創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

210.地獄論、罰論、メモ(その1)

2007年07月22日 23時55分46秒 | 創価学会
創価学会ではよく
題目の功徳によって死者の体が柔らかくなり顔面白色で成仏、
ということが言われていますね。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1033276317/786
葬儀会社の人の経験によると”題目を唱えたから柔らかくなったのではない”様ですね。驚きました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/3461
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/3464-3467

○若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号について

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/3468-

創価では
”謗法(ほうぼう)や不信の者は一闡提(いっせんだい)だ”
と教えられます。
地涌284
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/07/284.html
「一闡提 謗法 日顕」で検索すると出てきますね。

天台教学と日蓮教学、そして創価学会の仏教学では法華経、涅槃経を一括りにする天台の釈(解釈)だったんですね。
学会の仏教学の本で学んだまま疑ってかかっていませんから、 何処までが本当で何処から嘘なのか言われないとなかなか気がつきません。もちろん、経文に書かれていることは事実でありどの様に解釈するかは個人の自由ですが、「敵を許すな。攻め抜け!謗法の者は地獄行き、」という創価学会の本部都合の「嘘」ですね。

創価学会に悩むすべての人へ 立正安国論要約(by freeさん)

涅槃経自身が現代にそぐわないオウム真理教のようなポア思想が書かれているんですね。

敵(例えば日顕氏)を許すな。攻め抜け!
謗法の者(例えば日顕氏)は地獄行き
殺しても構わない (過去コメントの通り、「日顕が死ぬように祈りましょう。」という学会員の発言)

というのが如何におかしいのか?
そして地獄論の悩みがちょっとだけ解消された気がします。
やはり思考停止している所為なのか整理整頓できない所為か地獄論、罰論の記事は上手く書けませんね。

創価学会の信仰に功徳はあるか? 本尊返却と地獄論
一番最後に書く記事のつもりでいましたから。。。。。

読書もサイトを読むことも時間が経ってから、もう一度読み直すと改めて分かることが沢山ありますね。

その他。。。。。
○戒壇

「末法無戒」についても真蹟遺文にはない。
(末法が釈迦の説でないのは過去記事の通り。)
無戒とは小乗戒のことのようですね。

日蓮が「戒」壇を捨てていなかったのも犀角独歩さんの説明が理路整然としているので納得が出来ます。
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54 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ohisashiburi (Neil)
2007-08-06 16:24:33
久しぶりに寄らせていただきました。
お元気ですか?

>葬儀会社の人の経験によると”題目を唱えたから柔らかくなったのではない”様ですね。驚きました。

とのことですが、題目を唱えるとやわらかくなるのは本当のようです。というか死後硬直がゆるやかなのかもしれません。
私が10年以上前から仏法対話をしていた元同僚のおばあちゃんなんですが、職場を辞めてからしばらく音信不通になっていました。
3,4年前にふと思いついて電話をしてみたら、その前年にあった大火事の際緊急避難をしたせいで、ご主人が体を壊し余命いくばくもない状態だったのです。
もちろん題目をあげるように激励しました。
最初は半信半疑でしたが、彼女も必死でしたからあげられるだけあげたようです。
何日か経って電話をしてみたら、残念ながらご主人は程なくしてなくなっていたのですが、彼女は思いもかけず元気な声でした。
というのは、亡くなってから遺体は安置所に置かれていたのですが、三日経っても全然硬直がなく亡くなる前よりも肌にハリがあってまるで眠っているかのような顔だったのだそうです。
火葬にするまでの一週間同じ状態だったそうです。
驚きと嬉しさの混じった声で、不思議だ不思議だと、繰り返していました。
去年のはじめだったか、買い物先で一度会ったっきりなのですが、そのときご主人の死後ガンになったとききました。心労のせいだっただろうと思いますが、ガンのことでお題目を上げたのかは聞きそびれました。

私は祖父の亡くなった時のやせ細って頬がこけた幽鬼のようなどす黒い死に顔を見ているので、いわゆる半眼半口で眠っているような顔であればそれは成仏の顔だろうと思います。(そのおばあちゃんのご主人も半眼半口だったそうです。)
ちなみに家の宗旨は浄土真宗で、今でも実家へ帰ると仏間に入るのにも嫌悪感があります。
アホクサ (肉まん餡まんダンボールまん)
2007-08-07 01:15:36
こんちわっす!

>葬儀会社の人の経験によると”題目を唱えたから柔らかくなったのではない”様ですね。驚きました。

驚くのが不思議だ。学会員だったことがあるから驚いたのだろね。
死後硬直と弛緩は医学的説明がある。それを題目と結びつけるのは愚か者のやることだ。題目あげろだの浄土真宗への嫌悪感だのはカルト差別主義者の言うことだ。俺んちは浄土真宗じゃないし俺は宗教なんか嫌いだ。
じゃーな!
Unknown (そううそ)
2007-08-11 16:15:31
>久しぶりに寄らせていただきました。
>お元気ですか?

お久しぶりです。
なんとなく元気かな?(^_^;A

>『納棺夫日記』(文春文庫)

海外では入手は無理でしょうか?


Neilさんご自身の体験としては不成仏の体験があるようですね。

私も創価学会員時代、2,3人のお葬式で創価班繋がりで駐車場任務に就いたことがあります。
その為、亡くなった方の相を見る機会がありましたが、しかし、今思い返すといわゆる半眼半口の成仏の相をみたことはありません。皆同じ印象でした。
海外で半眼半口の成仏の相を見ることが出来ると良いですね。

私の体験として親戚の人が1人も来ない死者の為であっても、まったくの他人のためにお題目をあげてくれる学会員がいること自体は素晴らしいことだとは思います。

Neilさんも私とは見解が違いますが、意見が違っても今後とも宜しくお願いしますね。

ではでは
そううそ
Unknown (そううそ)
2007-08-11 16:17:25
>肉まん餡まんダンボールまん さん

>アホクサ

騙されてしまったと思います。
確かにアホクサイですね。

じゃーな!
『立正安国論』は正しく読みましょう (Libra@かじってナンボの商売だ)
2007-08-14 23:10:15
 本題からはズレますが、『立正安国論』を誤読している人がまだおられるようなので、以下を引用しておきます。

───────────────
 注目されるのは、これらの法難において、決して日蓮側から暴力をもって攻撃しなかったということである。攻撃を受けたとき、確かに日蓮側も武力をもって防戦したが、日蓮側から仕掛けることはなかった。日蓮の過激な言動を見るとき、これは意外にも見えるが、日蓮は決して暴力主義者ではなかった。確かに本書の第七問答では、殺生をも辞さないという文面が見られるが、その点を問題にした第八問答では、「釈迦以前の仏教では、罪人を斬るけれども、能忍(釈迦)以後の経説では、その人への布施を止める」(二二四)と、釈尊以後の仏教では、悪法に対して布施しない、すなわち、経済面での非協力こそ、悪法廃絶への道であるという信念を明らかにしている。日蓮の過激な言動は、『立正安 国論』の上奏をも含めて、いわば敵側を刺激し、その行動を炙り出すアジテーションという戦略的な役割を果しているのである。

(末木文美士『日蓮入門──現世を撃つ思想』、ちくま新書、2000年、p. 95)
───────────────
成仏 (Neil)
2007-08-15 10:24:32
>Neilさんも私とは見解が違いますが、意見が違っても今後とも宜しくお願いしますね。

はい、あまりまめではないですがよろしくお願いします。袖摺りあうも他生の縁、といいますからね。

さて、家の宗旨は念仏だと書きましたが、もうちっちゃいころから家の仏壇が異常に怖かったです。今も嫌です。
こちらはアンチさんの場所だから私がこんなことを書くと嫌がられるかも知れないけど、入信していろいろな仏壇を見て、まず感銘したのは学会の仏壇が明るくて不気味でないことでした。

でももちろん宗旨が念仏だから死相が不成仏と言うわけではないと思います。
どんな宗教を信じていようといまいと、自分の人生に後悔のない人だったら満足の顔で亡くなると思います。
心配や後悔、くるしさ、憎しみの感情とともに死ななければならないときに、私の祖父のような死に顔になるのでしょう。

先に書いた私の友人であるおばあちゃん(私の母くらいの年です)は精神的に苦しい時に、私が勧めれば題目をあげてみるくらいの、学会とは全く関係ないひとなんですね。
ご主人は亡くなる前にすごく苦しんでいて、やはりそれを楽にしてあげたくて彼女は“しぶしぶ”題目をあげ始めました。
で、あげた結果彼女自身が否定できない「成仏の相」をご主人が見せたわけです。
私は何年も音信不通だったから、お葬式にも招かれなかったし、その後も彼女の方から全く連絡無しです。
自分の大切な人が苦しんでいるときって祈ることしかできないですよね。そんな時に彼女にもう一度題目を唱えてもらい、その上に彼女なりの結果を出すことができて、よかったなーと思います。


Neilさん (肉まん餡まんダンボールまん)
2007-08-16 15:09:27
いつまでカルト差別思想を書き続けるのですか?日蓮正宗と創価学会がお互いに相手の幹部の死相を「ひどいものだった」と言いあっているのを知ってるでしょう?それでもまだ死相という差別を平然と語るのでしょうか?

