ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

柱を立てる

2016-11-07 09:58:21 | 日記・エッセイ・コラム
人には誕生日がある。
父母が在るから生まれるのであり、
そして誕生し誕生日がある。
その時から慈しみの中で育ち、
育ちの中で教えや指導もある。
その上で立つのである。
一人の人間として。
人は一人で生まれてくるのではない。
人は一人で生きているのではない。
人は人とともに生きている。
人はすべての「もの」とともに生きている。
それが現実である。
・・・・・
人以外の生物も同じである。
そしてその生物の現実を生きる。
その生物の現実を。
ただ無心に生きる。
それを素直と謂う。
言葉を持たないものは、
命としての私はあっても、思いを持つ我は無い。
禅問答のようではあるが、
だから素直に生きられる。
人は面倒だ。
言葉があるから。
命としての私とともに、思いを持つ我が有る。
すなわち、
素直という言葉を持ったときから、
素直を意識させられ、
意識すればするほど分からなくなる。
これが人間だ。
・・・・・
だから柱を立てなければならない。
よりどころとなる柱を。
すべからく現実を認め、
善きにつけ悪しきにつけ現実に寄り添い、
その現実とともに生きる、
その精神の柱を。
柱は人それぞれ自由に立てればよい。
立てた柱を信じて仰ぎ見る。
そして思いを念じる。
信仰と祈りである。
信仰と祈りがあれば命(我)が鎮められ、
迷いがなくなる。
謙虚になり覚悟ができるのである。
謙虚という言葉は素晴らしい。
素直も素晴らしいのだが、これは難しいのである。
謙虚は意識しても立てられる。
というより、意識して立てるものである。
そしてそれは祈りとともにある。
・・・・・
日本は祈りの国である。
祈り主・祝い主・祭り主のおられる国である。
天皇がおられるのである。
国の真中・中心・中央に。
それも遥か遠く2676年も前から。
庶民もお参りに行くが、
結構気まぐれである。
それでもいいのである。
いつも天皇の祈りの中にあるから。
ご存知にように、
この祈りというものを見失ったのが、
シナ・朝鮮である。
父母が不明で、あやふやな誕生日しかなく、
つまり偽りの建国神話の中で、
祈りが無いから柱も立てられず、
政権維持に汲々としている。
それが彼らの現状である。
注意して見ていよう。
とばっちりを受けないように。
・・・・・
なおなお、
八百万の神様がおられる日本では、
柱とは、
神様の数え方である。






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