ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

謙虚と素直

2016-09-19 10:05:14 | 日記・エッセイ・コラム
私は謙虚という言葉が好きである。
若い頃より、
「一に謙虚・二に謙虚・三四がなくて五に謙虚」
がモットーであった。
もちろん素直という言葉も好きである。
同じくらいに。
・・・・・
謙虚には相手がある。
相手に対しへりくだり、相手を仰ぎ見る。
そういう姿勢である。
それは人に対すれば人であり、
それは人でなくても構わない。
存在するものすべてが相手なのである。
存在するものすべての在るがままが相手なのである。
それを自然と謂う。
その自然はもとより、
その自然を在らしめる根源的力にこそ、
畏怖・畏敬するのである。
そしてその前で身を糺す。
これが謙虚である。
言うまでもないが、
これは日本人の信仰(祈り)であり、
日本人の心である。
・・・・・
もう20年も前になるだろうか、
海外旅行でエジプトに行ったことがある。
その時のことである。
ガイドに付いてくれたエジプト人女性が何気につぶやいた。
日本人は優しい、皆優しいと。
私は特段のことはしていない。
だからよくは分からなかった。
だが今なら分かる。
日本人が日本人であるからなのだ。
すなわち日本人の心を持っており、自ずと謙虚なのである。
結果、上から目線がないのである。
立場やお金の有無で人を計らない、
存在するものは等しく等価なのだ、
ということを無意識に実践しているのだろう。
そこが欧米人とは違ったのだ。
欧米人にはれっきとした信仰はあるのだが、
どうも独善と偽善の匂がするようだ。
もちろん日本人の中にもそういう輩はいるだろう。
でも彼女はそう言った。
・・・・・
素直は難しい。
かって松下幸之助翁がこれを推奨し研究もしたという。
でも、結局答えは出なかった。
これは言葉というものに根源的に関わっている。
素直と同様に難しいのが普通である。
無意識にやっているときはたぶん普通なのだろう。
だが普通にやってくれと言われたら、途端に普通にできなくなる。
例えばロケのエキストラで通行人役をする。
そこで普通に歩いて下さいと言われる。
言われたらその途端に普通に歩けなくなる。
というようなことである。
素直もこれと同じ。
つまり素の心とは無意識・無我の心である。
言葉はその無意識・無我に意識・我をもたらす。
なら素直とは無意識・無我を意識して行うということだ。
これは矛盾である。
絶対矛盾である。
これが簡単にできるなら、僧侶は座禅や修行などする必要がない。
お釈迦様も修行の必要などなかったのに。
ということになる。
・・・・・
思えば人は素直を実践していた時があった。
楽園(エデン)にいた時だ。
禁忌を守り、楽園にいた時だ。
言葉などという物騒なものを持たず生きていた。
今も人間以外はそうだ。
自然は今も楽園なのだ。
だから私はいつも言う。
自然は先生だ、いつでも・どこでもまったき先生なのだ。
彼の物理学で有名なホーキンス先生は言った。
人類は後100年で絶滅すると。
話半分としても、現実はどうもそのように動いている。
何とかせねばと思えど、如何ともしがたい。
もしそうなるなら、
それは神の意思であり、
神の裁きなのだろう。
救いの道は無いのか。
傲慢を廃し、謙虚を身に纏い、素直を実践する。
取り敢えず、
それしかない。