俺が題目を唱えず創価学会に批判的意見を持ったまま死んだら、ひどい死相だったということになるのが、あらかじめ約束されているのが現実です。これは死相という愚にもつかないものを利用した自己満足と嫌いな者への罵倒という差別と偏見なのです。そういうものを本気で語るのは愚か者のやることです。学会批判者のまま死んだ人にも学会から「いい死相で成仏する」という見解が出るのなら、少しは信じてもいいが、そんなことはないだろな。

題目と死相で自己満足、おまけに仏壇が明るくてなんちゃら、いつまで学会員は愚論を展開して他人を差別して自己満足すれば気がすむんですか?やはり創価学会員になると、そういう差別主義者になるんですか、カルトだから。
Neilさん並びに活動家学会員のみなさん、恥かしいとは思いませんか?
Unknown (そううそ)
2007-08-18 06:27:55
Libraさん
おは!です。

>釈尊以後の仏教では、悪法に対して布施しない、すなわち、経済面での非協力こそ、悪法廃絶への道であるという信念を明らかにしている。日蓮の過激な言動は、『立正安国論』の上奏をも含めて、いわば敵側を刺激し、その行動を炙り出すアジテーションという戦略的な役割を果している

 詳しくは長くなるので書きませんが、資本主義社会の中では仏教思想、および、仏教団体は相容れにくい面があると思っています。
 ”殺す殺さない”よりも、経済面での非協力、協力をどのようにすべきか?という問題は確かにあるのですが、そうした問題よりも”根本的な仏教思想や日蓮仏法の思想が各宗教団体で伝わっていない”ことに問題を感じます。

現代では ”殺す殺さない”よりもLibraさんが何度も書いて下さったように”根本的な仏教思想や日蓮仏法の思想”について下記の様に優先すべきと思います。

////////////////////
創価学会の信仰に功徳はあるか? 考え方が変わる事は裏切りか?退転か?地獄行きか?(その1)
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/d013cff682972c2c57cc05510c0c84f4

>異論が起こったときには、道理によってよく説き伏せて(『大パリニッバーナ経』)
http://fallibilism.web.fc2.com/006.html
////////////////////

 しかし、現代人ですら ”『立正安国論』を誤読している人がまだおられる”わけですし、創価や日蓮正宗には未だに攻撃的、過激な思想や言動が見られます。

”根本的な仏教思想や日蓮仏法の思想が各宗教団体で伝わっていない”というようりは、日蓮仏法がいくつかの宗教団体に悪用されていると考えています。

創価学会に疑問を感じる私としては、”日蓮の過激な言動を見るとき”どうしても、悪い方の解釈をブログに書かざるを得ません。アンチ創価と呼ばれる人々も誤解しても当然という面があると思っています。

Libraさんはこのあたりは如何お考えでしょうか?
Unknown (そううそ)
2007-08-18 06:56:52
>Neilさん
おは!です。

 「成仏の相」についてはネット上だけでなく、様々な方の様々な見解を聞いていますので、私の意見は変わっていません。”記事の通り”です。

Neilさんがご希望ならば私がメールで頂いた文章について転載許可を頂くつもりです。

どうしましょうか?
Unknown (そううそ)
2007-08-18 07:14:17
>肉まん餡まんダンボールまん さん
おは!です。

気持ち的には同じ所がありますが、Neilさんも創価に”創価の”「成仏の相」を教えられているのです。
もし可能であれば、もっときちんとした経文や医学的な理由、、つまり懇切丁寧に「根拠」を書いて下さると私としても助かります。
せっかく創価学科員のNeilさんが来てくれているのですから、非難ではなく、批判や議論をお願いします。

また、論調としても先に書いたとおり、懇切丁寧にやさしく教えてあげて下さい。
管理人からのお願いです。
Neilさんと私、Neilさんと肉まん餡まんダンボールまん さんの会話が続くようにお願いします。


//////////////////////////////////
創価学会の信仰に功徳はあるか? 考え方が変わる事は裏切りか?退転か?地獄行きか?(その1)
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/d013cff682972c2c57cc05510c0c84f4

"ある仏教徒が【伝統的な考え方とは正反対の考えに変わる】とか、【権威者の考え方とは正反対の考えに変わる】というようなことが実際に起こった場合には、「非難、誹謗中傷」合戦などではなくて【討論】が生じます。

 仏教徒の理想としましては、「異論が起こったときには、道理によってそれをよく説き伏せて、教えを反駁し得ないものとして説くように」しなければなりません(以下の資料を参照)。

  異論が起こったときには、道理によってよく説き伏せて(『大パリニッバーナ経』)
  http://fallibilism.web.fc2.com/006.html"
//////////////////////////////////
あなたが仏教徒でなくてもお願いします。


//////////////////////////////////
創価学会の信仰に功徳はあるか? 公明党に投票するのはやめましょう。 '07年夏の選挙
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/d37be05dea09cceac94592b89262c26d

Leo@隠居
2007-08-13 23:37:10

「人類はお互いに助け合うべきである/他人の幸福を念願として お互いに憎しみあったりしてはならない/世界には全人類を養う富がある」

「思想だけがあって感情がなく/人間性が失われた/知識より思いやりが必要である/思いやりがないと暴力だけが残る」

「貧欲はやがて姿を消し/恐怖もやがて消え去り/独裁者は死に絶える/大衆は再び権力を取り戻し/自由は決して失われぬ!」
(チャップリン『独裁者』より)
//////////////////////////////////


肉まん餡まんダンボールまん さんは、友岡雅弥氏の書籍をどの様な感想をお持ちですか?
また私のブログ記事154番以降の感想はどうでしょうか?
会話(特に続くこと)の重要性や、会話において懇切丁寧にやさしく教えてあげる必要性は如何お考えですか?

死相はカルト差別思想 (肉まん餡まんダンボールまん)
2007-08-18 09:49:09
宗教が嫌いな俺がなんで経文なんか持ち出さんといかんのか。経文で死相の根拠を肯定したり否定したりしても、しょせんそんなもんはその世界の人の間でしか議論にならんだろ?俺みたいな宗教嫌いや興味ないもんには「根拠にならん」のだよね。

医学的理由は、俺が「死相を肯定する、トンデモでない、厚生労働省に問合せても問題のない、専門的に検証された学術論文があったら読みたい」ですよ。いかにも専門家が認めたかのように装うのとか、単に論文を提出しただけで検証されてないのをもっともらしく出してくるのはあるかもしれないが、そんなのはダメだろ?そううそさんかNeilさんからトンデモでない医学的に肯定する認知されたものを出してほしいくらいですよ、ほんと。

死相なんちゅうのは、カルト創価学会にしろ他の宗教団体にしろ、Neilさんにしろ他の人にしろ、自分の都合にいいように解釈して、自分の言うことを聞いてくれた人は「成仏の相」ということを言ってるだけじゃん。それに色々と逸話をつけてもっともらしくみせかけてるだけだろ。そんなのは世の中には通用しないし、通用してない世の中は、そういう部分ではまだまだ捨てたもんじゃないってことよ。

議論もなにも、死相を信じてしまってる人とまっとうな議論が成立するとはあんまし思えないし、議論より「死相を平然と語るのはカルト差別思想の敷衍だ」と指摘することのほうが有意義だね。
追加 (肉まん餡まんダンボールまん)
2007-08-18 10:45:15
友岡雅弥という人物は名前も聞いたこともなかったですよ。
だから当然その著作は読んだことないです。
ググってみたけど、読んでみようとは思わないです。
俺は宗教にのめりこむ気はないから。

それと、会話が通じるかどうかってのがあるね。
カルトに洗脳されてる人にまで会話が通じると主張する人が時々いたりするけど、そういう場合の会話ってのは、恐らく会話を呼びかけている人の自己満足ってのが多いような気がするな。
だからね、「死相はカルト差別思想の敷衍だ」と言うのは、実はROMしてる人にむけてのメッセージなんだよね。だって信じてしまってる人には通じないの明らかじゃん。だけど、信じてしまってる人の言うことを信じる人が出てきたらやばいじゃん、社会に悪い影響だもん。だから議論より「ちゃうじゃん」「そんなの信じたら差別に加担することになるよ」と言うのが重要なんだと思ってるのだ。

そううそさんへ (Libra)
2007-08-18 12:48:47
 【創価学会を批判するためであれば、たとえ事実をねじまげても許される】というような考えは、明らかに誤っているでしょう。

 「創価学会に疑問を感じる私としては、”日蓮の過激な言動を見るとき”どうしても、悪い方の解釈をブログに書かざるを得ません」とのことですが、日蓮遺文の解釈として許容されうる範囲の中で、最も悪意に解釈するというのであれば、「創価学会に疑問を感じる」者の解釈の態度としてはごく自然な態度だろうとおもいます。しかし、文章の読解として許容される限度をこえてまで、悪意に解釈することは許されないでしょう。そんなのは【事実のねじまげ】です。

 「アンチ創価と呼ばれる人々も誤解しても当然という面がある」とのことですが、誤解であることがすでに学者等によって明らかにされた後には、誤解であったと素直にお認めになるべきではないでしょうか。さもなくば、誤解ではないということをきちんと論証されるべきだとおもいます。

 「現代人ですら ”『立正安国論』を誤読している人がまだおられる”わけですし、創価や日蓮正宗には未だに攻撃的、過激な思想や言動が見られます」という部分、および、「日蓮仏法がいくつかの宗教団体に悪用されていると考えています」という部分に対するわたしの考えについては、以下を参照していただければさいわいです。

  法華経について、No. 74~
  http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_002.html

  日蓮考察
  http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_004.html
死相 (Neil)
2007-08-18 18:04:39
>俺が題目を唱えず創価学会に批判的意見を持ったまま死んだら、ひどい死相だったということになるのが、あらかじめ約束されているのが現実です。

そうなんですか?

