国に国宝があるように、
個人や家族にもお宝はある。
どれほどの価値かはともかく。
これは寺の宝の話である。
信憑性はよく分からないが、
それは西本願寺にあるという。
門外不出の重要なもので、
漢字で書かれた聖書だという。
にわかには信じられない。
・・・・・
本願寺といえば浄土真宗であり、開祖は親鸞である。
親鸞の言葉に有名なものがある。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」。
教えとしては衆人救済であり、自力ではなく他力を頼る。
他力とはつまり仏の力であり、仏の慈悲である。
仏の慈悲にすがり、
ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えていれば、
極楽浄土に行けると。
所謂他力本願である。
・・・・・
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」。
この言葉は聖書の言葉に通ずると思う。
悪人とは自らの罪を自覚するものであり、
聖書で言えば、人の原罪を知る者である。
罪を知らない脳天気な善人が天国に行けるなら、
罪を自覚して生きる者が天国に行けない筈がない。
なのだが、この親鸞の言葉には別の解釈もある。
悪人を文字通りに解釈するものである。
私見は両方とも是とするのだが。
本当のところは親鸞に聞かなければ分からない。
もう一つ、「南無阿弥陀仏」も聖書に通ずるのではと。
「南無阿弥陀仏」と唱えて、
ひたすら仏の慈悲にすがれば、
極楽浄土へ行けるというが、
それはキリスト者が「アーメン」と唱えて、
ひたすらイエスを信じていれば、
天国へ行けるというのと、
基本的に同じである。
・・・・・
と言う訳で、
私はこの寺宝の話は眉唾だとは思っていない。
それはともかく、
アフリカから拡散したという現在の人類・ホモサピエンスが、
その根底に持っている思い、
つまり信仰・宗教の根は同じであろうことに疑いはなく、
その点で言えば、
そもそも繋がっているのである。
個人や家族にもお宝はある。
どれほどの価値かはともかく。
これは寺の宝の話である。
信憑性はよく分からないが、
それは西本願寺にあるという。
門外不出の重要なもので、
漢字で書かれた聖書だという。
にわかには信じられない。
・・・・・
本願寺といえば浄土真宗であり、開祖は親鸞である。
親鸞の言葉に有名なものがある。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」。
教えとしては衆人救済であり、自力ではなく他力を頼る。
他力とはつまり仏の力であり、仏の慈悲である。
仏の慈悲にすがり、
ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えていれば、
極楽浄土に行けると。
所謂他力本願である。
・・・・・
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」。
この言葉は聖書の言葉に通ずると思う。
悪人とは自らの罪を自覚するものであり、
聖書で言えば、人の原罪を知る者である。
罪を知らない脳天気な善人が天国に行けるなら、
罪を自覚して生きる者が天国に行けない筈がない。
なのだが、この親鸞の言葉には別の解釈もある。
悪人を文字通りに解釈するものである。
私見は両方とも是とするのだが。
本当のところは親鸞に聞かなければ分からない。
もう一つ、「南無阿弥陀仏」も聖書に通ずるのではと。
「南無阿弥陀仏」と唱えて、
ひたすら仏の慈悲にすがれば、
極楽浄土へ行けるというが、
それはキリスト者が「アーメン」と唱えて、
ひたすらイエスを信じていれば、
天国へ行けるというのと、
基本的に同じである。
・・・・・
と言う訳で、
私はこの寺宝の話は眉唾だとは思っていない。
それはともかく、
アフリカから拡散したという現在の人類・ホモサピエンスが、
その根底に持っている思い、
つまり信仰・宗教の根は同じであろうことに疑いはなく、
その点で言えば、
そもそも繋がっているのである。