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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

核心となった習近平

2016-11-01 14:39:30 | 日記・エッセイ・コラム
この度のシナ共産党の重要会議で、
習近平は党の核心となったようだ。
そのような発表があった。
内部では激しい権力闘争があると聞いていたが、
それは収まったというのか。
そんなことはないだろう。
決定的な対立で党が壊れるのを避けるため、
取り敢えず収めたのだろう。
・・・・・
中華思想のシナには歴史的に核心がない。
中華という字義のとおり、皆それぞれ自分が中心なのである。
だから他人を立てることはない。
自分を立てられなければ屈服あるのみである。
それが中華思想であり、その裏返しの事大主義なのだ。
そんな世界に核心などない。
国を支える核心などできはしない。
強い者が王朝を立てるだけである。
そして力がなくなれば交代する。
その繰り返しだ。
それが中華の歴史である。
それが中華の泥仕合だ。
今もって何も変わっていない。
今回の件はそれを糊塗しているだけである。
もとより個人崇拝こそ壊れの元だ。
秦の始皇帝を持ち出すまでもない。
個人は死ねばすべて元の木阿弥になるしかないのだ。
いよいよ末期的症状である。
・・・・・
翻って日本は違う。
核心があるのだ。
国に核心があるのだ。
言うまでもないが、それは天皇である。
天皇は個人ではない。
天皇は天皇だ。
世々に引き継がれるものである。
神武天皇という初めはあるが、天皇に終わりはない。
日本が在る限り天皇は在る。
天皇が在る限り日本は在る。
それが日本である。
それが悠々たる(二千年を超える)日本の歴史である。
細切れのシナの歴史とは違う。
・・・・・
日本人ももちろん個人はそれぞれ自分が主役である。
主役であっても核心だとは思わない。
自分一人で生きているとは思わない。
世に生かされていると思い、
世のお陰様で生きていると思うのだ。
そういうことだが、それでは余りに取り留めがない。
相対的に過ぎるのだ。
そこに核心がある。
天皇という核心が。
それが安定の礎である。
それが国の礎である。