教とは教えであり、それは言葉のわざ。
それが宗となって、それが宗教となる。
まあそういうこと。
と言うことでこれで終わり、
シャンシャン。
ではありません、
・・・・・
宗教の前に言葉がある。
それを抜きにして宗教はあり得ない。
初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神だった、
とはヨハネの福音書の冒頭にある。
言葉とはそれほどのものであると。
人が言葉を持ったとき、
それまで曖昧であった世界が、
すごく明瞭に見えたのだろう。
でもそれは同時に不可思議を呼ぶ。
しかもそれは解いても解いても消えない。
そこでその根本の力を想う。
そして神を知る。
そして神を想う。
これが神の物語りの始まり。
初めは世界の創造から。
それから個々のものごとに。
かくて神を知り神を想いながら生きる。
それは神の言葉に依って神の道を歩くこと。
それは祈りと伴にある。
ときに生命の処し方を思う。
それが言葉により教となる。
しかしてその教が宗となる。
そしてここに宗教が始まる。
同時にこれは哲学科学の基となる。
とかなんとか、
勝手ながらの我が思い込み、
まあいいかと。
・・・・・
世界には大きな宗教がある。
日本では世界三大宗教と言っている。
それはキリスト教、イスラム教、仏教をもって。
世界では五大宗教だとか、
そこにユダヤ教、ヒンドゥー教を加えて。
ここではそれを、
キリスト教、仏教、儒教とする。
キリスト教イスラム教ユダヤ教は同じようなもの、
ともに一神教でありそも兄弟宗教だから。
ヒンドゥー教はよく知らないし。
しても他もよく知らないが。
私が言う三つの宗教は共通点がある。
ともに神を持たないところ。
これまでに言ったことだが、
一神教は神を外に見るから、
自己の内には神を持たない。
それが私を世界から切り離してしまう。
それゆえ我が強く出て来ることになる。
これがリベラルや無神論の要因となる。
そして信仰心が消えてゆく。
世に二元論と謂うのがある。
その一つが陰陽の二元論である。
でもこれは良いのです。
これは共に在るもので一方が一方を否定しない。
むしろその存在を支え合う。
だが一神教が発する二元論は頂けない。
一方が一方を否定する、それも容赦なくである。
これが欧米混迷の主因かと。
この先、一体どうなるのか。
はてさて!
仏教はそも神を想定しない。
己の力で世界と一体化しようとするもの。
それを修行で行おうとする。
厳しい荒行や座禅の瞑想で。
それを悟りと言っているが、
これは祈りに匹敵する方途。
もとよりお釈迦様は神を蔑ろにしてはいない。
脳(身体の一部)だけでは得られないものを、
脳も含めた全身全霊で得ようとのことか。
私の言葉で言うと、
自己の全細胞を目の前の現実と正対させ、
まったき同期同調するもの。
だからそれは教ではないと。
そも宗教ではないのだ。
でも経典がある。
それは概ねお釈迦様の言行録である。
それは言葉(=教)だから、
それが素晴らしければ教の宗となる。
だから今仏教としてある。
儒教はそも神を持ち出さない。
でも神を否定していない。
只持ち出さないだけです。
孔子の言あり、我鬼神を語らず、と。
孔子は専ら社会の在り方を糺そうとした。
為にその方途としては鬼神は持ち出さず、
あくまで合理的に処そうとしたのだ。
それは上から見れば世を治めるすべ、
それは個から見れば処世術、
というものか。
ゆえ宗教的な匂いはしない。
でもその教えは素晴らしく、
それが後々伝えられ教の宗となった。
だから今儒教と言っている。
ちなみに薬が効きすぎたか、
今やシナは完全に神を見失っている。
まったくオレオレの世界である。
どこか今の欧米に似ている。
これもどうなるのやら。
・・・・・
ところで知る限り、
日本は例外である。
近代国家としては例外なのです。
それは日本人の多くが無宗教だと謂うこと。
これは宗教が無いということではない。
特定の宗教に拘らないと謂うことです。
それは生き方の総体である文化による。
それは心中を神でうずめる。
しかもそれを意識させない。
これほど強固な信仰はない。
それは宗教がなる前の瑞々しい心です。
それを良しとするもの。
だから理屈を嫌い歌を好む。
だから勢い無宗教的になる。
ちなみにこれは無神論とは真逆のもの。
そこはお間違え無く。
この文化は神の言葉に依って神の道を行くが如し。
このことに気付けばすべてが氷塊する。
神道とは宗教にあらず、
生き方そのものである。
私は文化を生き方の総体としている、
ゆえ日本の文化はほぼ神道そのもの、
そこに日本人はあるのです。
ちなみに日本は神仏混交・神仏習合と言われる。
さもありなんです。
神道と仏教は相性が良いのです。
てかむしろ補完的関係のような。
なら儒教はどうだろう。
これも結構補完的だと思う。
そも神を持ち出さず、修行や瞑想等もない。
生きる上での合理性を追求するもの。
そこに何の軋轢もない。
と謂うことで、
これはもう神仏儒混交と言ってもいいかも。
にしても根っこにあるのは神道、
これ間違いなし。
してもお釈迦様も孔子先生らももういない。
でも天皇陛下は在られる。
世々代々繋いで今上に在られる。
生きて今に在られるのです
そういう存在なのです。
これは奇跡である。
・・・・・
日本人で良かった。
これは実に有り難いことです。
それにしても、
ここに記したのは、
私の一方的な言葉遊びであり、
当たるも八卦当たらぬも八卦みたいなもの、
こういう発想を得られるのも、
すべて私が日本人であるから、
そして日本語の持つ力のお陰。
日本と日本語に、
そして天皇陛下に感謝、
ということで、
ハイ!