もう20年ちかく前になりますが、そのころ属していた組織の地区幹事さんが亡くなったとき、支部婦人部長ら支部幹部や親しかった人たちが一生懸命題目をあげて(2~3日かかったらしい)彼女の死相を良くしたと聞きました。
オカルトみたいだけど、私的にはありうる話だと思いました。
その方はガンで亡くなったのですが、誤解を恐れずに言えば、亡くなる直前は髪振乱すくらいの必死さだったので、ご本人としても無念の死だったと思います。(まして80年代のガンに対する認識は必ず死ぬこわい病気、というものでしたしね。)
婦人部長等としては、一生懸命信心していてなくなったときの顔が苦しみに満ちた表情だったとしたら、メンバーには見せられないと思ったに違いありません。学会員だったら必ず成仏の相を見せないといけないと、やはり思い込んでいるのでしょうね。
訂正します。 (Neil)
2007-08-18 18:18:29
>亡くなる直前は髪振乱すくらいの必死さだったので、

もちろんガンは早期発見であれば治る病気、とわかった今でも、必死になるのは当然なんですが、その方は少し錯乱気味だったのを覚えています。

それから、死相というのは、亡くなった時の顔の様子、位の意味で、特別差別的な言葉ではないです。
連続ですみません。 (Neil)
2007-08-18 18:28:31
>それと、会話が通じるかどうかってのがあるね。
カルトに洗脳されてる人にまで会話が通じると主張する人が時々いたりするけど、そういう場合の会話ってのは、恐らく会話を呼びかけている人の自己満足ってのが多いような気がするな。

ここのところ読み飛ばしていたようです。
確かに、自己満足といえばそうですね。
「私の経験ではこんなのあるヨー」って、言っているだけですから。
「へー、そんなのもありなんだー」ってROMしている人が思うかもしれないと考えるだけで、肉まんさんは腹がたってくるんですね。
またまたすみません。 (Neil)
2007-08-18 18:35:10
肉まんさんの文を読み間違えてしまいました。
そろそろ就寝したほうがよいようです。失礼いたしました。
いきさつ (肉まん餡まんダンボールまん)
2007-08-18 19:54:06
「死相」という言葉自体に差別的意味があるわきゃない。使われ方なんだな。死相の良し悪しを死者の生前の行いや信心と結びつけることがカルト差別になるということですがな。

俺が文句言ってるのは、身内で葬儀があった時に「いい死相だ」と言った参列者がいたことがきっかけなんだ。俺の家族は全員、もちろん死んだ本人も、そういった迷信の類は大嫌いだったから、俺達遺族はたとえ「いい死相」と言われても不愉快だった。そんなことを言えば喜ぶと勝手に思ってるんだね、そういう人は。よく言う「安らかな顔」というのとは違うんだよ。「安らかな顔」は信仰や生き方とは関係ないからな。

その人はそこらじゅうで「いい死相だった」と言って回ってたから、一度「安らかな顔」という意味かと問うたら、「それだけでなく、生き方がよかったという意味だ」と言うので文句を言ったのだ。本人は死相なんかの迷信は大嫌いだったし、そのことを知ってるのに、そういうことを言うのは非常識だってね。口論になり、後日香典を送り返してやった。まったく不愉快だったな。

それとは別に町内の創価学会員がやっぱり死相なんて愚にもつかない迷信をごちゃごちゃ言ってたし、選挙になると公明党に入れてくれとやってきて鬱陶しかった。宗教は嫌いだから公明党には絶対入れないのわかってるのになんで来るんだか、馬鹿な夫婦だこと。それで創価のことを調べてたらここを見つけて、偶然に死相のことを書いてる人がいたから文句を言ったわけだ。

長居する気はないし、もう夏休みは明日でおしまいだから、これでおわるよ。反論されてもレスしないんで、よろしく。最後にもう一度だけ「死相を平然と語るのはカルト差別思想の敷衍であり愚か者のすることだ」ということを書いておくよ。

じゃましたね、じゃーな!
Unknown (そううそ)
2007-08-19 10:57:07
おは!です。
肉まんさん

>死相はカルト差別思想

もう一度考えてみますと、おおむね同感と言えそうです。
肉まんさんのおっしゃることが、

「特定宗教によって成仏、不成仏の(死)相が決まる(カルトというよりは)差別思想」

だと考えます。
カルトだけでなく、一般宗教にもこうした考え方はあるのではないでしょうか?
但し、お葬式においてお悔やみやいたわりの気持ちから遺族に対して
お葬式参加者が死者がどんな宗派であっても「いいお顔ですね。」と言う事には問題ないでしょう。創価学会員が、

「学会員の死相だけが成仏の相なのだ」
「邪宗の人間の思想は不成仏。」

このように断定することが問題だと考えます。もちろん、ある特定の宗教団体が

「我々、○×教の人間の死相だけが成仏の相なのだ」

と言えば当然、問題を感じます。

>宗教が嫌いな俺がなんで経文なんか持ち出さんといかんのか。

いえ、あの。。。。。ここは宗教ブログなんですが?。。。。。(汗)

>経文で死相の根拠を肯定したり否定したりしても、しょせんそんなもんはその世界の人の間でしか議論にならん

いえいえ、日蓮がどの様に「死相」や「経文(法華経)」に着目したのかは理由があると考えています。
私も勉強中です。

>俺みたいな宗教嫌いや興味ないもんには「根拠にならん」のだよね。

では、Neilさんを頭ごなしに否定することはやめてください。感情論です。
もちろん、創価学会に嫌われる理由があり嫌われる言動のために、肉まんさんが疑問や反感をもったのはおそらく当然だったと思います。

>専門的に検証された学術論文があったら読みたい」ですよ。
>そううそさんかNeilさんからトンデモでない医学的に肯定する認知されたものを出してほしい

私は専門家ではありませんが、記事においてリンクや書籍を紹介しています。

>自分の都合にいいように解釈して、自分の言うことを聞いてくれた人は「成仏の相」ということを言ってるだけ
>それに色々と逸話をつけてもっともらしくみせかけてるだけだろ。

同感です。そうした一面はあると思います。
法華経を信仰したから成仏だよ、釈迦の言うことを聞いたから成仏だよ、というのはどこにでもありそうな話です。

>そんなのは世の中には通用しないし、通用してない世の中

死や死後について証明されていないという事であれば同意できそうです。


>友岡雅弥という人物は名前も聞いたこともなかったですよ。
>だから当然その著作は読んだことないです。

現在の創価学会とは180度違う考え方や宗教観が書かれていると思います。
私のブログ記事だけでなく、コメントも読んでみてください。
私と同様に比較的まともな新好感を持っている?と思われる学会員さんが
「学会とは違う」「この書籍を読んで学会が間違っているのがわかった」(趣旨)というコメントがあったと思います。

>俺は宗教にのめりこむ気はないから。

MC論の記事に書きましたが、宗教とカルトは方向性が180度違います。
宗教であれば問題はなく、カルトであれば問題です。
その見分け方は簡単なところもあり見分け方も難しいところもあります。

>それと、会話が通じるかどうかってのがあるね。

通じなくても通じても私はかまいません。最終的に意見が違ってもいいのです。
テーリーガーターのように会話が大事だと考えます。

>カルトに洗脳されてる人にまで会話が通じると主張する人が時々いたりする
>恐らく会話を呼びかけている人の自己満足ってのが多いような気がするな。

そうですか?

>実はROMしてる人にむけてのメッセージなんだよね。

私もです。01番記事を読んでいただけましたか?

