きょうきって凶器のことです。
凶器っておどろおどろしいものだから、
ゆえひらがなで記しているのです。
これは何かって言えば、
人間の最終兵器である、
言葉のことであります。
まあずっと前から言ってます。
性懲りもなく。
・・・・・
言葉は脳が創っている。
と皆思っているだろう。
それは半分は正しいと。
でも脳は脳だけで創っているのではない。
體が発した情報を元にしている。
眼、耳、鼻、舌、皮膚、他諸々。
それらからの情報なしでは創れない。
それを思うのです。
それを脳が処理して言葉にする。
そして脳に貯める。
と言うことは、
その初めは現実がすべてであり、
それに基づいているということ。
であるがある程度出来てくると、
脳は脳だけで創ることも出来る。
これを一般的には抽象とか言う。
でも無から有は生まれない。
結局はすべて現実にかえる。
脳も體にある器官のひとつ。
その役割が違うだけで。
中枢的役割ではあるが、
あくまで役割なのです。
ちなみに余談だが、
心がどこにあるかとの問いには、
答えは一つ、それは體にあると。
脳だと誤解している向きもある。
私の心は私の全細胞の総意としてあると。
細胞の一つひとつは対等なのだ。
だから当然でしょう。
でも人間は言葉の生き物である。
四六時中言葉に憑りつかれてる。
ここに誤解が生じる。
言葉が脳にあるから。
結局すべては脳だと。
確かに有意識の意識は脳にある。
でも無意識の意識は體にあると。
他の生き物がそうであるように。
しかも無意識の方が本体だろう。
そう思うのです。
・・・・・
前段が長くなったがここで本題。
ここで凶器のこと。
ちなみに言葉は道具であり、
本来は利器としてあるがときに凶器にもなる。
ここにその典型的な凶器がある。
それが「人権」と「差別」です。
これは凄いですよ、鉄壁のコンビです。
これは奴隷の発想である。
ちなみに奴隷が発生するのは、
そこが奪い合いの世界だから。
しても奴隷を必要とするところでは、
奴隷は大事な資産であり、
供給が多ければ使い捨て、
でなければ使い方を考慮。
だからもあって人権という言葉が出来たのか。
皆同じ人間と謂うならそんな言葉は必要ない。
そこに区別があるからで、
それを階級と言っている。
その最下層が奴隷である。
そこに出て来た発想かと。
それは階級間の軋轢も軽減させる。
何とも都合のいい言葉である、
これが支配者の道具に重宝されている。
しても持ち出したのは奴隷自身ではなかろう。
支配者の側でありあくまで政治的道具として。
そういうものである。
区別と記したが差別でも同じ、
意味としては同じようなもの、
どちらも違いということです。
でも差別と謂う言葉は人権とコンビになって、
徹底的に貶められた。
今や負のイメージで雁字搦め。
であるが、
それが限定的に使われるならまだ辛抱できる。
でも今やことあるごとに持ち出される。
実に不穏な時代となった。
ところで自由人の国日本では、
そんな言葉は必要ありません。
人間という言葉があれば十分。
そも奴隷もいない階級もない、
中心はあっても頂点がない国、
そんな一君万民の国なのです。
それがお互い様と助け合いで生きている。
なのにである…、
・・・・・
ちなみに何度も言ってきたが、
言葉はレッテルに過ぎないと。
現実の「ものごと」に貼ったレッテルである。
レッテルを貼っても中身は変わりません。
なのに中身ではなくレッテルにこだわる。
そして終にレッテルが現実にすり替わる。
これがリベラルの手口であり、
ときに言葉が凶器となる。
ちなみに「まこと」は誠と記すが、
これは「こと」が「なる」であり、
もとより神の言葉のこと。
これに倣おうとしたのが人の言葉。
ここに科学の精神がある。
ゆえ科学はことがなせる。
正しく神の「ことわり(理)}を見い出せば。
正しく現の実の「こと(事)」を割り出せば。
しても何だろう今の世界の有様は。
始まりの物語りを取り戻そう。
神の物語りを取り戻そう。
體のDNAとは別のもの、
もう一つのDNAを、
心魂の発現たる人の言葉に潜むDNAを。
それを取り戻しましょう。
それを「まこと」という。
凶器っておどろおどろしいものだから、
