ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

闇をつくるもの

2019-07-29 12:38:40 | 日記・エッセイ・コラム
光あるところ影あり。
そこに物があれば必ず影ができる。
しかして、光良し、影もまた良しである。
それが世界である。
それが宇宙である。
さりながら、光なければ影もなし。
それが闇である。
もう一つ、
光があっても、
まったきに遮る物が有れば、
そこに闇ができる。
逆に遮る物がまったく無ければ、
それも闇のごとし。
これ私の念仏なり。
・・・・・
ところで多くの人は魂と云う言葉を知っている。
でも在ると信じてる人はいるのだろうか。
必ずいると思う、私がそうであるように。
特にこの日本には。
とは言っても、目には見えないし、
匂いも手触りも全く感じられない。
懐疑的な人が多いのが現実だろう。
でも敢えて言う、必ず在ると。
彼方は何を持って彼方なのか。
その肉体か。
肉体は死ねばただの物になる。
それを残された身体、遺体と言っている。
もはや、彼方ではないのだ。
では彼方とは一体何なのか。
それは彼方の全身から発せられる思いであろう。
彼方の思いこそ彼方に違いない。
そう思わざるを得ないし、
そうに違いない。
その思いの発信元・発信源を魂と謂う。
なら、在るとか無いとかに意味はない。
そう定義したなら在るとしか言えない。
だから、在るのです。
・・・・・
魂が現実に感応して発した音が声である。
人間はそれに意味を与えた。
それが言葉である。
言葉とは魂に写した現実の影なのだ。
魂から見れば、それは依代であり現実を仮想する。
言葉に魂が宿ると言われるのは、この故です。
彼方の言葉は彼方の思いであり、
現実に感応した魂の影なのです。
しかして、時に影が闇になる。
今回の「京アニ」事件の犯人には深い闇がある。
彼は知らぬ間に闇をつくってしまった。
自分の言葉を見失ったのです。
それでも現実に戻れば修正できたろうに。
現実という光から離れた言葉は、
影という模様を見失ってしまい、
自分の自分たる所以に蓋をして、
そして闇をつくった。
・・・・・
訳の分からないことを縷々述べてきたが、
私が思うところは、
いつも同じながら、
観念論的な言辞に惑わされず、
現実に生きようということで、
生物としては当然のことです。
楽園を追放されたという聖書の記述を想い起こそう。
禁忌である智慧の実は必ず毒になると。
だからです、
私が左派・リベラルを嫌うのは。
彼らは言葉遊びが過ぎるのです。
その挙句現実を見失い、
方々に闇をまき散らす。

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