>だって信じてしまってる人には通じないの明らかじゃん。

通じなくても通じても私はかまいません。最終的に意見が違ってもいいのです。
テーリーガーターのように会話が大事だと考えます。

>議論より「ちゃうじゃん」「そんなの信じたら差別に加担することになるよ」と言うのが重要

相手を見て時には議論する必要があり、時には議論しないほうがベターと考えます。

上記のLibraさん、Leoさんのコメントと矛盾するようですが、私の中ではどうすると
矛盾してどうすれば矛盾しないか線引きはあります。

●お願い

私の質問に答えていません。次回万一、コメントするときお返事いただかなければ、それ以降、コメント禁止にします。

●禁止

今後、コメントしないとの事ですが、

”「信じてしまってる人には通じないの明らか」という考え方や言動を変えることを表明”

していただかない限り、私のブログ上でアンチ創価、シンパ創価、他宗の人、つまりはどんな人であっても肉まんさんの反論は禁止します。
賛成意見のみ許可します。
言い争いか喧嘩か罵倒になるだけです。

過去の多くのコメントが証明しています。
訂正 (そううそ)
2007-08-20 07:01:25
×
>私と同様に比較的まともな新好感を持っている?と思われる学会員さんが
「学会とは違う」「この書籍を読んで学会が間違っているのがわかった」(趣旨)というコメントがあったと思います。


比較的まともな信仰感を持っている?と思われる学会員さんが
「学会とは違う」「この書籍を読んで学会が間違っているのがわかった」(趣旨)というコメントがあったと思います。この書籍に私も同じ様な感想を持っています。
本題に入ります (Libra)
2007-08-22 01:39:03
 そううそさん、こんばんは。

 今回は、この記事の本題に関係があることを少し書いてみます。


1.日蓮の地獄論には大きな問題はない
 日蓮の地獄論には、大きな問題はないとわたしはおもいます。日蓮がいう「地獄」というのは、「我等が五尺の身の内に」あるものであり、「我等がむねの間」にあるものです。

───────────────
 抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば或は地の下と申す経文もあり或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候、さもやをぼへ候事は我等が心の内に父をあなづり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候

(「十字御書」、全集、p. 1491)
───────────────

───────────────
 夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はずただ我等がむねの間にあり

(「上野殿後家尼御返事」、全集、p. 1504)
───────────────

 ちなみに、親鸞も、「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなくうくとぞとくたまう」(『正像末和讃』)といっているようです。このあたりが、現代の真宗教学でどのように説明されているのか、少し興味がありますね。

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 法然が『選択本願念仏集』(『選択集』)を著わしたのは、建久九年(一一九八)である。法然は安元元年(一一七五)に比叡山を下りて、いよいよ本格的に布教をはじめた。その主張は、ひたすら阿弥陀仏の名を称えるだけでよいというもので、専修念仏と呼ばれる。その主張を正面から述べたものが『選択集』であった。法然はそれを九条兼実に献上したというが、その後、主要な弟子には筆写を許している。しかし、跋文に「一たび高覧を経て後に、壁の底に埋めて窓の前に遺すことなかれ」とあるように、法然自身その危険性を認識して、むやみに外部に出すことを禁じている。
 その際、「おそらくは破法の人をして、悪道に堕せしめざらんがためなり」と言い添えていることは興味深い。法然にとっては、念仏こそが仏説の核心であり、念仏を誹謗すれば、それは正しい法を誹謗したということであり、悪道(地獄など)に堕すべき重罪なのである。
 このことは、親鸞において、もっとはっきりと言明されている。親鸞の『正像末和讃』では、「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなくうくとぞとくたまう」と、念仏を誹謗するものは地獄に堕ちるといわれている。念仏者にとっては念仏誹謗こそ最大の謗法であり、逆に、日蓮にとっては、そのような念仏者の言動こそ最大の謗法なのである。

(末木文美士『日蓮入門──現世を撃つ思想』、ちくま新書、2000年、pp. 101-102)
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2.日蓮の罰論には問題あり
 一方、日蓮の罰論には、大いに問題があるとわたしはおもいます。日蓮の罰論は、鎌倉時代であればともかく、少なくとも現代においては全く通用しないとおもいます。日蓮の罰論の問題点は、【法華経をフィクションではなく、実話であると認識している点】につきるとわたしはおもいます。

 日蓮は、法華経をフィクションと認識していなかったので、そこに出てくる【十羅刹女などを実在のものとして認識していた】とおもいます。【法華経の行者を守護する十羅刹女】などを実在視すれば、【法華経の行者を不当に迫害する者は「十羅刹のせめを」こうむる(=罰をうける)】という考えが自然にでてきます。じっさい、日蓮は、そういうことを言っています。

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但一の冥加には景信と円智・実成とが・さきにゆきしこそ一のたすかりとは・をもへども彼等は法華経十羅刹のせめを・かほりて・はやく失ぬ

(「報恩抄」、全集、p. 323)
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 けれども、ただ一つ冥加なことは、景信と円智と実城が先に死んだことである。神仏の助けとも思われるが、これは彼らが『法華経』の守護の十羅刹女の責めをこうむって早く死んだものである。

(藤井学訳『大乗仏典 中国・日本篇 第24巻 日蓮』、中央公論社、1993年、p. 234)
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 もっとも、鎌倉時代に生きた日蓮が【法華経を実話であると認識していた】としても、それは、その当時においてはむしろ【常識】といってもよいでしょうから、そのことじたいを責めるのはナンセンスです。

 しかしながら、【法華経は創作(フィクション)である】ことがすでに【常識】になっている現代においてもなお、【法華経は実話である】と主張してみたり、また、そのような認識にもとづいて、【法華経の行者を不当に迫害する者は十羅刹の責めを受ける】などと本気でお考えになる人がもしおられるとすれば、【そういう人の精神は健全とはいいがたい】とわたしはおもいます(以下の資料を参照)。

  精神の健全さと病気の違い(カール・ポパー)
  http://fallibilism.web.fc2.com/112.html

 もっとも、わたしは、【法華経は実話ではないから、そんなものに価値はない】などと考えているわけでは全くありません(以下の拙文を参照)。
  
  『法華経』と釈尊の思想
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html


3.日蓮の罰論の問題点は弟子としてきちんと乗り越えるべき
 【日蓮の罰論を現代においてそのまま主張することには大いに問題がある】ということは上述したとおりです。したがって、日蓮の罰論は、現代においては捨てられるべきだとおもいます。「師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間仏法の道理によるべきなり」(「曾谷殿御返事」、全集、pp.1055 -1056)と日蓮じしんがいっています。

 そもそも、【十羅刹女に守ってもらいたい】というような考えは、以下の文章にみられるような【日蓮の崇高な精神】とは一貫しないとおもいますし、【一念三千に基づく日蓮の中心思想(成仏論)】とも全く無関係ですから、【捨てることができるし、捨てるべきである】とおもいます。

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詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん

(「開目抄下」、全集、p. 232)
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日蓮は少より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり

(「四条金吾殿御返事」、全集、p. 1169)
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 【日蓮の崇高な精神】を現代に生きたいと望む日蓮の弟子の一人として、すくなくとも、わたしは、【法華経の行者を不当に迫害する者は十羅刹女の責めを受ける】などという考えは【きっぱりと捨てるべきである】と考えます。
Unknown (そううそ)
2007-08-26 04:25:55
Libraさん
こんばんは。
お返事が遅くなって申し訳ありません。

先のコメントは重要かつ、反論になってしまいましたのできちんと記事にさせて頂きました。
よって当記事も目次に記載しました。

>開目抄下 P0232
 詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。

日蓮の遺文の 「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」 が創価学会のMCになっていると思います。

要は、法華経の経本、法華経のエッセンスである本尊、(犀角独歩さんは本尊を允可状とおっしゃっていましたが、今の私にはよく分かりません。)を捨てることが地獄の業であり、問題だということですが、

質問1
1.法華経思想を捨てることが問題なのか?
それとも
2.本尊や経本というモノを捨てる事自体が問題なのか?

どちらでしょうか?両方でしょうか?
鎌倉時代の常識や法華経仏説を理由として日蓮は法華経の思想を捨てることが問題だと言っていると思います。

質問2
武士の世の中でもあり、本尊や経本モノ自体が火災や兵火で失われることは当然だったのではないでしょうか?

