ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

公(おおやけ)

2024-04-15 10:10:13 | 日記・エッセイ・コラム
公(おおやけ)、
この言葉がすべてだと思うのです。
少し前に記したことを思えば。
いまはそう思えるのです。
世界には実のところ、
公がないのかも。
言い過ぎだとは思わない。
すべては言葉による。
言葉の在り方による。
言葉がすべてである。
ここに尽きる。
・・・・・
言葉が意識をつくる、と思っている
明確な意識をつくる、と。
では言葉を持たない生き物は意識がないのか。
植物にはあるようには思えない。
でも動物らにはあきらかにある。
ように見える。
でもどう考えても明確ではない。
人もその行動にいつも意識がある訳ではない。
むしろ無意識の方が多い。
臓器がそうだし手足だってそうです。
例えば映画のエキストラで出演する。
そこで普通に歩いてと言われる。
でも普通を意識したら歩けない、
ぎこちない歩き方しかできない。
意識すれば普通が出来なくなるのです。
そんなもんです。
そこでだが、
意識的でなければ無意識なのか。
それは違うと。
それを無意識とは言っても、
実は無意識ではないのです。
意識がなければ動けない筈。
本当の無意識などはないと。
ことの世界はそういうもの。
それが存在の世界だと思う。
言葉を持たない生き物らは、
そんな無意識を生きている。
そして生き物でないものも。
そう思うのです。
それをそのように動かす何かがある。
その力のまにまにあるのが世界です。
ここにあるのだろう人間の異端性は。
そのまにまからズレてしまったのだ。
聖書は初めにそれを語っている。
と私は常々思っている。
だからいつもそれを言うのです。
性懲りもなくクドクド。
・・・・・
無意識の世界は公そのもの。
そこに私はない。
無いことはないにしても、無いに等しい。
問題は私と謂う意識の在り方にある。
それが強く出てしまうのが人間。
それは言葉の特異性による。
それゆえにであろう、
人が楽園を追放されたのは。
少なくとも聖書を残した人らはそう捉えたと。
なのにそれが上手く伝わっていない。
特に聖書を経典とする一神教徒には。
想うに、
言葉一つひとつの意味は横に置いて、
言葉そのものが持つ特異性をなぜ思わない、  
それを想うのです。    
それは言葉自体が前提になっているからか。
あの言葉過多の欧米もそうです。
てか言葉過多だからこそなのか。
言葉を哲学的に語っても、
言葉の特異性は語らない。
てか私が知らないだけか。
ともかくも、
それを私は、
言葉に捉われていれば、
言葉は言葉を語らない、
言葉は言葉を語れない、
言葉が言葉に埋没する、
と。
このことを知らねばと。
でも日本には公がある。
神の言葉には無条件で従う。
神と謂う字を思えばしかり。
てかそれを無意識とするなら当然のこと。
てかそれを意識しても尚そのように。
ともかくも場があって私がある。
私はいつも場とともにある。
そう謂うことなのです。
・・・・・
だから私はリベラルを嫌う。
だから私は原理主義を嫌う。
おっとっと中華思想もそう。
これは正に字義の如くです。
だから勿論中華思想も嫌う。
でもシナにも一応公はある。
それを天下とか言うが。
ほとんど形だけのこと。
そんなシナはさておき、
今の世界は人種平等を言う。
それを言うのが「グローバリズム」である。
これを中国語に直せば中華思想となる。
正体はここにあきらか。
そも世界は一つとか人種は平等とかは、
言わずもがなの当然のこと。
問題は文化である。
生き方の総体としての文化にある。
文化とは文(言葉)が化けるもの。
つまりは言葉で出来ている。
だからこの世界を守るとは、
つまりは言葉を守ることで、
為に言葉の特異性に鑑みて、
言葉は慎重に取り扱わねば、
と思うのです。
しかして、
言葉は「まこと」でなければと、
そこに尽きる、
うん!