お金は不浄なるものである。
とは昔はよく言われていた、この日本では。
今は逆に有難がられており、
万事がお金の世の中となる。
まことに、
まことに。
・・・・・
そも寄り集まって生きることを選んだときから、
人間社会は大なり小なり分業社会になっている。
そこではお互いの働きの交換が必要になる。
それは多分思っているより大昔からだろう。
想うにヒトが人間になったときからか。
でもまだ小さな社会ならその交換にお金は不要だろう。
でも社会が大きくなり人も物も多くなれば難しくなる。
ときに交換の目安・尺度が必要になる。
それが今で言うお金というもの。
それは何でもいいのだが実際はそうもいかないと。
それは誰もが価値を認められるものでないと。
現実の中でそれに相応しいものがあれば、
それが仲立ちをして交換が成立する。
それ自体はそこに無くてもいい、
あくまである体でいいのだ。
知っての通りそれが歴史的に「金」であったと。
それは実にそのものが通貨になっている。
この他には銀や銅もそうである。
宝石もあろうがこれは通貨には向かない。
少な過ぎる上その品質も一定しないから。
また例えば米もある。
これは生きるために絶対的に必要なもの、
だから物の中心にあり価値の基準となる。
この場合米自体が通貨になるのではない。
あくまで価値の基準なのです。
それを米本位制と言っている。
で現代のお金は紙切れである。
その内電子データになるかも。
と言うことはそれは単なる記録(数字)である。
それでも少し前までは金本位制であった。
これは金現物と交換できたのです。
今はそれもできない。
単なる数字なのです。
それでも通用するのはなぜか。
それは信用があるからだ。
発行者の信用である。
でも今もってその奥は金本位制かも。
そこはかとなく金本位制なのかもと。
金自体にそういう価値が認められる。
と言っても結局最後の決め手は人である。
なぜなら金自体は命の足しにはならない。
美しく且つ腐らないといえども、
それはそれだけのこと。
まことの価値は、
この星が命にあふれた星であること、
ためのきれいな水や空気があること、
その上でである、
それを基としての人の働きであると、
それが価値なのだ。
媒体は価値そのものではない。
交換の基準として必要なだけ。
それを知っておこう。
・・・・・
通貨とは信用である。
それは発行者の信用である。
日本ではそれは日本銀行であると。
その日本銀行は政府から独立している?
ベッタリはいけないが完全独立などあり得ない。
政府もそうである。
政府と国民を対立関係で捉える者がいるが、
それは大嘘も大嘘、真赤な嘘である。
政府と国民は対立などしていない。
政府は国民が立てたもの。
政府と国民は一体なのだ。
でなけりゃ民主主義とは言えない。
ここにリベラルの大嘘がある。
それはさておき、
もとより政府も日本銀行も国民の中にある。
つまり通貨の信用は国民にあると。
日本人の働きが支えているのです。
日本人の働きが担保してるのです。
なんとなれば、
日本円は本来日本で通用するもの。
それは日本人の働きと交換できるのです。
それを日本人が保証しているのだ。
働きを神の罰とはせず、神への奉仕として為す。
そんな日本人が成すもの、
それが物であっても事であっても、
良きものができるのです。
そういうものと交換できるのです。
価値がない筈がない。
これが信用である。
政府も日本銀行もそこのところを、
国民に代わって管理しているだけ。
内緒の話、そこがちょっと怪しい。
内緒の話、なんかインチキがある。
通貨発行は経済規模に応じて適量がある。
働きが一定なら通貨量は変えなくていい。
それで物価は安定する。
働きが倍増すれば通貨も増やさなければ。
でなけりゃ交換に支障をきたす。
ためには通貨も倍増せねば。
それで物価も安定する。
ときに追加した通貨は政府の財源となる。
印刷代を無視すればまんま使える。
これはまさに錬金術である。
それが通貨発行権です。
経済成長を求めるのは故である。
今の話は需要は横に置いている。
それを考えるとややこしくなる。
でも高度経済成長時は需要はあったのだ。
なら時の財源は税金だけではなかった筈。
ならそれはどこへ行った?
とかが未だに疑問なのだ?
私の頭が悪いからだろう…
・・・・・
かくの如く、
お金は交換の媒体として必要なもの、
それなくして経済は成り立たないと。
だからよく人間の血にも例えられる。
ではあるが、
なぜか血も不浄なものとされてきた。
そも役割は似ているが、
そこも似ているのです。
でも血が不浄である筈がない。
血は命と言われるほどに重要なもの。
ではなぜ不浄と言われるのか?
思うに、
それは身から出た血が不浄なのだと。
それが不幸(→死)を呼び込むから。
女性のアレは本来は例外だろうに?
ではお金は?