曼陀羅本尊ではありませんが、富士門流信徒のBBSのどこかで日蓮が本尊として拝んできた釈迦像が海中に没したとか読んだ気がします。火災にあって一部焼失した日蓮真筆本尊もあるようですね。

質問3
現代では経本や本尊はどの様に取り扱われるべきだとお考えでしょうか?
上記のコメントからしても本尊と地獄論、罰論と組み合わせる考えは問題だと思いますがどうでしょうか?
否定されている罰論についても一考して下さると助かります。


やはり”まじない信仰”や”本尊は本尊を受けた時点でその人の命そのものである。”という思想があるので学会員には「本尊や経本というモノを捨てる事自体が問題、地獄行きか罰が当たる」だと思います。
火災や盗難、思いがけない紛失など仕方のない不幸であっても地獄行きか不幸になるという思想があります。
「小説」人間革命にも本尊を紛失して不幸になったという嘘かホントか分からない記述がありましたね。


ところで全く話題が逸れますが、創価学会員は本尊は持っていますが、現代にも通用する良き法華経精神を捨て去って(法華経信仰を捨てている?)いますし、学会本部自体が教学を捨て、池田夫妻信仰をしていると思います。
私のブログでもLibraさんとの対話でも両方でみれいさんがおっしゃっていた、法華経の安楽行品とか、そう思います。

やさしい法華経物語
http://www.sunlotus.org/tales/yasashi/yasashi.html
本尊の形式と思想を区別すべき (Libra)
2007-08-26 14:35:53
 そううそさん、こんにちは。

 本尊について論じるさいには、まず、本尊の【形式】と【思想】とをきちんと区別することが重要だとおもいます(以下の資料を参照)。

  本尊の形式と思想を区別せよ(勝呂信静)
  http://fallibilism.web.fc2.com/107.html

 したがって、今回のそううそさんのご質問はたいへんに本質をついたものだとおもいます。わたしの考えについては、以下の拙文を参照していただければさいわいです。

  スレッド「ご本尊って紙でしょ?」より
  http://fallibilism.web.fc2.com/kangaeyou_03.html

 そもそも、罰をあたえてくれる諸天善神などは【物語の中の架空の存在】なのですから、「現代では」「本尊と」「罰論と組み合わせる考えは」全く通用しないでしょう(前回のコメントを参照)。

