おそろしい、とは
通常ではない事態に対する「心の様」を謂う。
だからそれは「恐怖する」という意味も、
だからそれは「畏敬する」という意味も、
あるのです。
これは日本語の特徴の一つ。
例えば「結構」という言葉。
これは心の構えを結ぶということであり、
肯定にも否定にも使う。
ここに日本語の特徴がある。
それは状態や様を表現していて、
所謂善悪二元論的にはならない。
つまり排除の論理を持たないと。
これは現実の世界とは符合する。
現実世界は現実世界としてあり、
肯定しても否定しても変らない。
ときに人の言葉は無意味なのだ。
てかむしろ有害である、
ということ。
・・・・・
言葉は分けて分けて分けるだけ。
分けるとは脳内だけのこと。
現実は何も変わらない。
それを方便と言う。
それを知ろう。
それを知っているのが日本語である。
だから余り分けません。
てか分け方が違うようです。
それが上記での言です。
ここで聖書の冒頭の記述を思う。
そこには記されている、
初めに神は天と地を創造された、と。
これは物が有る場です。
だから「物場」と言う。
これは「事場」の前にある、
次に言葉が発せられて世界はなった。
神の言葉は現実として実現するもの。
人の言葉は語るだけのもの。
語るにはそこに順序がある。
それが初めにとか次にとかです。
聖書は物場が先で事場が後だと記す。
私はそう捉えているが、
それを踏まえて先記の日本語に戻る。
「おそろしい」と「結構」。
「おそろしい」とは、
目の前の事象に対する心の様のこと、
「結構」とは、
決断するときの心の構えを結ぶこと、
共通するのは、
私がそこに在るのは前提として、
その場の状況への心模様として、
あるもの。
先ずは場があり、
それも先にあり、
それに呼応して、
ときの私を表現するのです。
ここに日本語の特徴があります。
それは場がほぼすべて。
前提の私は表に出ない。
ゆえ主語がないのです。
これは省略ではないと。
むしろ要らないのです。
そこに在る私は当事者かあるいは立会人。
必要があればときに示すことも。
私を強調するとか私以外とかの場合。
それを「は」や「が」などの助詞で。
そこで大事なのは、
場であり場の状況です。
それを主題という。
例えば広島の原爆死没者慰霊碑、
そこには主語がないと言われる、
原爆投下という過ちの。
そうなのだが、
これが日本語の特徴である。
それは状況がさせたとして、
そこに彼我を出さないのだ。
かくのごとく日本語は、
「我」を前に出さない。
「場」を前に出す。
むしろ「我」を出すのを嫌う。
だから「我」を出す者を嫌う。
言葉をかえればこれは、
世界があって私がある、のであって、
私があって世界がある、のではない。
ここに欧米との違いが明らか。
とくに違うのは否定が少ないこと。
違いを知って線を引くが、
どちらも現実の一断面であり、
好き嫌いや損得で争いになっても、
とことん排除することはない。
いま巷に蔓延っているリベラル的言辞は、
否定と排除に満ちている。
これを日本人は嫌うのだ。
しかるにこの昨今の状況、
リベラルに乗っ取られて、
もう惨憺たる有様である。
だから、
こんな私でも戦うのです、
少しは。
・・・・・
例えば今回の能登半島沖地震。
そこでも奪い合いは起らない。
むしろ秩序を保って助け合う。
東日本大震災のときはもっと顕著だった。
阪神淡路大震災のときも同じ。
ちなみにこの時はリベラルが邪魔をした。
あの山口組ですら手を貸してくれたのに。
ちょっと逸れたが元に戻って、
それを民度とか言っているが、
なんとも安直な言い方である。
してもそれは何処から来るのだろう。
教育がしっかりしてるからか。
それもあるだろう。
てかそれも又安直な言い方であると。
戦後教育の無様さを思えばね。
それは生き方の総体である文化の力だと。
いわゆる歴史・伝統・文化の文化である。
文化とは文が化けること。
文とは言葉の集まりが織りなす綾。
つまり言葉を使い始めた後のその用い方、
そこに文化がある。
まずは神話として、
そして国語として、
それが今に伝わる。
それは深く静かに。
既に上で言ったことだが、
日本人は場に生きており、
場と我は常に一体で離れない。
一例として日本の商人道を挙げる。
売り手良し買い手良し世間良し、である。
この言い回しには主語がない。
でも個人個人も社会も皆良しです。
まあそんなとこで、
ハイ!
