが。
それは教ではなく道ですから。
神ながらの道・自然(じねん)の道とは楽園への帰り道であり、
すべての計らいを捨てればそこは楽園だとも思います。
未だ追放されてない虫や草木等のいる世界であります。
計らいこそ罪の原点だと思っているのだが、
これはまあ当方の思い込みでありまして、
まことに一方的な…。
人間が語るところの方便である。
と思っている。
生まれる前に居た場所へはすべてのものが帰る。
来た時と同じように何も持たずに。
生けるものは漏れなくであり、
これは絶対公平の世界である。
・・・・・
イエスは神への回帰を説いて廻った。
何よりその原点である聖書に帰れと。
当時の宗教界は信仰が形骸化していたのである。
そこから利益を得ようとするばかりで。
だからこそ彼に帰依する者も多くいた。
しかし指導者等既得権者は大反発したのである。
イエスはこれを厳しく断罪した。
だからこその十字架刑である。
そして人類のすべての罪を背負い昇天することとなる。
これは旧約聖書で預言されていたことでもあるようだ。
生前のイエスは断罪する前に悔い改めよと説いた筈だ。
天国に行けるとか行けないの問題ではない。
純粋に信仰の問題として。
なのにキリスト教は悔い改めなければ天国に行けないと言う。
なんの為に罪を背負って死んだのか。
すべての人間を救う為ではないのか。
ここがどうにも馴染めないところだ。
聖書にはイエスが再臨したとき、
彼ら(十字架に架けた者)も悔い改めると記されている。
悔い改めとは生きて天国の門を見ることではないのか。
あくまでも現世での救いなのでは。
私はそう思っている。
・・・・・
親鸞はそれを往生と言った。
弥陀の本願にすがり念仏を唱えれば、誰でも極楽往生できると。
往生は死後のことだが、許よりそれは現世での救いでもあろう。
なお親鸞曰く「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と。
これには二通りの解釈があるらしい。
一つは文字通りの善人と悪人である。
善人は当然往生するから敢えて救う必要がない、
悪人はだからこそ救う必要がある、
それが広大無辺な弥陀の本願だと。
一つは善人とは自制心なきがゆえ自らを顧みない人間で、
悪人とは自制心あるがゆえ自らを顧みて懊悩する人間だと。
そんな善人でも救うのだから、悪人を救わない筈がないと。
どちらが正しいのか。
と言うか、どちらでもいいのだろう。
すべての人が往生できると謂うなら。
してみれば、弥陀の本願とイエスの昇天(再臨)は同じではないか。
まったくのところ。
だとしたら、親鸞はイエスの衣鉢を継ぐ者かも…。
ともかく相似相ではある。
・・・・・
日本人たる私は多宗教的だからか、
宗教はその根で皆繋がってると思っている。
勿論神道も。
神道は宗教とは言っても少し違うようですが。
それは教ではなく道ですから。
神ながらの道・自然(じねん)の道とは楽園への帰り道であり、
すべての計らいを捨てればそこは楽園だとも思います。
未だ追放されてない虫や草木等のいる世界であります。
計らいこそ罪の原点だと思っているのだが、
これはまあ当方の思い込みでありまして、
まことに一方的な…。