 ただ、「地獄」については、【「地の下」とか「西方」にそういう恐ろしい場所が現実に存在する】というように実体的に解釈するのではなくて、【成仏から最も遠い状態にある】というような意味で使うのであれば問題はないとおもいます。前回のコメントにも書きましたように、日蓮は後者の意味で使っているとおもいます。
仏法の意義 (pai)
2007-11-28 05:00:48
はじめまして。
皆さんのコメントをはしょって読まさせて頂きました。
私は学会員でありますが、活動をやめました。でも脱会しようとは思ってません。創価学会はある意味、必要悪みたいなものに思ってます。なぜなら、信心は一人きりではできないからです。また、距離を置きたくなったのは、皆さんが言うように、師弟だとか池田教だとか、聖教新聞のプロパガンダとかにうんざりしてるからです。人生の鍛錬は学会活動しなくても出来るし、仕事や生活を通して自身の人間性を磨く事はできるので、何も古典や過去の偉人の事例で人生は切り開かれないので話しに興味がないのです。学ぶものがないので。組織も、人が病気で入院したからといって見舞いに来てくれたわけでもなく、人生の苦難に直面しても他人事なので助けてくれるわけでもない。励ますのが精一杯。私自身も他の困ってる人の為に祈ることは出来ても実際、病気を治療できるわけでもないし、お金を提供できるほど金持ちでもないので、人を救うなんて思い上がりだと思ってます。
さて、話は変わりますが、私の仏法の見解は、半眼半口が成仏の相だとか、罰論だとか、退転したら地獄行きだとかそういうものから開放させて頂きました。まず第一に死に顔が成仏の相かどうかが成仏の判断なのですか?そしたら即身成仏の話は意味がないし、釈尊の存在そのものを否定していることになる。何故なら釈尊は死ぬ前から成仏しているからです。死後、成仏するというのであればそれは浄土真宗などと同じ考え方ではないですか。罰論もそう。仏は何のためにこの世に出現し法を説くのですか?一切衆生をして仏と等しくならしめんと言って法華経を説くわけです。つまり、悪人も反逆者も退転者も含めて一切衆生を成仏させるために法を説く。この精神こそが仏法者の精神です。であるならば、敵対勢力や退転者をさも地獄行きが決定したイッセンダイとして突き放すのは、自ら仏法者としての精神を放棄し菩薩道の修行を止める事になる。だから、今の学会はおかしい。昔からおかしかったのかもしれない。
純粋に、私は仏法が好きです。因果の理法もこの科学の時代に矛盾しませんし、九識論や一念三千、依正不二、色心不二、五穏世間論、生住壊空論、三世観などの仏法の時間概念、三千大千世界の宇宙観など卓越した哲学理論ですし、何より法華経がすごい。釈尊は法華経如来寿量品で因果異時の歴劫修行の後成仏したという立場を捨て、何百億年前から成仏していた事を明かします。では何を修行して仏になれたのか?それはさておき、私はご本尊を信じて疑いません。人にとってはただの紙。1万円札だってその価値が分からない幼児にはただの紙であるように。ただ、これを教えてくれたのは創価学会の出版物ですが、ご本尊とは何ぞや?なぜ祈りが叶うのか?勿論叶わない時もあるが大抵ピンチに必死に祈ると叶うわけで、何でやねんと疑問に思うし感動もするけど、出版物にはこれだという回答はなく、仏法用語の解説や解釈、日蓮正宗のオカルト的教義の難解な説明があるだけで結局煙にまかれてしまいます。ただ、ご本尊を信じる私の根拠は、前述の通り①まず祈って叶う事。叶わなければ祈る意味がないから。②根本教義は現代的解釈をあてはめればそう科学と矛盾しないこと。③諸天善神や十界論を環境や命の働き、状態と考えればなにもオカルトではなくなる事。④なによりも生きたまま成仏できなければ信心する意味ないと思う事。⑤継続はできないけど成仏していると思う事。
皆さんは、成仏をどこか遠くにあって自分の身に当てはめる事に慣れてないようですね。そこが伝統仏教に毒された成仏観だと私は思うし、学会ですらその成仏観を利用している、大石寺と同じように。死ななきゃ成仏できないなら念仏と同じじゃないか。私が今なぜ成仏してると断言できるかと言えば、釈尊も日蓮大聖人もただの人じゃないですか。皆さん忘れすぎ。まして大聖人は凡夫即極とおっしゃって、凡夫の成仏の姿を生涯かけてお示しになっている。ここが本仏である所以ですがね。つまり死相で成仏かどうかなんてナンセンスだ。ただのオカルト迷信です。信じてない証拠だし、仏法を探求していない人が言うことだ。
あっ、今日の俺ついてるし、乗ってるし人のために役に立ってる。祈ったとおりに元気で願いもかなった。ってこれが成仏ですよ。ストレスなく思い通りに生活できること、悩みがあっても祈りで解決できると信じてくじけず乗り越えてる時、また乗り超えるその勢いある自分の命の状態が成仏を確信できる時ですよ。そしてその命の輝きが周りの人も勇気付け活気がみなぎっている状態。
それをご本尊に頼らずに自分が妙法蓮華の当体だと生涯、確信を持って生きられたら釈尊のような仏と言えるかもしれませんが、本来人間には無理ですね、毎日の生活は変化に満ちているし、めまぐるしく十界の生命状態を行きつ戻りつしてますからね。だから我々を凡夫というのです。(釈尊を仮の仏とする所以は人間離れした尊極の姿としてイメージされているため、本仏ではなく理想の仏界の状態の象徴だからです。)
私は、学会の選挙活動も反対です。文化活動もどうでもいい。本来の仏法を体得する団体であるべきで、今や学会はただの選挙マシーンになりさがってますよ。宗門と決別した事は正しいと思うけれど、歴代の3代会長を絶対視する会則というか教義化したことにはがっかりした。大聖人直結の論理も説得力がない。依法不依人(法=経典を根拠とし人の説を根拠にしない)の原則はどうしたと言いたい。学会の正当性を植えつけるための論理でしかない。葬式仏教と決別することは正しいけれど、指導者を神格化しては新たなオカルトを生み出すだけだ。もう一度仏法の本義に立ち返った民主的で、人々に優しい仏法者の集団に学会はなるべきだ。学生部のころ僕は折伏を強要され一人友を失った。先生に折伏の成果を報告するために無理やり友を囲んだわけだ。今思えば、先生のための折伏なんかくそ食らえだと思う。ただの虚栄心。学会の中だけで通用する虚栄心でしかない。悪いけど先生に仏法の事を直接教わっていないのに何で師匠と呼べるのか?何度も祈って難解な御書を読み、講義集を読み仏法の不明な部分を自分なりに解読してきた。先生に応える為?そんな理由で仏法を他の人に教えることなんか出来ない。本当に、仏法がすごいから教えるわけで、まして相手の意見を折るなんて信仰心のない現代人にはあまり無縁だと思う。信仰を持ってる人との対話であれば、あるいは折伏となろうが、一般の人はそうでない場合がほとんどだから。だから折伏はしない。仏法を教えたい。祈りの叶うご本尊を教えたい。通りすがりの人の身にご本尊があることをイメージして心のなかで手を合わせる。不軽菩薩の行こそ仏法者のあるべき修行の仕方であってそれを実践しようという組織になるべきだ。日顕にだって仏性はある。なぜ会って仏法を語りあって、今後の広宣流布を協力しないのか。傍から見てるとただの利権争いにしか見えない。誠に見苦しい。民衆・民衆と言うのであれば、まず最初にその豪華なベンツのリムジンを売り払って今年の財務を免除するなりすればいい。調子に乗って偉人気取りもさっさとやめてほしい。益々尊敬できなくなる。イラク開戦の時目が覚めたのですよ。日ごろ平和の闘士とか、平和に貢献とか生命尊厳とか紙面を飾ってるくせに、イラク戦争反対など一言も言わなかった。仏法者として恥ずかしくないのか。ローマ法王でさえ反対していた。当然だ。事情はともあれ罪のない人々を巻き込む戦争を容認なんか出来ないからです。
貧乏人と病人の集まりだったころの学会は貧しくとも心は清らかであった筈だ。民衆が主役ならば聖教のTOP記事に名誉会長の何々学位がどうとかの記事を載せるのを即刻止めよと言いたい。これも嫌味にしか見えない。もっと仏法のすごさや、精神、会合のありかたや活動のことなど信心に役立つものにした方がよっぽどいい。今時、聖教新聞のようなプロパガンダなメディアが折伏の役にたつなどありえない。これで啓蒙が促進されているのならば、とっくに広宣流布はできている。
どのように仏法がすごいかを分からせるための紙面にすればいい。現状ではただの個人崇拝新聞だ。仏法となんの関係があるのだ。他の学会員からすれば法謗な発言でしょうが、これで地獄に行くならば信心をやめる。正しいことを言って救ってくれないならば無慈悲のかたまりでとても仏法ではないからです。だから、別に罰も宿業も怖くありません。ご本尊は慈悲深いからです。仏法は特権者のものではない。あらゆる衆生を光輝かせるためにある。悪いけど先生よりもよほど偉大な仏法者がその辺にいるような気がする。みんなの笑顔のため祈り、語り、励ましてる一般会員の方々こそ不軽菩薩の行の実践者だ。そんな方々を顕彰すべきだろう。学位もらって喜んでる場合か?子供連れお断りの婦人会館が信濃町と浦和にある。そんなに高級な調度品が会員よりも大切なのか?日顕宗さながらですね。残念だ。公明が選挙のたびに負ける原因がここにある。いつしか学会は貧乏人と病人の味方をやめたみたい。毎年何百億の財務を集め高級調度品や富士美術館のコレクションを集めたり、大枚を払って外国の歌劇団を呼ぶなど仏法となんの関係があるのだ。やはりうんざりしているのです。残念。
長々とすいませんでした。日ごろいろいろ思っていたもので。
罰論・功徳論そして地獄行き (pai)
2007-11-30 03:48:23
上記で長々と書いたものです。
一方的なコメントになってしまって読まれた方で不快に思われた方にはすいませんでした。
このスレッドの趣旨からすればタイトルのような内容のコメントを書くべきでした。
御書の顕法謗抄に8大地獄の内容があり、その因縁が出てきますが、仏語に誤りがなければそこに書かれた通りの因果によってそうなるでしょう。が、しかし、仏法はしばしば方便を使います。つまりたとえ話。
なぜそう断言するかと言えば、人々を地獄の因業から救うのが仏法者の使命ではないですか。因果の理法はまず間違いなく峻厳で、未来の果を知らんと欲せば現在の因を見よとの言葉は真実です。であるならば、たとえ話のような苦しみを味あう人が目の前にいて、黙って見ていれないのが人の情けです。
だから、学会を退転し、ご本尊をお返しした人が罰や地獄の因を踏んだと思って恐怖しているのであれば、私はその恐怖を取り除きたいと思います。
まず、罰も地獄行きもそんなことありませんよ。前回も書きましたが、仏法はそんな無慈悲ではないと思ってます。学会を退会すれば、当然ご本尊も返すし批判もする。それでも、心のどこかでお題目を信じる気持ちがあれば良いと思います。大聖人は一篇のお題目を唱えれば成仏できると御書で言ってます。怖くなったらお題目を唱えればいいのです。学会をやめたからお題目を唱えてはならない訳じゃない。仏法を信じるのと学会を辞めるのを切り離せばいいじゃないですか。
寿量品で釈尊が五百塵点劫のその上で修行し成仏した理由は、ずばり妙法蓮華経を修行したからです。歴劫修行をしたことを釈尊が法華経前に説くのは、仏である自身でさえ仏になる因の修行をしたのだという事を皆に分からせるためで、何百億年前から仏であったと説くのは、生死をこえて凡夫にも、もともと仏性があることを示すためです。
では、妙法蓮華経とは何かと言えば、確心から言うとずばり法則です。蓮華には当体蓮華と比喩蓮華がありますが、因果具時不思議の一法これあり、名付けて妙法蓮華と言うなり、と。つまり因果具時の法則の名前である場合(この名前という所が重要)を当体蓮華といい、その説明に蓮華の花を喩えとした場合を比喩蓮華と言います。そして、因果具時の一法を修行し会得できたとき仏となるわけです。仏になることによって自由自在の思いのままにできる境涯になるわけですが、どういう事かと言うと因と果が同時であれば、思った瞬間に結果を得られる事になるから自由自在の境涯と言えるのです。この法則は依正不二(えしょうふに)の法則が大前提です。
依正不二とは主体者を取り巻く環境=依、感じる主体者=正が二にして一つ、つまり、環境と自分の命の感じ方が常に一体であると言う事、もっと言えば自分が地獄界の命の時は自分を取り巻く環境や人々・衆生も地獄界だし、他の人が修羅界(怒ってる)であれば、こちらも感応して修羅界・地獄界の命になる。
この依正不二が厳然と存在している世界に私たちは確かに生きています。つまり、因果具時の当体蓮華に一念を込めて願いを祈れば、依正不二なるがゆえに願いは叶う訳です=自分の一念で環境を変えるわけです。つまり、我々が本尊とするのは南無妙法蓮華経(法本尊)であり、その具現者である日蓮大聖人(人本尊)とするのはその為です。日蓮大聖人を本仏とする所以は、釈尊が法華経で説いてるとおり一切衆生をして仏とならしめる=ただの人が仏になることを示さなければならないでしょう、だからただの人(凡夫)で南無妙法蓮華経の具現者である大聖人こそ本仏なのです。釈尊は正法時代の人々に説明しなくても姿だけでわかる、尊極の姿の仏だから仮の仏です。仏界とはこういうものですよと示す姿です。しかし、仏が成仏させねばならない衆生の本当の姿は、凡夫じゃないですか。凡夫が成仏できなければ法を説く意味がない。だから凡夫のままで成仏してる=妙法蓮華を体得してる日蓮大聖人が本仏なのです。
難解な仏法用語や、葬式仏教の慣習、迷信や神秘主義、過去の聖人の解釈、寺の権威、学会の権威などを捨て去って、仏法の本義を見つめていかないとこのことに到達できません。依法不依人(えほうふえにん)と釈尊は涅槃経で遺言してす。法(経典)に依って人(人師)に依らざれです。
最後に、罰を罰と感じるのは自分です。功徳を功徳と感じるのも自分です。地獄は死後ではなく、恐怖におののいてる毎日の生活です。で、未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よですから、なんだ、大丈夫ジャンと毎日希望を持ってください。本当の法謗は、本当に仏法を捨て去り憎む心の因でしょう。学会はただの人の集まりです。どんなに偉い幹部になっても、幹部であるだけで、仏法の極理に到達し自在に生きてる人はほとんどいません。折伏しないと退転とか、成仏できないとか大聖人は御書では言ってません。ただ、南無妙法蓮華経を朝夕唱えなさいと。優しいねえ。こんなにすばらしい仏法なのに、利権がからむとああも醜くなるのかなあ?宗門も学会も本当に醜い。マインドコントロールされてる学会員も、もうちょっと真剣に仏法を研鑽すればいいのに。仏法の根本精神と仏の目的からすれば、この世に敵などないし、目くじらたてて折伏したり、他宗教を排撃したりしないで話し合いで平和に行くでしょう。現に大聖人はいつも話し合いや書簡で破折したりで喧嘩はしてません。いろんな人にいろんなご本尊を下付されてますが、根本はお題目です。日蓮宗の釈迦本尊論は、やはり凡夫の成仏という究極の仏法の目的がわからなかったんでしょうね。権威に人は弱いから、評価の定まったものを好むわけです。
これを読んだ方、あなたにも仏性はある。ご本尊とお題目は仏性を引き出す道具です。大切なのはあなたの存在、命の方です。宗門でも学会でもない、あなたの方が尊いことをお忘れなく。
また長くなりました。すいません。
知らぬ間のマインドコントロール (マターリ)
2007-11-30 18:18:21
>paiさん、今晩は。

