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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

原理主義の罠

2018-07-23 11:35:14 | 日記・エッセイ・コラム
主義主張を持つのはいいことだ。
信念を持つのもいいことだ。
およそ人の心は迷いの中にある。
それを支えるのに役に立つ。
それどころか必要だとさえ言えるだろう。
それはそうなのだが…。
・・・・・
主義主張や信念という言葉は謂わば空の箱である。
中にどんな内容が入っているかだ。
内容は各自が成長の過程で定めるものである。
さりとて人の成長には終わりがない。
生きてる限り成長し続けるのである。
だから中味も変わるだろう。
熟成するのは当然で、時に極端に変わることも…。
それに人だけでなく、世界もである。
この世界は変化こそ常態なのである。
太陽も星々も動いている。
それに河原の石も。
見た目には分からないが、内部では常に振動している。
人間世界も同様である。
もっとあからさまに動いている。
・・・・・
主義主張や信念はその中味は固定されていない。
でもどうも誤解されてるようだ。
固定しているものだと。
固定していてこそだと。
確かに頻繁に変わるのはおかしいだろう。
だが変わるものなのだ、本来。
まったく変わらないとしたら、
それは自己の創出たる主義や信念ではなく、
単に洗脳されてるだけだ。
件のオウム真理教の信者のように。
さらにである。
その上に原理という殻を付けることがある。
原理主義と謂う。
これがなお厄介である。
・・・・・
形は変わっても内奥には変わらないものがある。
つまり物事には根本法則がある、それを原理と謂う。
これは原理という言葉(殻)の概念である。
概念は人が創った幻想・妄想である。
念という殻がそれを示している。
念が現実に即していれば、その殻は力を発揮する。
しかして迷いは収められる。
だが現実から離れればどうだろう。
ただの幻想・妄想でしかない。
迷いを絶つための原理がむしろ迷いの種になる。
そして暴走する。
原理主義の罠である。
・・・・・
原理主義と謂うも言葉(殻)である。
結局問題は中味なのだ。
変わらない根本法則とは何なのか。
宗教から見れば、それは聖書やコーランなどの聖典である。
それら聖典も実は言葉で記されている。
元は神の言葉であっても、人の言葉で記されている。
でなければ人には分からない。
つまり所詮殻なのだ。
それに意味を持たせるのは現実である。
現実を見ずに殻にだけ拘れば暴走する。
今原理主義が暴走してるのはその故だ。
最近のことだがサウジアラビアで女性にも自動車の運転が許されたとか。
コーランに自動車の運転がダメと記してる筈がない。
現実は変化しているのだ。
その中で原理を守るとは如何…。
変わらないもの(原理)とは何なのか。
凡人にはとても分からない。
最後は神に聞く(祈る)より他ない。