人類一番の問題は言葉である。
言葉は素晴らしいもので凄い力を持つもの。
これが人間に知らせたのです世界のことを。
それは語りとして現れる。
人間はそれを語らずにおられなくなる。
そして人間はそれを語り続けるのです。
それが人間である。
これは言い方をかえれば、
言葉から離れられないということです。
知らされたは良いのだが、
なお知らないことは無限、
稼ぎに追いつく貧乏なし、
ゆえとらわれの身となる。
なぜかこのことに気づかない。
気づく人は気づいてると思う。
でも所謂賢い人程気付かない。
言葉の凄さに溺れてしまって。
世に言われていることの一つ、
イエスの再臨とはこのゆえか。
ときにこのことを思い知ると。
それが新たな始まりとなろう。
それを想っている。
それを待っている。
・・・・・
現下の世界は諸に歪んでいる。
その査証の一つ、
江戸時代と今の日本との貧富の差を見ればいい、
実は今のほうが格差は大きいのです。
日本でもそうだから、
北米を初め世界では、
もう推して知るべし。
しても独裁国家なら分かるが、
自由と民主主義の国でもです。
これはどういうことか?。
自由と民主主義とは言葉だけ、
そんなものは実はないのです。
それは上辺だけのことであり、
すでに乗っ取られている。
てか初めから幻想なのである。
でも表向きは庶民の手にある。
と言うことにしてるのだ。
しても勿論庶民の手にはない。
ここに大きなトリックがある。
その道具こそ「言葉」である。
だけどこのことに気付かない。
だからくどいほど言っている、
世界は嘘と狂気で出来ている、と。
その典型として、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
このことを性懲りもなく言い続けている私。
ちなみに、
日本の江戸時代は実は素晴らしかったのだ。
思うに結構あったのです自由と民主主義が。
その証として、
ひとつ、識字率が高く庶民も多くが字を読めた。
それも、男子だけでなく女子もである。
ゆえに、瓦版があって貸本屋もあった。
それに、忠臣蔵という戯曲もしれっと上演している。
ひとつ、武士には武士の矜持があり自省的であった。
ゆえに、むしろ経済的には苦しかった。
ひとつ、日本には奴隷制がなく階級もなかった。
しても、身分とはその生業を指しており、
階級ではなくすぐれて役割分担のこと。
思えば、今ほど職業の種類もなく、
基本的には親の生業を継ぐことに、
そこに自由の観念はなかったろう、
そこから外れた者にはそれなりの。
して見れば現下の世界では自由を言い過ぎている感あり。
生きることを押さえてこそ初めて自由とか言えるのです。
先ずは如何に生きるかが第一である。
そこを押さえてこそだと。
それを押さえるに際し自由があってもいい。
それはそうなのだが社会の要請は外せない。
求められてこそ意味も意義も甲斐もあると。
そうです「自由」というのは厄介なのです。
前にも言ったがフりーダムはよく知らない。
てかそれは奴隷の解放を指すのであろうが。
それに宛てた言葉が自由。
でも自由なら少し分かる。
これは「自の由」である。
「おのれのよし」と読む。
これは社会の問題でなく、
すべて自分の問題である。
自分が自分を生きる、自分の由を生きるということ。
「由」は音読みでは「ゆう」だが、
それが訓読みなら「よし」である。
これは漢字では「良」とも書ける。
ならば由も良も「よし」であり同じ趣。
その「よし」を生きることに尽きます。
まあどうとでも言えるが。
言葉とはそもそういうものであり、
理屈を付ければ如何様にも言える、
ああ言えばこう言うの上祐の世界。
このことを利用してるのが現下の世界。
すべては自分らの都合に合わせて恣意的に。
これは「民主主義」という言葉についても同じ。
そも選挙そのものがいかがわしい限り。
てか二者択一ではそも選択の余地なし。
どちらを選んでも大同小異のお手盛り。
これを以ってあなた方が選んだのだと。
てかガチで争えば不正のオンパレード。
これがこれまでの米大統領選挙の実態。
日本もその間の事情は余り変わらない。
選挙制度の改革はもっぱら政治の都合。
その結果今回の衆議院選挙のこの有様。
政党交付金ゆえ党が力を得て人を選別、
政策で人を選ぶべきをそこが歪になる。
その後で国民に選んで下さいてか残念。
それならいっそ政党交付金はやめよう。
その方が新しい政党も立てやすいかも。
それにこの状況は個人をほぼ閉めだし。
そんでもって舞台中央で、
糞まみれと金まみれがくんずほぐれつ。
ゆえに言うのです、
今の世界は既に「言葉」が乗っ取られている、
それは心魂に纏わりついて離れがたく、
だからさらに言う、
言葉から自由になろうと、
言葉にとらわれずに「こと」を見よう、
そして「こと」に正面から向き合おう、
目の前の波動に己の波動を合わせよう、
言葉を持たない生き物がしている様に、
そうしよう、
うん!