学会3世のマターリと申します。長文の真剣なカキコに驚いています。

ただ、気になる点が2箇所ほどありました。法華経至上主義と日蓮本仏論です。

paiさんは、学会員は仏法の研鑚が足りないので、日蓮正宗や創価学会からマインドコントロールを受けている、と書かれていますね。

色々と御批判されていますが、paiさん御自身が法華経至上主義と日蓮本仏論の2点でマインドコントロールを受けておられると思います。

この点で、日蓮正宗や創価学会が言っている事そのまんまを、paiさんがおっしゃっていると思います。

疑問に思われた事に関して、学会以外の本を読み、追求していっていただきたいと思います。図書館に行けば、仏教関係の本がたくさんありますから。

批判するだけでなく、仏教に関して知識を深めていっていただきたいと思います。
2つのマインドコントロール (pai)
2007-12-01 03:34:45
>マターリさんこんばんわ。

ご意見ありがとうございます。
日蓮宗系の方にはある意味失礼な批判をしたと思います。
本尊論は極めて重要だと思います。研鑽が足りないことは真摯に受け止めます。

日蓮大聖人のご本尊が何通りかある事は存じています。
法本尊はどちらも南無妙法蓮華経ですが、人本尊が日蓮なのか他であるのか。

でも、一切衆生を我と等しくならしめんの言からすると、9界の衆生を仏界にならしめるのに、光り輝く黄金の仏様では人間ではないではないですか?単純に。我々は人間を離れて金色に輝く別の生物には成れません。だから、法華経にしか説かれない即身成仏は意義深いわけです。釈尊だってただの人ですからね。
だから、道理からして他宗の教義には興味なしです。ましてや仏様に助けられるのも待ってられません。
釈尊が従で日蓮が主ですよ、どう考えたって。凡夫の仏=我々の代表じゃないですか。そもそも釈尊が私たち凡夫を仏にしたいと言ってるのに、とても成れそうもない輝く仏を本仏にしたら、どうあがいたってそれこそ死ななきゃ仏になれない。意味なし。舎利佛も羅殺女も竜女も法華経の会座で成仏してる。生きたまま。だから生きて成仏できないなら仏教なんかやりません。祈って叶わない信心なら今すぐ止めます。それぐらい私は実利主義です。
私は学会2世です。この仏法を知らなければ間違いなく無神論者でした。
宇宙は仏法があろうがなかろうが何十億年もまえから存在してるし、今後も存在し続けるのですから、オカルト迷信はごめんなんです。
だから、日蓮正宗や学会のオカルト流の功徳・罰論も当然NONです。選挙戦ったら功徳あるよーとか大嫌いです。そんなもんあるかと思ってます。ご供養だって功徳なんかない。ただのカンパ。ご供養で功徳あるなら題目唱えんでもいいことになる。そんなこと大聖人は言ってない。

信仰してるわけですからその部分ではマインドコントロール受けてますね。
でも爺ちゃんが念仏の坊主でね、じいちゃんの葬式の時に坊さんの説教を聞きましたが子供だましでした。

でもぜひ、時間があったら図書館に行きましょう。
では。
日蓮大聖人・法華経 (マターリ)
2007-12-01 18:32:38
>paiさん、レスありがとうございます。

>日蓮宗系の方にはある意味失礼な批判をしたと思います。

いえ、そんなことはございません。

御書を読んでみますと日蓮大聖人は、ご自分のことを「上行菩薩の再誕」と言われています。ご自分で「本仏」とは言われてないと思います。

日蓮大聖人の伝記を読んでみました。

すると、嬉しいときは大口を開けて笑い、悲しいときは大地に身を投げ出して泣き、好きになれば人前もはばからず、思いのたけを述べる、という方でした。

そうした荒削りな人間性を、大きなスケールで表した方だったようです。

仏と呼ぶと神秘性が出てきますので、宗教的な尊厳性が深まり、信徒の信仰心が高まりますが、逆に日蓮大聖人の人間性が、薄れてしまうと思うのです。

本来、敵である念仏信徒が、初対面で日蓮大聖人に惚れ込んでしまうのをみると、「人間的に」よほど魅力的な方だったのだと思います。仏にしておくのは、もったいない方だったと思います。

法華経は、釈尊が亡くなってから500年後に、インド北西部のガンダーラ地方で編纂された経典です。それまでの伝統仏教に反して、在家または僧侶が、仏の名のもとに、新たに経典を作るのですから、様々な妨害・迫害があったと思われます。

法華経に展開されている罰・功徳論は、法華経編纂者に対する、そうした迫害の歴史の表現、とする説もあります。

釈尊→原始仏教→小乗経→大乗経→法華経→天台→日蓮大聖人→日蓮正宗→創価学会・・・こうした歴史のつながりを、たどってみると面白いと思います。

まずスッタニパータという経典を学ぶと、仏教の基礎がわかるはずです。釈尊が何を言いたかったのかが、わかります。中村元訳 『ブッダのことば』という本を読むと理解できます。

この経典より古い物はいまだに発見されていません。ですから、これに書かれている事が、上記の歴史(釈尊~創価学会)の中で、どういう風に変遷してきたかを調べると、興味深い、仏教の歴史がわかるはずです。↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF

日蓮教学だけ勉強していたのでは、広大無辺な、仏教全体がわからなくなる恐れがあります。

逆に、他経典を学ぶことから、日蓮教学を客観的に深く、学ぶことができると思います。

御書には、色んな経典からの引用が、極めて多いですから。
Unknown (そううそ)
2007-12-02 00:11:09
 palさん
こんばんは。

信仰のことは私と見解が違いますが、学会の現状見解は概ね同じですね。

学会の教学についてはマターリさんも言ってますが、日蓮本仏論と法華経至上主義に問題があると思います。
それと本尊至上主義?ですかね?学会員さんという事であれば、マターリさんにも同じ紹介をしましたが、
学会版の御書をお持ちのようですし、LibraさんのHPやブログは十分に参考になると思います。

仏教と批判的合理主義
http://fallibilism.blog69.fc2.com/

下記は膨大な文章がありますのでまずは参考として下さい。
仏教と批判的合理主義++NOTHING TO YOU
http://fallibilism.web.fc2.com/main.html

本の様にまとまってはいませんが、一問一答という形であれば、
富士門流信徒の掲示板
http://jbbs.livedoor.jp/study/364/
がいいです。

創価学会教学、日蓮正宗教学以外の見方もあると言う事です。
妥当性、客観性に優れるのは上記のHPだと思います。

私のブログにあるLibraさんの意見も読んでみて下さい。
創価学会の信仰に功徳はあるか? -1.Libraさんへの質問 : 釈迦仏法~空~法華経と天台宗~日蓮まで
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447
ー8まであります。
Unknown (そううそ)
2007-12-02 00:23:53
palさん

上は教学が多いですが、学会の現状についてはこちらが良いと思います。

想学サロン2.0
http://sougakusalon.blog.shinobi.jp/
Unknown (そううそ)
2007-12-02 01:07:13
マターリさん
こんばんは。

>色々と御批判されていますが、paiさん御自身が法華経至上主義と日蓮本仏論の2点でマインドコントロールを受けておられると思います。
>この点で、日蓮正宗や創価学会が言っている事そのまんまを、paiさんがおっしゃっていると思います。

 そうですね。同感です。
教学自体は日蓮正宗や創価学会も部分的に正しい事を言っているので、どこがどのように 「すり替えたり、MCされていている」のかが 「見分けるのが難しい」 ですね。私もようやくわかってきましたが、教団都合であれば、まずおかしいでしょうね。普遍的、客観的でないと思いますから。

 それと最近、よく思い考えるのですが教団都合というのは=組織都合、あるいは組織主義というのも問題だと思います。思想哲学は全体主義ですし。色々な仏教のHPを読んでいると、個人主義の様な気がします。思想、哲学は個人の悩みや不幸に着眼点がいっていると思います。

話を元に戻すと、最大の問題はMCされて他者に 「何らかの迷惑をかける、」 と言う事だと思います。
それを創価学会員は「その人の為になる、」そういって折伏新聞啓蒙して人の幸福については「その人の幸福は相対的幸福である、」そうした思いこみがあるからやっかいですよね。

私も学会員と同じ思想、思考、言動の傾向をもっていました。少しずつですが学会員と違う見解を持てる様になりました。まだMCはあるんでしょうが、スティーブンハッサン氏の「もう一度、過去を書き出す」というのは役に立っている気がします。

watasi_no_cult_taiken (私のカルト体験)
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/4549/watasi01.html
Unknown (そううそ)
2007-12-02 14:50:23
 palさん
こんにちは。

>御書の顕法謗抄に8大地獄の内容があり、その因縁が出てきますが、仏語に誤りがなければそこに書かれた通りの因果によってそうなるでしょう。

書き忘れました。
日蓮の顕謗法抄の地獄に関する記述は源信の「往生要集」を元にしている(?)ようですね。鎌倉時代の地獄観だった可能性があります。これを日蓮がどの程度肯定し否定したのかが気になります。

当然、創価学会員はアレを読んで日蓮の説だと思っているわけですが。。。。どうも違うらしい?様ですね。地獄の因や三世の因果業報論を検討したのはこうした理由もあったのです。
日蓮の引用についてはマターリさんもそんな事を上記のコメントで書いていらっしゃいますね。

