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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

寺宝

2016-01-18 10:42:33 | 日記・エッセイ・コラム
国に国宝があるように、
個人や家族にもお宝はある。
どれほどの価値かはともかく。
これは寺の宝の話である。
信憑性はよく分からないが、
それは西本願寺にあるという。
門外不出の重要なもので、
漢字で書かれた聖書だという。
にわかには信じられない。
・・・・・
本願寺といえば浄土真宗であり、開祖は親鸞である。
親鸞の言葉に有名なものがある。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」。
教えとしては衆人救済であり、自力ではなく他力を頼る。
他力とはつまり仏の力であり、仏の慈悲である。
仏の慈悲にすがり、
ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えていれば、
極楽浄土に行けると。
所謂他力本願である。
・・・・・
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」。
この言葉は聖書の言葉に通ずると思う。
悪人とは自らの罪を自覚するものであり、
聖書で言えば、人の原罪を知る者である。
罪を知らない脳天気な善人が天国に行けるなら、
罪を自覚して生きる者が天国に行けない筈がない。
なのだが、この親鸞の言葉には別の解釈もある。
悪人を文字通りに解釈するものである。
私見は両方とも是とするのだが。
本当のところは親鸞に聞かなければ分からない。
もう一つ、「南無阿弥陀仏」も聖書に通ずるのではと。
「南無阿弥陀仏」と唱えて、
ひたすら仏の慈悲にすがれば、
極楽浄土へ行けるというが、
それはキリスト者が「アーメン」と唱えて、
ひたすらイエスを信じていれば、
天国へ行けるというのと、
基本的に同じである。
・・・・・
と言う訳で、
私はこの寺宝の話は眉唾だとは思っていない。
それはともかく、
アフリカから拡散したという現在の人類・ホモサピエンスが、
その根底に持っている思い、
つまり信仰・宗教の根は同じであろうことに疑いはなく、
その点で言えば、
そもそも繋がっているのである。