・・・・・
思えば身分という言葉も誤解されてる。
階級と混同している風である。
60兆個も有ると言われるヒトの細胞、
その一つひとつは対等かつ平等である。
それがどこにあろうと、役割がどうであろうと。
身分とは身の分であり、そのことを指している。
脳は脳の為にあるのではない。
すべては身の為にあるのです。
むしろ身への奉仕者なのです。
身分に貴賤などある筈もなし。
社会をひとつの身とするなら、
個人個人はそれ身分であると。
身分を差別の初めとするは何たる不埒。
そも身分と謂う言葉自体を貶めている。
しても「身分と自由」こそ大事の大事。
そこにこそヒトの命の発露が。
でも既に言葉は乗っ取られており、
世界は嘘と狂気で満ちている。
ともかくもそれを知ろう。
そしてそれを知れば、
そこから始まる、
必ず始まる。
言葉は素晴らしいもので凄い力を持つもの。
これが人間に知らせたのです世界のことを。
それは語りとして現れる。
人間はそれを語らずにおられなくなる。
そして人間はそれを語り続けるのです。
それが人間である。
これは言い方をかえれば、
言葉から離れられないということです。
知らされたは良いのだが、
なお知らないことは無限、
稼ぎに追いつく貧乏なし、
ゆえとらわれの身となる。
なぜかこのことに気づかない。
気づく人は気づいてると思う。
でも所謂賢い人程気付かない。
言葉の凄さに溺れてしまって。
世に言われていることの一つ、
イエスの再臨とはこのゆえか。
ときにこのことを思い知ると。
それが新たな始まりとなろう。
それを想っている。
それを待っている。
・・・・・
現下の世界は諸に歪んでいる。
その査証の一つ、
江戸時代と今の日本との貧富の差を見ればいい、
実は今のほうが格差は大きいのです。
日本でもそうだから、
北米を初め世界では、
もう推して知るべし。
しても独裁国家なら分かるが、
自由と民主主義の国でもです。
これはどういうことか?。
自由と民主主義とは言葉だけ、
そんなものは実はないのです。
それは上辺だけのことであり、
すでに乗っ取られている。
てか初めから幻想なのである。
でも表向きは庶民の手にある。
と言うことにしてるのだ。
しても勿論庶民の手にはない。
ここに大きなトリックがある。
その道具こそ「言葉」である。
だけどこのことに気付かない。
だからくどいほど言っている、
世界は嘘と狂気で出来ている、と。
その典型として、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
このことを性懲りもなく言い続けている私。
ちなみに、
日本の江戸時代は実は素晴らしかったのだ。
思うに結構あったのです自由と民主主義が。
その証として、
ひとつ、識字率が高く庶民も多くが字を読めた。
それも、男子だけでなく女子もである。
ゆえに、瓦版があって貸本屋もあった。
それに、忠臣蔵という戯曲もしれっと上演している。
ひとつ、武士には武士の矜持があり自省的であった。
ゆえに、むしろ経済的には苦しかった。
ひとつ、日本には奴隷制がなく階級もなかった。
しても、身分とはその生業を指しており、
階級ではなくすぐれて役割分担のこと。
思えば、今ほど職業の種類もなく、
基本的には親の生業を継ぐことに、
そこに自由の観念はなかったろう、
そこから外れた者にはそれなりの。
して見れば現下の世界では自由を言い過ぎている感あり。
生きることを押さえてこそ初めて自由とか言えるのです。
先ずは如何に生きるかが第一である。
そこを押さえてこそだと。
それを押さえるに際し自由があってもいい。
それはそうなのだが社会の要請は外せない。
求められてこそ意味も意義も甲斐もあると。
そうです「自由」というのは厄介なのです。
前にも言ったがフりーダムはよく知らない。
てかそれは奴隷の解放を指すのであろうが。
それに宛てた言葉が自由。
でも自由なら少し分かる。
これは「自の由」である。
「おのれのよし」と読む。
これは社会の問題でなく、
すべて自分の問題である。
自分が自分を生きる、自分の由を生きるということ。
「由」は音読みでは「ゆう」だが、
それが訓読みなら「よし」である。
これは漢字では「良」とも書ける。
ならば由も良も「よし」であり同じ趣。
その「よし」を生きることに尽きます。
まあどうとでも言えるが。
言葉とはそもそういうものであり、
理屈を付ければ如何様にも言える、
ああ言えばこう言うの上祐の世界。
このことを利用してるのが現下の世界。
すべては自分らの都合に合わせて恣意的に。
これは「民主主義」という言葉についても同じ。
そも選挙そのものがいかがわしい限り。
てか二者択一ではそも選択の余地なし。
どちらを選んでも大同小異のお手盛り。
これを以ってあなた方が選んだのだと。
てかガチで争えば不正のオンパレード。
これがこれまでの米大統領選挙の実態。
日本もその間の事情は余り変わらない。
選挙制度の改革はもっぱら政治の都合。
その結果今回の衆議院選挙のこの有様。
政党交付金ゆえ党が力を得て人を選別、
政策で人を選ぶべきをそこが歪になる。
その後で国民に選んで下さいてか残念。
それならいっそ政党交付金はやめよう。
その方が新しい政党も立てやすいかも。
それにこの状況は個人をほぼ閉めだし。
そんでもって舞台中央で、
糞まみれと金まみれがくんずほぐれつ。
ゆえに言うのです、
今の世界は既に「言葉」が乗っ取られている、
それは心魂に纏わりついて離れがたく、
だからさらに言う、
言葉から自由になろうと、
言葉にとらわれずに「こと」を見よう、
そして「こと」に正面から向き合おう、
目の前の波動に己の波動を合わせよう、
言葉を持たない生き物がしている様に、
そうしよう、
うん!
・・・・・
思えば身分という言葉も誤解されてる。
階級と混同している風である。
60兆個も有ると言われるヒトの細胞、
その一つひとつは対等かつ平等である。
それがどこにあろうと、役割がどうであろうと。
身分とは身の分であり、そのことを指している。
脳は脳の為にあるのではない。
すべては身の為にあるのです。
むしろ身への奉仕者なのです。
身分に貴賤などある筈もなし。
社会をひとつの身とするなら、
個人個人はそれ身分であると。
身分を差別の初めとするは何たる不埒。
そも身分と謂う言葉自体を貶めている。
しても「身分と自由」こそ大事の大事。
そこにこそヒトの命の発露が。
でも既に言葉は乗っ取られており、
世界は嘘と狂気で満ちている。
ともかくもそれを知ろう。
そしてそれを知れば、
そこから始まる、
必ず始まる。
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