ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

きょうき

2024-08-05 09:00:22 | 日記・エッセイ・コラム
きょうきって凶器のことです。
凶器っておどろおどろしいものだから、
ゆえひらがなで記しているのです。
これは何かって言えば、
人間の最終兵器である、
言葉のことであります。
まあずっと前から言ってます。
性懲りもなく。
・・・・・
言葉は脳が創っている。
と皆思っているだろう。
それは半分は正しいと。
でも脳は脳だけで創っているのではない。
體が発した情報を元にしている。
眼、耳、鼻、舌、皮膚、他諸々。
それらからの情報なしでは創れない。
それを思うのです。
それを脳が処理して言葉にする。
そして脳に貯める。
と言うことは、
その初めは現実がすべてであり、
それに基づいているということ。
であるがある程度出来てくると、
脳は脳だけで創ることも出来る。
これを一般的には抽象とか言う。
でも無から有は生まれない。
結局はすべて現実にかえる。
脳も體にある器官のひとつ。
その役割が違うだけで。
中枢的役割ではあるが、
あくまで役割なのです。
ちなみに余談だが、
心がどこにあるかとの問いには、
答えは一つ、それは體にあると。
脳だと誤解している向きもある。
私の心は私の全細胞の総意としてあると。
細胞の一つひとつは対等なのだ。
だから当然でしょう。
でも人間は言葉の生き物である。
四六時中言葉に憑りつかれてる。
ここに誤解が生じる。
言葉が脳にあるから。
結局すべては脳だと。
確かに有意識の意識は脳にある。
でも無意識の意識は體にあると。
他の生き物がそうであるように。
しかも無意識の方が本体だろう。
そう思うのです。
・・・・・
前段が長くなったがここで本題。
ここで凶器のこと。
ちなみに言葉は道具であり、
本来は利器としてあるがときに凶器にもなる。
ここにその典型的な凶器がある。
それが「人権」と「差別」です。
これは凄いですよ、鉄壁のコンビです。
これは奴隷の発想である。
ちなみに奴隷が発生するのは、
そこが奪い合いの世界だから。
しても奴隷を必要とするところでは、
奴隷は大事な資産であり、
供給が多ければ使い捨て、
でなければ使い方を考慮。
だからもあって人権という言葉が出来たのか。
皆同じ人間と謂うならそんな言葉は必要ない。
そこに区別があるからで、
それを階級と言っている。
その最下層が奴隷である。
そこに出て来た発想かと。
それは階級間の軋轢も軽減させる。
何とも都合のいい言葉である、
これが支配者の道具に重宝されている。
しても持ち出したのは奴隷自身ではなかろう。
支配者の側でありあくまで政治的道具として。
そういうものである。
区別と記したが差別でも同じ、
意味としては同じようなもの、
どちらも違いということです。
でも差別と謂う言葉は人権とコンビになって、
徹底的に貶められた。
今や負のイメージで雁字搦め。
であるが、
それが限定的に使われるならまだ辛抱できる。
でも今やことあるごとに持ち出される。
実に不穏な時代となった。
ところで自由人の国日本では、
そんな言葉は必要ありません。
人間という言葉があれば十分。
そも奴隷もいない階級もない、
中心はあっても頂点がない国、
そんな一君万民の国なのです。
それがお互い様と助け合いで生きている。
なのにである…、
・・・・・
ちなみに何度も言ってきたが、
言葉はレッテルに過ぎないと。
現実の「ものごと」に貼ったレッテルである。
レッテルを貼っても中身は変わりません。
なのに中身ではなくレッテルにこだわる。
そして終にレッテルが現実にすり替わる。
これがリベラルの手口であり、
ときに言葉が凶器となる。
ちなみに「まこと」は誠と記すが、
これは「こと」が「なる」であり、
もとより神の言葉のこと。
これに倣おうとしたのが人の言葉。
ここに科学の精神がある。
ゆえ科学はことがなせる。
正しく神の「ことわり(理)}を見い出せば。
正しく現の実の「こと(事)」を割り出せば。
しても何だろう今の世界の有様は。
始まりの物語りを取り戻そう。
神の物語りを取り戻そう。
體のDNAとは別のもの、
もう一つのDNAを、
心魂の発現たる人の言葉に潜むDNAを。
それを取り戻しましょう。
それを「まこと」という。

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