それが宗となって、それが宗教となる。
まあそういうこと。
と言うことでこれで終わり、
シャンシャン。
ではありません、
・・・・・
宗教の前に言葉がある。
それを抜きにして宗教はあり得ない。
初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神だった、
とはヨハネの福音書の冒頭にある。
言葉とはそれほどのものであると。
人が言葉を持ったとき、
それまで曖昧であった世界が、
すごく明瞭に見えたのだろう。
でもそれは同時に不可思議を呼ぶ。
しかもそれは解いても解いても消えない。
そこでその根本の力を想う。
そして神を知る。
そして神を想う。
これが神の物語りの始まり。
初めは世界の創造から。
それから個々のものごとに。
かくて神を知り神を想いながら生きる。
それは神の言葉に依って神の道を歩くこと。
それは祈りと伴にある。
ときに生命の処し方を思う。
それが言葉により教となる。
しかしてその教が宗となる。
そしてここに宗教が始まる。
同時にこれは哲学科学の基となる。
とかなんとか、
勝手ながらの我が思い込み、
まあいいかと。
・・・・・
世界には大きな宗教がある。
日本では世界三大宗教と言っている。
それはキリスト教、イスラム教、仏教をもって。
世界では五大宗教だとか、
そこにユダヤ教、ヒンドゥー教を加えて。
ここではそれを、
キリスト教、仏教、儒教とする。
キリスト教イスラム教ユダヤ教は同じようなもの、
ともに一神教でありそも兄弟宗教だから。
ヒンドゥー教はよく知らないし。
しても他もよく知らないが。
私が言う三つの宗教は共通点がある。
ともに神を持たないところ。
これまでに言ったことだが、
一神教は神を外に見るから、
自己の内には神を持たない。
それが私を世界から切り離してしまう。
それゆえ我が強く出て来ることになる。
これがリベラルや無神論の要因となる。
そして信仰心が消えてゆく。
世に二元論と謂うのがある。
その一つが陰陽の二元論である。
でもこれは良いのです。
これは共に在るもので一方が一方を否定しない。
むしろその存在を支え合う。
だが一神教が発する二元論は頂けない。
一方が一方を否定する、それも容赦なくである。
これが欧米混迷の主因かと。
この先、一体どうなるのか。
はてさて!
仏教はそも神を想定しない。
己の力で世界と一体化しようとするもの。
それを修行で行おうとする。
厳しい荒行や座禅の瞑想で。
それを悟りと言っているが、
これは祈りに匹敵する方途。
もとよりお釈迦様は神を蔑ろにしてはいない。
脳(身体の一部)だけでは得られないものを、
脳も含めた全身全霊で得ようとのことか。
私の言葉で言うと、
自己の全細胞を目の前の現実と正対させ、
まったき同期同調するもの。
だからそれは教ではないと。
そも宗教ではないのだ。
でも経典がある。
それは概ねお釈迦様の言行録である。
それは言葉(=教)だから、
それが素晴らしければ教の宗となる。
だから今仏教としてある。
儒教はそも神を持ち出さない。
でも神を否定していない。
只持ち出さないだけです。
孔子の言あり、我鬼神を語らず、と。
孔子は専ら社会の在り方を糺そうとした。
為にその方途としては鬼神は持ち出さず、
あくまで合理的に処そうとしたのだ。
それは上から見れば世を治めるすべ、
それは個から見れば処世術、
というものか。
ゆえ宗教的な匂いはしない。
でもその教えは素晴らしく、
それが後々伝えられ教の宗となった。
だから今儒教と言っている。
ちなみに薬が効きすぎたか、
今やシナは完全に神を見失っている。
まったくオレオレの世界である。
どこか今の欧米に似ている。
これもどうなるのやら。
・・・・・
ところで知る限り、
日本は例外である。
近代国家としては例外なのです。
それは日本人の多くが無宗教だと謂うこと。
これは宗教が無いということではない。
特定の宗教に拘らないと謂うことです。
それは生き方の総体である文化による。
それは心中を神でうずめる。
しかもそれを意識させない。
これほど強固な信仰はない。
それは宗教がなる前の瑞々しい心です。
それを良しとするもの。
だから理屈を嫌い歌を好む。
だから勢い無宗教的になる。
ちなみにこれは無神論とは真逆のもの。
そこはお間違え無く。
この文化は神の言葉に依って神の道を行くが如し。
このことに気付けばすべてが氷塊する。
神道とは宗教にあらず、
生き方そのものである。
私は文化を生き方の総体としている、
ゆえ日本の文化はほぼ神道そのもの、
そこに日本人はあるのです。
ちなみに日本は神仏混交・神仏習合と言われる。
さもありなんです。
神道と仏教は相性が良いのです。
てかむしろ補完的関係のような。
なら儒教はどうだろう。
これも結構補完的だと思う。
そも神を持ち出さず、修行や瞑想等もない。
生きる上での合理性を追求するもの。
そこに何の軋轢もない。
と謂うことで、
これはもう神仏儒混交と言ってもいいかも。
にしても根っこにあるのは神道、
これ間違いなし。
してもお釈迦様も孔子先生らももういない。
でも天皇陛下は在られる。
世々代々繋いで今上に在られる。
生きて今に在られるのです
そういう存在なのです。
これは奇跡である。
・・・・・
日本人で良かった。
これは実に有り難いことです。
それにしても、
ここに記したのは、
私の一方的な言葉遊びであり、
当たるも八卦当たらぬも八卦みたいなもの、
こういう発想を得られるのも、
すべて私が日本人であるから、
そして日本語の持つ力のお陰。
日本と日本語に、
そして天皇陛下に感謝、
ということで、
ハイ!
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