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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

とらわれの身

2024-10-21 11:07:00 | 日記・エッセイ・コラム
人類一番の問題は言葉である。
言葉は素晴らしいもので凄い力を持つもの。
これが人間に知らせたのです世界のことを。
それは語りとして現れる。
人間はそれを語らずにおられなくなる。
そして人間はそれを語り続けるのです。
それが人間である。
これは言い方をかえれば、
言葉から離れられないということです。
知らされたは良いのだが、
なお知らないことは無限、
稼ぎに追いつく貧乏なし、
ゆえとらわれの身となる。
なぜかこのことに気づかない。
気づく人は気づいてると思う。
でも所謂賢い人程気付かない。
言葉の凄さに溺れてしまって。
世に言われていることの一つ、
イエスの再臨とはこのゆえか。
ときにこのことを思い知ると。
それが新たな始まりとなろう。
それを想っている。
それを待っている。
・・・・・
現下の世界は諸に歪んでいる。
その査証の一つ、
江戸時代と今の日本との貧富の差を見ればいい、
実は今のほうが格差は大きいのです。
日本でもそうだから、
北米を初め世界では、
もう推して知るべし。
しても独裁国家なら分かるが、
自由と民主主義の国でもです。
これはどういうことか?。
自由と民主主義とは言葉だけ、
そんなものは実はないのです。
それは上辺だけのことであり、
すでに乗っ取られている。
てか初めから幻想なのである。
でも表向きは庶民の手にある。
と言うことにしてるのだ。
しても勿論庶民の手にはない。
ここに大きなトリックがある。
その道具こそ「言葉」である。
だけどこのことに気付かない。
だからくどいほど言っている、
世界は嘘と狂気で出来ている、と。
その典型として、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
このことを性懲りもなく言い続けている私。
ちなみに、
日本の江戸時代は実は素晴らしかったのだ。
思うに結構あったのです自由と民主主義が。
その証として、
ひとつ、識字率が高く庶民も多くが字を読めた。
それも、男子だけでなく女子もである。
ゆえに、瓦版があって貸本屋もあった。
それに、忠臣蔵という戯曲もしれっと上演している。
ひとつ、武士には武士の矜持があり自省的であった。
ゆえに、むしろ経済的には苦しかった。
ひとつ、日本には奴隷制がなく階級もなかった。
しても、身分とはその生業を指しており、
    階級ではなくすぐれて役割分担のこと。
思えば、今ほど職業の種類もなく、
    基本的には親の生業を継ぐことに、
    そこに自由の観念はなかったろう、
    そこから外れた者にはそれなりの。
して見れば現下の世界では自由を言い過ぎている感あり。
生きることを押さえてこそ初めて自由とか言えるのです。
先ずは如何に生きるかが第一である。
そこを押さえてこそだと。
それを押さえるに際し自由があってもいい。
それはそうなのだが社会の要請は外せない。
求められてこそ意味も意義も甲斐もあると。
そうです「自由」というのは厄介なのです。
前にも言ったがフりーダムはよく知らない。
てかそれは奴隷の解放を指すのであろうが。
それに宛てた言葉が自由。
でも自由なら少し分かる。
これは「自の由」である。
「おのれのよし」と読む。
これは社会の問題でなく、
すべて自分の問題である。
自分が自分を生きる、自分の由を生きるということ。
「由」は音読みでは「ゆう」だが、
それが訓読みなら「よし」である。
これは漢字では「良」とも書ける。
ならば由も良も「よし」であり同じ趣。
その「よし」を生きることに尽きます。
まあどうとでも言えるが。
言葉とはそもそういうものであり、
理屈を付ければ如何様にも言える、
ああ言えばこう言うの上祐の世界。
このことを利用してるのが現下の世界。
すべては自分らの都合に合わせて恣意的に。
これは「民主主義」という言葉についても同じ。
そも選挙そのものがいかがわしい限り。
てか二者択一ではそも選択の余地なし。
どちらを選んでも大同小異のお手盛り。
これを以ってあなた方が選んだのだと。
てかガチで争えば不正のオンパレード。
これがこれまでの米大統領選挙の実態。
日本もその間の事情は余り変わらない。
選挙制度の改革はもっぱら政治の都合。
その結果今回の衆議院選挙のこの有様。
政党交付金ゆえ党が力を得て人を選別、
政策で人を選ぶべきをそこが歪になる。
その後で国民に選んで下さいてか残念。
それならいっそ政党交付金はやめよう。
その方が新しい政党も立てやすいかも。
それにこの状況は個人をほぼ閉めだし。
そんでもって舞台中央で、
糞まみれと金まみれがくんずほぐれつ。
ゆえに言うのです、
今の世界は既に「言葉」が乗っ取られている、
それは心魂に纏わりついて離れがたく、
だからさらに言う、
言葉から自由になろうと、
言葉にとらわれずに「こと」を見よう、
そして「こと」に正面から向き合おう、
目の前の波動に己の波動を合わせよう、
言葉を持たない生き物がしている様に、
そうしよう、
うん!
・・・・・
思えば身分という言葉も誤解されてる。
階級と混同している風である。
60兆個も有ると言われるヒトの細胞、
その一つひとつは対等かつ平等である。
それがどこにあろうと、役割がどうであろうと。
身分とは身の分であり、そのことを指している。
脳は脳の為にあるのではない。
すべては身の為にあるのです。
むしろ身への奉仕者なのです。
身分に貴賤などある筈もなし。
社会をひとつの身とするなら、
個人個人はそれ身分であると。
身分を差別の初めとするは何たる不埒。
そも身分と謂う言葉自体を貶めている。
しても「身分と自由」こそ大事の大事。
そこにこそヒトの命の発露が。
でも既に言葉は乗っ取られており、
世界は嘘と狂気で満ちている。
ともかくもそれを知ろう。
そしてそれを知れば、
そこから始まる、
必ず始まる。

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