goo blog サービス終了のお知らせ 

ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

自明の理

2015-07-28 09:38:37 | 日記・エッセイ・コラム
私にとっては自明の理である。
言葉とは現実に対する後付のレッテル貼りである。
一人歩きすれば最後は嘘になる。
祈りの無い言葉は必ず嘘になる。
・・・・・
日本人にとって言葉は祈りである。
さりながら庶民はそのことに余り気付いていない。
まあ仕方ない。
日常は利害得失の世界だから。
でも時折に顔を出す。
ここ一番で。
まことは常に我らの傍らにある。
まことは常に言葉の内にある。
就中、天皇の言葉は「まこと」である。
常に「まこと」である。
世間の言葉とは違う。
利害得失とはまったき無縁である。
宮中では数多の祭祀が行なわれているが、
そこでの言葉は如何にあるのか。
口に出して詠まれるのか、
心の内で念じられるのか、
知るよしもない。
ともかく、神に捧げるのである。
まさに祈りである。
・・・・・
年の初めには、歌会始めというのがある。
広く国民から歌を集めて披露する。
一年の言祝ぎとして。
この時はもちろんだが、
天皇も多くの歌をお詠みになる。
御製と言う。
歌は理屈ではない。
心の内奥から発する思いであり祈りである。
歌でなく言葉を発せられることもある。
詔という。
最も印象深い詔は「終戦の詔」である。
戦争はちょっとしたきっかけで始まる。
だが、終わらせるのは難しい。
それは今のイラクやアフガニスタンなどを見ればよく分かる。
日本はそれをこともなく為した。
その様子を映したフイルムがある。
それを見れば分かる。
真に詔の力は大きい。
詔が無ければどうなったことやら。
・・・・・
天皇は理屈を言わない。
説明をしないのである。
説明は残念ながら嘘の始りになる。
そこにはどうしても自分の都合が入る。
そして弁解や説得に汲々となる。
そもそも、神様には弁解も説得も通用しない。
「まこと」の心で祈るのみ。
その祈る主、祭る主、それが天皇である。
天皇はまさにそのように在る。
それが日本であり、
それが日本の柱である。



コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。