私は謙虚という言葉が好きである。
若い頃より、
「一に謙虚・二に謙虚・三四がなくて五に謙虚」
がモットーであった。
もちろん素直という言葉も好きである。
同じくらいに。
・・・・・
謙虚には相手がある。
相手に対しへりくだり、相手を仰ぎ見る。
そういう姿勢である。
それは人に対すれば人であり、
それは人でなくても構わない。
存在するものすべてが相手なのである。
存在するものすべての在るがままが相手なのである。
それを自然と謂う。
その自然はもとより、
その自然を在らしめる根源的力にこそ、
畏怖・畏敬するのである。
そしてその前で身を糺す。
これが謙虚である。
言うまでもないが、
これは日本人の信仰(祈り)であり、
日本人の心である。
・・・・・
もう20年も前になるだろうか、
海外旅行でエジプトに行ったことがある。
その時のことである。
ガイドに付いてくれたエジプト人女性が何気につぶやいた。
日本人は優しい、皆優しいと。
私は特段のことはしていない。
だからよくは分からなかった。
だが今なら分かる。
日本人が日本人であるからなのだ。
すなわち日本人の心を持っており、自ずと謙虚なのである。
結果、上から目線がないのである。
立場やお金の有無で人を計らない、
存在するものは等しく等価なのだ、
ということを無意識に実践しているのだろう。
そこが欧米人とは違ったのだ。
欧米人にはれっきとした信仰はあるのだが、
どうも独善と偽善の匂がするようだ。
もちろん日本人の中にもそういう輩はいるだろう。
でも彼女はそう言った。
・・・・・
素直は難しい。
かって松下幸之助翁がこれを推奨し研究もしたという。
でも、結局答えは出なかった。
これは言葉というものに根源的に関わっている。
素直と同様に難しいのが普通である。
無意識にやっているときはたぶん普通なのだろう。
だが普通にやってくれと言われたら、途端に普通にできなくなる。
例えばロケのエキストラで通行人役をする。
そこで普通に歩いて下さいと言われる。
言われたらその途端に普通に歩けなくなる。
というようなことである。
素直もこれと同じ。
つまり素の心とは無意識・無我の心である。
言葉はその無意識・無我に意識・我をもたらす。
なら素直とは無意識・無我を意識して行うということだ。
これは矛盾である。
絶対矛盾である。
これが簡単にできるなら、僧侶は座禅や修行などする必要がない。
お釈迦様も修行の必要などなかったのに。
ということになる。
・・・・・
思えば人は素直を実践していた時があった。
楽園(エデン)にいた時だ。
禁忌を守り、楽園にいた時だ。
言葉などという物騒なものを持たず生きていた。
今も人間以外はそうだ。
自然は今も楽園なのだ。
だから私はいつも言う。
自然は先生だ、いつでも・どこでもまったき先生なのだ。
彼の物理学で有名なホーキンス先生は言った。
人類は後100年で絶滅すると。
話半分としても、現実はどうもそのように動いている。
何とかせねばと思えど、如何ともしがたい。
もしそうなるなら、
それは神の意思であり、
神の裁きなのだろう。
救いの道は無いのか。
傲慢を廃し、謙虚を身に纏い、素直を実践する。
取り敢えず、
それしかない。
若い頃より、
「一に謙虚・二に謙虚・三四がなくて五に謙虚」
がモットーであった。
もちろん素直という言葉も好きである。
同じくらいに。
・・・・・
謙虚には相手がある。
相手に対しへりくだり、相手を仰ぎ見る。
そういう姿勢である。
それは人に対すれば人であり、
それは人でなくても構わない。
存在するものすべてが相手なのである。
存在するものすべての在るがままが相手なのである。
それを自然と謂う。
その自然はもとより、
その自然を在らしめる根源的力にこそ、
畏怖・畏敬するのである。
そしてその前で身を糺す。
これが謙虚である。
言うまでもないが、
これは日本人の信仰(祈り)であり、
日本人の心である。
・・・・・
もう20年も前になるだろうか、
海外旅行でエジプトに行ったことがある。
その時のことである。
ガイドに付いてくれたエジプト人女性が何気につぶやいた。
日本人は優しい、皆優しいと。
私は特段のことはしていない。
だからよくは分からなかった。
だが今なら分かる。
日本人が日本人であるからなのだ。
すなわち日本人の心を持っており、自ずと謙虚なのである。
結果、上から目線がないのである。
立場やお金の有無で人を計らない、
存在するものは等しく等価なのだ、
ということを無意識に実践しているのだろう。
そこが欧米人とは違ったのだ。
欧米人にはれっきとした信仰はあるのだが、
どうも独善と偽善の匂がするようだ。
もちろん日本人の中にもそういう輩はいるだろう。
でも彼女はそう言った。
・・・・・
素直は難しい。
かって松下幸之助翁がこれを推奨し研究もしたという。
でも、結局答えは出なかった。
これは言葉というものに根源的に関わっている。
素直と同様に難しいのが普通である。
無意識にやっているときはたぶん普通なのだろう。
だが普通にやってくれと言われたら、途端に普通にできなくなる。
例えばロケのエキストラで通行人役をする。
そこで普通に歩いて下さいと言われる。
言われたらその途端に普通に歩けなくなる。
というようなことである。
素直もこれと同じ。
つまり素の心とは無意識・無我の心である。
言葉はその無意識・無我に意識・我をもたらす。
なら素直とは無意識・無我を意識して行うということだ。
これは矛盾である。
絶対矛盾である。
これが簡単にできるなら、僧侶は座禅や修行などする必要がない。
お釈迦様も修行の必要などなかったのに。
ということになる。
・・・・・
思えば人は素直を実践していた時があった。
楽園(エデン)にいた時だ。
禁忌を守り、楽園にいた時だ。
言葉などという物騒なものを持たず生きていた。
今も人間以外はそうだ。
自然は今も楽園なのだ。
だから私はいつも言う。
自然は先生だ、いつでも・どこでもまったき先生なのだ。
彼の物理学で有名なホーキンス先生は言った。
人類は後100年で絶滅すると。
話半分としても、現実はどうもそのように動いている。
何とかせねばと思えど、如何ともしがたい。
もしそうなるなら、
それは神の意思であり、
神の裁きなのだろう。
救いの道は無いのか。
傲慢を廃し、謙虚を身に纏い、素直を実践する。
取り敢えず、
それしかない。