ゆえひらがなで記しているのです。
これは何かって言えば、
人間の最終兵器である、
言葉のことであります。
まあずっと前から言ってます。
性懲りもなく。
・・・・・
言葉は脳が創っている。
と皆思っているだろう。
それは半分は正しいと。
でも脳は脳だけで創っているのではない。
體が発した情報を元にしている。
眼、耳、鼻、舌、皮膚、他諸々。
それらからの情報なしでは創れない。
それを思うのです。
それを脳が処理して言葉にする。
そして脳に貯める。
と言うことは、
その初めは現実がすべてであり、
それに基づいているということ。
であるがある程度出来てくると、
脳は脳だけで創ることも出来る。
これを一般的には抽象とか言う。
でも無から有は生まれない。
結局はすべて現実にかえる。
脳も體にある器官のひとつ。
その役割が違うだけで。
中枢的役割ではあるが、
あくまで役割なのです。
ちなみに余談だが、
心がどこにあるかとの問いには、
答えは一つ、それは體にあると。
脳だと誤解している向きもある。
私の心は私の全細胞の総意としてあると。
細胞の一つひとつは対等なのだ。
だから当然でしょう。
でも人間は言葉の生き物である。
四六時中言葉に憑りつかれてる。
ここに誤解が生じる。
言葉が脳にあるから。
結局すべては脳だと。
確かに有意識の意識は脳にある。
でも無意識の意識は體にあると。
他の生き物がそうであるように。
しかも無意識の方が本体だろう。
そう思うのです。
・・・・・
前段が長くなったがここで本題。
ここで凶器のこと。
ちなみに言葉は道具であり、
本来は利器としてあるがときに凶器にもなる。
ここにその典型的な凶器がある。
それが「人権」と「差別」です。
これは凄いですよ、鉄壁のコンビです。
これは奴隷の発想である。
ちなみに奴隷が発生するのは、
そこが奪い合いの世界だから。
しても奴隷を必要とするところでは、
奴隷は大事な資産であり、
供給が多ければ使い捨て、
でなければ使い方を考慮。
だからもあって人権という言葉が出来たのか。
皆同じ人間と謂うならそんな言葉は必要ない。
そこに区別があるからで、
それを階級と言っている。
その最下層が奴隷である。
そこに出て来た発想かと。
それは階級間の軋轢も軽減させる。
何とも都合のいい言葉である、
これが支配者の道具に重宝されている。
しても持ち出したのは奴隷自身ではなかろう。
支配者の側でありあくまで政治的道具として。
そういうものである。
区別と記したが差別でも同じ、
意味としては同じようなもの、
どちらも違いということです。
でも差別と謂う言葉は人権とコンビになって、
徹底的に貶められた。
今や負のイメージで雁字搦め。
であるが、
それが限定的に使われるならまだ辛抱できる。
でも今やことあるごとに持ち出される。
実に不穏な時代となった。
ところで自由人の国日本では、
そんな言葉は必要ありません。
人間という言葉があれば十分。
そも奴隷もいない階級もない、
中心はあっても頂点がない国、
そんな一君万民の国なのです。
それがお互い様と助け合いで生きている。
なのにである…、
・・・・・
ちなみに何度も言ってきたが、
言葉はレッテルに過ぎないと。
現実の「ものごと」に貼ったレッテルである。
レッテルを貼っても中身は変わりません。
なのに中身ではなくレッテルにこだわる。
そして終にレッテルが現実にすり替わる。
これがリベラルの手口であり、
ときに言葉が凶器となる。
ちなみに「まこと」は誠と記すが、
これは「こと」が「なる」であり、
もとより神の言葉のこと。
これに倣おうとしたのが人の言葉。
ここに科学の精神がある。
ゆえ科学はことがなせる。
正しく神の「ことわり(理)}を見い出せば。
正しく現の実の「こと(事)」を割り出せば。
しても何だろう今の世界の有様は。
始まりの物語りを取り戻そう。
神の物語りを取り戻そう。
體のDNAとは別のもの、
もう一つのDNAを、
心魂の発現たる人の言葉に潜むDNAを。
それを取り戻しましょう。
それを「まこと」という。
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