ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

政治は祭りだ、てか

2016-09-10 13:44:49 | 日記・エッセイ・コラム
中国・杭州でのG20が終わった。
G7サミットもそうだが、これはまあお祭りである。
祭りにはその核に儀式がある。
大なり小なり儀式がある。
その儀式を取り巻いて更に様々な行事がある。
ということだが、行事も含めて祭り全体が儀式だとも言えるが。
その方がしっくりくる。
さて今回の祭りは?
・・・・・
儀式は何のためにあるのか。
もちろん見せるためである。
そこに参加した人に見せるためである。
メディアが発達した現在は、
参加してない人にも見せることができる。
見せてどうしようというのか。
それは仕切るためである。
人々を仕切るためである。
だから祭りとは政治なのである。
というより政治そのものなのだ。
なら冠婚葬祭なども政治なのか。
もちろん政治である。
それが個人や国であっても。
それなりに、そこにいる人々を仕切っている。
お互い揉めないように仲良くやろう、と。
困った時には助け合えればなお良い、と。
例えば国会(話合いという儀式)だがこれはまさに政治であろう。
例えばオリンピック(スポーツの祭典)だがこれも政治であろう。
争っていてもこの時だけは止めよう、とか。
オリンピックはスポーツだというが、
それはその通りだが、スポーツを通じての政治でもあるのだ。
だからそこに政治を持ち込むな、とは意味不明である。
もちろん直接的な持ち込みは良くないが。
ともあれ政治とは祭りなのだが、本来は宗教こそが祭りである。
ということは宗教も政治も根は同じなのだ。
少なくとも日本語ではこのことがよく分かる。
政治を「まつりごと」と言うのだ。
世界でも実態は同じだろうが、
語源としてはハテどうなのか。
・・・・・
今回は中国が主催である。
うまく治められたのか。
どうもそうではないようだ。
もともとシナは政治が下手である。
だから易姓革命を繰り返すばかりなのだ。
なにしろ中華思想である。
自己中心で自分の都合を押し付けるだけである。
うまく仕切れる筈がない。
それに知っての通り、
それだからこそ、
政治と歴史を一体で扱う。
結果歴史認識という嘘を吹聴するばかり。
さらに宗教が無いのである。
本来「まつりごと」とは宗教である。
同根である筈の一方が無いのである。
これは何も共産主義が宗教を否定してるからではない。
もともとなのだ、
形としての宗教はあっても、
その実が無いのは。
実とはつまり信仰(祈り)である。
それが無いのである。
シナの歴史はつらい、
のだ。