通常ではない事態に対する「心の様」を謂う。
だからそれは「恐怖する」という意味も、
だからそれは「畏敬する」という意味も、
あるのです。
これは日本語の特徴の一つ。
例えば「結構」という言葉。
これは心の構えを結ぶということであり、
肯定にも否定にも使う。
ここに日本語の特徴がある。
それは状態や様を表現していて、
所謂善悪二元論的にはならない。
つまり排除の論理を持たないと。
これは現実の世界とは符合する。
現実世界は現実世界としてあり、
肯定しても否定しても変らない。
ときに人の言葉は無意味なのだ。
てかむしろ有害である、
ということ。
・・・・・
言葉は分けて分けて分けるだけ。
分けるとは脳内だけのこと。
現実は何も変わらない。
それを方便と言う。
それを知ろう。
それを知っているのが日本語である。
だから余り分けません。
てか分け方が違うようです。
それが上記での言です。
ここで聖書の冒頭の記述を思う。
そこには記されている、
初めに神は天と地を創造された、と。
これは物が有る場です。
だから「物場」と言う。
これは「事場」の前にある、
次に言葉が発せられて世界はなった。
神の言葉は現実として実現するもの。
人の言葉は語るだけのもの。
語るにはそこに順序がある。
それが初めにとか次にとかです。
聖書は物場が先で事場が後だと記す。
私はそう捉えているが、
それを踏まえて先記の日本語に戻る。
「おそろしい」と「結構」。
「おそろしい」とは、
目の前の事象に対する心の様のこと、
「結構」とは、
決断するときの心の構えを結ぶこと、
共通するのは、
私がそこに在るのは前提として、
その場の状況への心模様として、
あるもの。
先ずは場があり、
それも先にあり、
それに呼応して、
ときの私を表現するのです。
ここに日本語の特徴があります。
それは場がほぼすべて。
前提の私は表に出ない。
ゆえ主語がないのです。
これは省略ではないと。
むしろ要らないのです。
そこに在る私は当事者かあるいは立会人。
必要があればときに示すことも。
私を強調するとか私以外とかの場合。
それを「は」や「が」などの助詞で。
そこで大事なのは、
場であり場の状況です。
それを主題という。
例えば広島の原爆死没者慰霊碑、
そこには主語がないと言われる、
原爆投下という過ちの。
そうなのだが、
これが日本語の特徴である。
それは状況がさせたとして、
そこに彼我を出さないのだ。
かくのごとく日本語は、
「我」を前に出さない。
「場」を前に出す。
むしろ「我」を出すのを嫌う。
だから「我」を出す者を嫌う。
言葉をかえればこれは、
世界があって私がある、のであって、
私があって世界がある、のではない。
ここに欧米との違いが明らか。
とくに違うのは否定が少ないこと。
違いを知って線を引くが、
どちらも現実の一断面であり、
好き嫌いや損得で争いになっても、
とことん排除することはない。
いま巷に蔓延っているリベラル的言辞は、
否定と排除に満ちている。
これを日本人は嫌うのだ。
しかるにこの昨今の状況、
リベラルに乗っ取られて、
もう惨憺たる有様である。
だから、
こんな私でも戦うのです、
少しは。
・・・・・
例えば今回の能登半島沖地震。
そこでも奪い合いは起らない。
むしろ秩序を保って助け合う。
東日本大震災のときはもっと顕著だった。
阪神淡路大震災のときも同じ。
ちなみにこの時はリベラルが邪魔をした。
あの山口組ですら手を貸してくれたのに。
ちょっと逸れたが元に戻って、
それを民度とか言っているが、
なんとも安直な言い方である。
してもそれは何処から来るのだろう。
教育がしっかりしてるからか。
それもあるだろう。
てかそれも又安直な言い方であると。
戦後教育の無様さを思えばね。
それは生き方の総体である文化の力だと。
いわゆる歴史・伝統・文化の文化である。
文化とは文が化けること。
文とは言葉の集まりが織りなす綾。
つまり言葉を使い始めた後のその用い方、
そこに文化がある。
まずは神話として、
そして国語として、
それが今に伝わる。
それは深く静かに。
既に上で言ったことだが、
日本人は場に生きており、
場と我は常に一体で離れない。
一例として日本の商人道を挙げる。
売り手良し買い手良し世間良し、である。
この言い回しには主語がない。
でも個人個人も社会も皆良しです。
まあそんなとこで、
ハイ!