ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

働き方改革

2016-10-10 10:15:24 | 日記・エッセイ・コラム
私は安倍政権支持である。
絶対的支持である。
何より「日本を取り戻す」を支持している。
そういうことだが、個々の政策には支持しないものも多い。
この「働き方改革」もそれである。
・・・・・
日本を支えているのは日本人である。
日本の庶民である。
なお、私は庶民という言葉を敢えて使っている。
庶民というのは元を糺せば余り好ましい言葉ではないらしい。
でも、私は日本人は皆天皇の庶子だと思っている。
それに、それ以上に市民という言葉が嫌いなのである。
だから敢えて庶民という言葉を使う。
それはさておき、日本の経済は日本人の働きそのものだ。
日本人の働きの総計が日本の経済力なのだ。
いろいろ言われるが、今も日本の経済力は強いのである。
それは日本人の働きが強いからだ。
ではなぜ強いのか。
日本人にとって働くことは生きることそのものなのだ。
働きがどこまでも自分の為なら、それは遊びと変わらない。
働きを働きと謂うは自分の為でもあり、他人の為でもあるからだ。
働きとは世に関わり・世に貢献し・世に在ることである。
それが場を生きる日本人の働きだ。
なお、これがボランティアという言葉がなじまない一因である。
ボランティアとは働きの外にあるのではなく、
あくまでも働きと伴にあるものなのだ。
だから働きを除くとどうも偽善ぽく見えてしまう。
まあ、最近はちょっと変わってきたが。
日本では最高神の天照大神ですら田植えをし、機を織るのである。
今上天皇もまた田植えをし、稲刈りを為される。
働くことも祀りの一つのように。
さなればこそ、労働は神聖なものなのだ。
当然、自分は何もせず他人にだけ働かせるのを良しとしない。
「働かざる者、食うべからず」である。
なるほど奴隷制度がなかった訳である。
ここが違うのである、
労働を必要悪のように思っている欧米や、
蔑視するシナ・朝鮮とは。
・・・・・
だからである。
日本人の働き方は変える必要がない。
むしろ変えてはいけない。
そうは言うものの、働き過ぎというのは少し問題だ。
何でもそうだが、遊びは必要なのだ。
と言うより、むしろ非常に大事である。
働きと伴にある遊びは。
働き過ぎを何とかしようというなら、そこは良しとする。
江戸時代は庶民は結構遊んでいたらしい。
江戸文化は庶民の遊びが育てたようなものである。
働きと伴にある遊びは素晴らしいのだ。
でも今次の「働き方改革」には気になる文言がある。
曰く「同一労働・同一賃金」。
これは嘘である。
同じ労働などこの世にない。
人は皆それぞれ違うのである。
歌にもある、件の「世界に一つだけの花」のように。
もちろん、同じような仕事には同じような賃金を払うべきである。
そのことに異論はない。
でも同じ仕事はないのである。
「同一労働・同一賃金」とはリベラル特有の虚である。
そこは非常に危惧する。
・・・・・
そんなことは先刻承知かも知れない。
敢えて言ってるのかも…。
どちらにしてもである。
日本を取り戻すためには、
嘘を排除しなければならない。
リベラル特有の嘘を。