ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

神への冒涜

2015-07-06 16:48:05 | 日記・エッセイ・コラム
神を敬うのは素晴らしい。
神は本来一つであっても、
人によってその見え方や思いは異なる。
生まれた環境や育った文化などによっても異なる。
それに個人差もある。
人はそれぞれなのである。
だから神様も色々である。
・・・・・
日本人の信仰は柔らかく曖昧であるが、
それを多神教と言っている。
でも、根は一神教かもしれない。
どちらでも良いのだ。
ともかく自分の神を信仰するのだが、
他人の信ずる神を否定しない。
日本人なら当然のことである。
だから思う。
日本人にとって、
他人の信ずる神を否定するのは、
自分の信ずる神を含めて、
神そのものの否定となる。
それは神への冒涜である。
譬え、自分が神を信じていなくてもだ。
・・・・・
神の名において神を否定するのは矛盾だ。
一神教の世界ではそれが起こりやすい。
自分の神だけが正しく、他はすべてまやかしとなるから。
だから争いが高じれば、神の名において人を殺す。
これこそ、まったき神への冒涜である。
今、中東で起こってるのはこのことだ。
だが、本当の聖職者は分かってる。
神の名において人を殺すのは、
神への冒涜であることを。
テロの実際はつまりは生存をかけた生活闘争なのだ。
でなければ、一部の者の欲に駆られた仕掛けだろう。
どちらにしても、神の名を騙ることなかれ。
戦うなら自分の名で戦え、
そして相手を間違えるな、
と私は思う。
・・・・・
日本の先の戦争は、
生存をかけた自存自衛の戦争であり、
どこまでも、
自分の名で行ったものである。