神さまってどこにいるんだろう。
てかこれは以前に言ったことで、
神さまって居るもんではなく在るものである、と。
在るとはそれはすべての場所にである。
だからヒトにとっては知るものである。
知ると言ってもそれはメッチャ難しい。
知るまえに感じなければならない。
感じてこそ知ることができる。
そういうことだが、
何か禅問答のよう。
・・・・・
例えばDNA(遺伝子)を考える。
これは生命の設計図だと言う人もいる。
それはそうだろうと思う。
この設計図が無ければ生命は成り立たない。
だからこれは事実上神であろうと。
確かに神々しくはあるが。
でも勿論神ではない。
設計図は設計図です。
それは何も創らない。
創るのはそれを実行する者である。
それにその設計図を創るのは誰か。
それはそれを創る者がいるのです。
それが神です。
設計図を創りそれを実行するもの、
それが神です。
そんなことで、
生命という一点を捉えれば、
設計図はまさに神のごとし。
でもそれはその表面であり、
神は尚その奥にいるのです。
それは単に生命だけでなく、
存在(ものごと)のすべての奥にいるのです。
それは宇宙の隅々まで漏れなくである。
だから在るというものなのです。
それを聖書はIam としている。
その思いを以って、
私は神は知るものであると言う。
てかこの結論以外考えられない。
そんなところです。
・・・・・
生命を考える場合はDNAは避けて通れない。
でもそれ以前のことがある。
それは宇宙そのもののこと。
それは宇宙をどう捉えるかと言うこと。
これは学問でなら物理学ということか。
星々の存在とその動き及び変化のさま、
そしてそれらを包む大宇宙空間のこと、
はたまた、
分子や原子さらに電子などが飛び交う極微の世界。
これらは様相がおおきく違うが、
まったき同じ世界にあるもので、
互いに大きく影響しあっている。
てか一心同体そも同じものかと。
生命現象もその中に有るひとつ。
言うまでもないか。
ここにひとつ大きな錯覚がある。
それは人間は実に何も創ることが出来ない。
ものごとは創れないのです。
それを出来ると思っている。
人間が出来るのは、
神を知り神の技を知り、それをなぞることだけ。
ときに神のものごとに一寸手を加え、
形をかえ状態をかえることができる。
それだけのことである。
それができるのは言葉を持ったから。
その言葉は何をしてるのか。
それは「知る」ということ。
それ以上でもそれ以下でもない、
それがすべてです。
それが人間の始まりである。
聖書では初めに神は天と地を創ったと、
次に言葉によってものごとを創ったと。
それは無から有を創るようなもの、
そのように捉えている。
先ほどから「つくる」を何度も記しているが、
神のつくるは創るであり、
人のつくるは作るである。
人偏が付いているのです。
大和言葉ではそこに違いはないのだが、
漢字でなら違いを持たせられる。
しかもデジタルチックではなく。
それが漢字の良さである。
人間の作るはものごとの形状をかえているだけ、
無から有を創ってるのではない。
それが神の技と人の技の違いである。
それを知っておこう。
・・・・・
それを知っておけば、
騙されることが少なくなる。
騙されても他人のせいにはしない。
なぜこんなことを言うのか。
それは今騙しが横行しているからである。
世界の真ん中で愛を叫ぶのは素晴らしい、
そんな映画が過去にあった。
それが現下は、
世界の真ん中で白昼堂々のオレオレ詐欺てか。
しかもその規模が、でかい。
もう「何じゃこりゃ」状態。
にしても騙され過ぎである。
てか敢えて騙されてるのか。
強面に首根っこを掴まれて、
分かってるやろなと脅されれば、
分かってますと答えるしかない、
そんな状態なのか。
でもこんな状態が長続きするはずがない。
もう少しの辛抱か。
てかそう思いたい。
う~ん!
てかこれは以前に言ったことで、
神さまって居るもんではなく在るものである、と。
在るとはそれはすべての場所にである。
だからヒトにとっては知るものである。
知ると言ってもそれはメッチャ難しい。
知るまえに感じなければならない。
感じてこそ知ることができる。
そういうことだが、
何か禅問答のよう。
・・・・・
例えばDNA(遺伝子)を考える。
これは生命の設計図だと言う人もいる。
それはそうだろうと思う。
この設計図が無ければ生命は成り立たない。
だからこれは事実上神であろうと。
確かに神々しくはあるが。
でも勿論神ではない。
設計図は設計図です。
それは何も創らない。
創るのはそれを実行する者である。
それにその設計図を創るのは誰か。
それはそれを創る者がいるのです。
それが神です。
設計図を創りそれを実行するもの、
それが神です。
そんなことで、
生命という一点を捉えれば、
設計図はまさに神のごとし。
でもそれはその表面であり、
神は尚その奥にいるのです。
それは単に生命だけでなく、
存在(ものごと)のすべての奥にいるのです。
それは宇宙の隅々まで漏れなくである。
だから在るというものなのです。
それを聖書はIam としている。
その思いを以って、
私は神は知るものであると言う。
てかこの結論以外考えられない。
そんなところです。
・・・・・
生命を考える場合はDNAは避けて通れない。
でもそれ以前のことがある。
それは宇宙そのもののこと。
それは宇宙をどう捉えるかと言うこと。
これは学問でなら物理学ということか。
星々の存在とその動き及び変化のさま、
そしてそれらを包む大宇宙空間のこと、
はたまた、
分子や原子さらに電子などが飛び交う極微の世界。
これらは様相がおおきく違うが、
まったき同じ世界にあるもので、
互いに大きく影響しあっている。
てか一心同体そも同じものかと。
生命現象もその中に有るひとつ。
言うまでもないか。
ここにひとつ大きな錯覚がある。
それは人間は実に何も創ることが出来ない。
ものごとは創れないのです。
それを出来ると思っている。
人間が出来るのは、
神を知り神の技を知り、それをなぞることだけ。
ときに神のものごとに一寸手を加え、
形をかえ状態をかえることができる。
それだけのことである。
それができるのは言葉を持ったから。
その言葉は何をしてるのか。
それは「知る」ということ。
それ以上でもそれ以下でもない、
それがすべてです。
それが人間の始まりである。
聖書では初めに神は天と地を創ったと、
次に言葉によってものごとを創ったと。
それは無から有を創るようなもの、
そのように捉えている。
先ほどから「つくる」を何度も記しているが、
神のつくるは創るであり、
人のつくるは作るである。
人偏が付いているのです。
大和言葉ではそこに違いはないのだが、
漢字でなら違いを持たせられる。
しかもデジタルチックではなく。
それが漢字の良さである。
人間の作るはものごとの形状をかえているだけ、
無から有を創ってるのではない。
それが神の技と人の技の違いである。
それを知っておこう。
・・・・・
それを知っておけば、
騙されることが少なくなる。
騙されても他人のせいにはしない。
なぜこんなことを言うのか。
それは今騙しが横行しているからである。
世界の真ん中で愛を叫ぶのは素晴らしい、
そんな映画が過去にあった。
それが現下は、
世界の真ん中で白昼堂々のオレオレ詐欺てか。
しかもその規模が、でかい。
もう「何じゃこりゃ」状態。
にしても騙され過ぎである。
てか敢えて騙されてるのか。
強面に首根っこを掴まれて、
分かってるやろなと脅されれば、
分かってますと答えるしかない、
そんな状態なのか。
でもこんな状態が長続きするはずがない。
もう少しの辛抱か。
てかそう思いたい。
う~ん!
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