お金は価値の基準でしかない。
なのに価値そのものと混同される。
更には逆転までも。
人の働きを活かすのがお金なのに、
それが人の働きを縛ってしまう。
つまり人がお金の奴隷になる。
ときにお金は不浄なものに。
ならこれは尤もな話かと。
これも内緒の話だが、
現下の世界はその不浄で満ちている、
そんなお金が溢れているのだ。
私にも少しは回してよ。
絶対々お願いね。
とは昔はよく言われていた、この日本では。
今は逆に有難がられており、
万事がお金の世の中となる。
まことに、
まことに。
・・・・・
そも寄り集まって生きることを選んだときから、
人間社会は大なり小なり分業社会になっている。
そこではお互いの働きの交換が必要になる。
それは多分思っているより大昔からだろう。
想うにヒトが人間になったときからか。
でもまだ小さな社会ならその交換にお金は不要だろう。
でも社会が大きくなり人も物も多くなれば難しくなる。
ときに交換の目安・尺度が必要になる。
それが今で言うお金というもの。
それは何でもいいのだが実際はそうもいかないと。
それは誰もが価値を認められるものでないと。
現実の中でそれに相応しいものがあれば、
それが仲立ちをして交換が成立する。
それ自体はそこに無くてもいい、
あくまである体でいいのだ。
知っての通りそれが歴史的に「金」であったと。
それは実にそのものが通貨になっている。
この他には銀や銅もそうである。
宝石もあろうがこれは通貨には向かない。
少な過ぎる上その品質も一定しないから。
また例えば米もある。
これは生きるために絶対的に必要なもの、
だから物の中心にあり価値の基準となる。
この場合米自体が通貨になるのではない。
あくまで価値の基準なのです。
それを米本位制と言っている。
で現代のお金は紙切れである。
その内電子データになるかも。
と言うことはそれは単なる記録(数字)である。
それでも少し前までは金本位制であった。
これは金現物と交換できたのです。
今はそれもできない。
単なる数字なのです。
それでも通用するのはなぜか。
それは信用があるからだ。
発行者の信用である。
でも今もってその奥は金本位制かも。
そこはかとなく金本位制なのかもと。
金自体にそういう価値が認められる。
と言っても結局最後の決め手は人である。
なぜなら金自体は命の足しにはならない。
美しく且つ腐らないといえども、
それはそれだけのこと。
まことの価値は、
この星が命にあふれた星であること、
ためのきれいな水や空気があること、
その上でである、
それを基としての人の働きであると、
それが価値なのだ。
媒体は価値そのものではない。
交換の基準として必要なだけ。
それを知っておこう。
・・・・・
通貨とは信用である。
それは発行者の信用である。
日本ではそれは日本銀行であると。
その日本銀行は政府から独立している?
ベッタリはいけないが完全独立などあり得ない。
政府もそうである。
政府と国民を対立関係で捉える者がいるが、
それは大嘘も大嘘、真赤な嘘である。
政府と国民は対立などしていない。
政府は国民が立てたもの。
政府と国民は一体なのだ。
でなけりゃ民主主義とは言えない。
ここにリベラルの大嘘がある。
それはさておき、
もとより政府も日本銀行も国民の中にある。
つまり通貨の信用は国民にあると。
日本人の働きが支えているのです。
日本人の働きが担保してるのです。
なんとなれば、
日本円は本来日本で通用するもの。
それは日本人の働きと交換できるのです。
それを日本人が保証しているのだ。
働きを神の罰とはせず、神への奉仕として為す。
そんな日本人が成すもの、
それが物であっても事であっても、
良きものができるのです。
そういうものと交換できるのです。
価値がない筈がない。
これが信用である。
政府も日本銀行もそこのところを、
国民に代わって管理しているだけ。
内緒の話、そこがちょっと怪しい。
内緒の話、なんかインチキがある。
通貨発行は経済規模に応じて適量がある。
働きが一定なら通貨量は変えなくていい。
それで物価は安定する。
働きが倍増すれば通貨も増やさなければ。
でなけりゃ交換に支障をきたす。
ためには通貨も倍増せねば。
それで物価も安定する。
ときに追加した通貨は政府の財源となる。
印刷代を無視すればまんま使える。
これはまさに錬金術である。
それが通貨発行権です。
経済成長を求めるのは故である。
今の話は需要は横に置いている。
それを考えるとややこしくなる。
でも高度経済成長時は需要はあったのだ。
なら時の財源は税金だけではなかった筈。
ならそれはどこへ行った?
とかが未だに疑問なのだ?
私の頭が悪いからだろう…
・・・・・
かくの如く、
お金は交換の媒体として必要なもの、
それなくして経済は成り立たないと。
だからよく人間の血にも例えられる。
ではあるが、
なぜか血も不浄なものとされてきた。
そも役割は似ているが、
そこも似ているのです。
でも血が不浄である筈がない。
血は命と言われるほどに重要なもの。
ではなぜ不浄と言われるのか?
思うに、
それは身から出た血が不浄なのだと。
それが不幸(→死)を呼び込むから。
女性のアレは本来は例外だろうに?
ではお金は?
お金は価値の基準でしかない。
なのに価値そのものと混同される。
更には逆転までも。
人の働きを活かすのがお金なのに、
それが人の働きを縛ってしまう。
つまり人がお金の奴隷になる。
ときにお金は不浄なものに。
ならこれは尤もな話かと。
これも内緒の話だが、
現下の世界はその不浄で満ちている、
そんなお金が溢れているのだ。
私にも少しは回してよ。
絶対々お願いね。
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