>が、しかし、仏法はしばしば方便を使います。つまりたとえ話。なぜそう断言するかと言えば、人々を地獄の因業から救うのが仏法者の使命ではないですか。

ここに関しては賛成します。

過去世はともかくとして現世、未来において救われる様に「今良い事をする人が良い人」だと思います。
Unknown (そううそ)
2007-12-04 07:09:14
お早うございます。
paiさん

palさんじゃなくて 「pai」さんでしたね。
失礼しました。m(_ _)m
追記 (そううそ)
2007-12-04 21:59:22

 「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり」(「上野殿後家尼御前御返事」P1504)
とても面白いです。 (pai)
2007-12-05 03:58:12
そううそさん、マターリさんいろいろご意見ありがとうございます。
とても面白くなってきました。
私は、とても皆さんのようにいろんな書籍や資料を紐解いて一つ一つを検証している時間がないものですから、皆さんの研究には感心致します。
とりあえずは日蓮正宗・創価学会の教義以上の仏法を研鑽できそうもないので、その上のでの話しだと思ってください。
そもそも、数年前までは、私もバリバリの男子部地区リーダーの創価班で、栄えある本部担当創価班の一員でした。
本部金舞会館通用口に着任していましたら、今は亡くなられた森田理事長(当時)が運転手付きのベンツのリムジンで現れ会館に入っていかれました。その日は先生も会館の最上階から我々の任務を見ておられて、激励のパン牛を差し入れてくれました。
ただ、ベンツのリムジンを見た時、おい、それ誰の金で買うてんねん、と思ったのです。
実は、先生にもその任務も含め、3度お会いしたことがあるのです。
1回目は子供のころ。ピアノを弾いてました。その時、なんだ、ただのおじさんじゃんというものでした。2回目は大学会結成の会合で(本部)出席して頂きました。やっぱりただのおじさんでした。
以前は、先生は正しくて周りの幹部がダメだと思っていましたが、イラク戦争以降、最近のプロパガンダも含めて本人がおかしいと思ってます。
戸田先生の弟子を根拠に死んでもいないのに歴代3代会長を絶対視する会則を作るなど、はなはだ笑止千万です。そのうち会長職を世襲するでしょう。ばかばかしい。
仏法が従で先生が主で、広宣流布が主で信仰・教学は従。活動は広布基金と選挙が真の活動で、一人一人の成仏はそっちのけ。折伏もまるでノルマかなんかのよだし。折伏することで、あるいはされる方の人生を変えるかもしれないのにいい加減。入会すれば幸せになれるとか。祈り方やその根拠を教えなくてどうしてその人を成仏させられるのでしょう。入会後は折伏親を除いてみな知らんぷり。そして退転しそうになると地獄だの罰だのと・・・
私は、学会は金の掛からないところが良いと思ってましたし、今も思ってます。ただ、年一回の広布基金で集まるお金は200万人が1万円出したらどうなります?、それは利権があって当然でしょう。醜くなるのです。毎年その集めたお金の使い道をせめて、基金をした人に公表すべきなのに何もない。募金だから良いのですが、入金前からメモ帳やらなんやらくれて。
ただ、今年もやりますよ。勿論、先生のためではありませんし功徳をもらおうとも思ってません。埼玉文化(旧池田講堂)の年間の光熱費は2000万かかってます。ただで会員に開放してます。ごくまれに気が向いて会合に行くこともあるので、年間使用料金みたいな気持ちで基金は払います。そしてそこに寒い日も毎日立っている無垢な心の創価班の献身に報いるために。私が、かつて門に立つ時は、いつも不軽菩薩の気持ちで会員をお迎えしていました。
信仰とはかくも純粋なものだと思います。
だからこそなんか腹が立つのです。先生のためというのが。あのベンツが。子供つれ禁止の婦人会館が。特権のような本部幹部会参加資格者の誉れが。
そんなことの為に仏法はあるのか?と思うのです。
私は、自分の体験から、本当に祈りの叶うご本尊を疑う気持ちになれません。何度も叶った事があるので。叶うのに時間が掛かったり、違う形ではあっても希望どうりであったり、あるいは祈ったその場で即刻叶ったりしたこともあります。
ようは、帰命する対象がなんであるかは本尊論の肝でしょう。また、祈りを叶えるには、叶える祈り方があります。何百万遍も題目を唱える必要なんかないと思います。大聖人は法華経の行者の祈りとして叶わざるはなしと言っているので、法華経の行者であれば良いし、その端くれと思えば良いと考えました。そうまずは思い込み、あとは諸天善神を働けと叱責し、妙の字を見ながら一念をこめて命の底から祈るとあら不思議、腹の底からふつふつと確信が湧いてきて、願いの叶ったイメージが浮かびああ、この祈りは叶ってると自然と自信と確信が確定するのです。まあそのあと必ずその通りになってます。逆に何万遍祈ってもダメな時がたまにあります。大抵は、その願いを本気で実現しようと思ってないし、そうなればいいなくらいの気持ちでしかなく、一念に億劫の辛労を尽くしてない時です。そうなった時のリアルなイメージも湧かないし、確信も湧いてこないのです。それは、祈りながらそうならないでいいとかどうせダメだとか一念の片隅にある時です。
ご本尊だけは本当にすごいとおもいます。組織はどうせ凡夫の集まりだから、間違いもあるだろうと思ってます。だから、引退後は、皆さんと同じように沢山調べて、このご本尊の正確な根拠・理論・活用方法を正しく後世に残していける活動が出来ればいいなと思ってます。それが私の仏法に対する恩返しになればと。

日蓮教学は、とりあえず大聖人が20数年かけて研究した鎌倉時代当時の文献からの引用やらなんやらを依経としていますので、その先を掘り下げなくても良いと思ってます。釈尊出家の動機からすれば、法華経はともあれ、その根底にある衆生への抜苦与楽の思いがこもっているので、思想の方向性は間違っていないと思ってます。本仏論も、大聖人が自ら本仏を宣言するはずもなく、日興上人が伝えたのでしょう。帰命の対象を何にするか。本当に慎重に考えなければならない事でしょう。狐に帰命すれば狐がとりつく?
所詮は、私たち凡夫の考えが及ぶものでもない部分は仏法にはあります。生住壊空(じょうじゅうえくう)の思想一つとっても、その哲学は西洋科学や哲学を凌駕してるではありませんか。空の概念は西洋人には今でもないですし。まして生死を語るべくもない。天国と地獄しかない生死観ですから。

また長くなりました。
今日はこの辺ですみません。


現世利益 (マターリ)
2007-12-06 14:25:16
>paiさん、今日は。お話を伺うと、色々と学会に疑問を感じながらも組織に留まっておられる理由は、拝めば祈りが叶う、という一点でしょうか?

その事も大切だと思いますが、それだけですと、浅い信仰になってしまう恐れがあると思います。

祈りが叶わなくて学会に失望し、退会して、祈りが叶う宗教を渡り歩く人が、かなりいるようです。

原始仏教典・スッタニパータで、釈尊が、こう言っています。「人は、ああなりたい、こうなりたい、と願いをもつが、叶わないことが多い」と。(この部分は、原文をコピペしたのでなく、大体の記憶です)

釈尊は、超リアリストだったのだと思います。


祈って叶わないことがなければ、病気にもならないし、貧乏にもならないことになります。

現世利益の教えは、仏教(特に法華経)に入るためのほんの入り口で、初心者向きの教えであると思います。

現世利益だけにとらわれると、本来の仏教が全く見えなくなる恐れがあります。
現世利益 (pai)
2007-12-09 02:16:39
こんばんわ マターリさん。ご意見ありがとうございます。

やはり世俗的なのでしょうか、私は現世利益大好きです。祈りが叶っても病気や貧乏はするのが凡夫です。なぜなら、苦しいときしか本気で祈れないからです。

現世利益は結構大切だと思ってます。と言うより、仏法の入り口でもそれがすべてだと思います。
現世利益が無ければ、ただの文化遺産でしかないし、歴史の研究がしたくて信心をするのではないから信仰する意味がなくなるからです。

なぜなら、信仰の根本は悩みの解決だからです。祈りはあらゆる生命の持つアクティブな自然な感情の最も強固な意志だと思います。

この祈り・願い・苦しみからの解放を解決できなければ宗教としての価値は無いと思います。
あるとすれば心のなぐさめでしかありません。
なぐさめでよければ西洋の神やイスラムの神、世界中のどんな宗教でもよいのです。

嫌なことを神や超自然のせいにすればよく、自分以外の第三者が救ってくれるかもしれなく、しかも死後に本当の幸福があると現世を諦めればいいのですから。

私はそんなの嫌です。現世で幸せになりたいのです。


かのニーチェは神は死んだと言って現代哲学の基礎を作りました。実存主義の原型は現実世界の不条理の発見とその解決方法の模索でした。つまり何の力も無い神への忠誠をしたところで、不条理は解決できない、観念の世界に我々は生きてるわけではないという、当たり前なことに西欧人は19世紀後半まで気づかなかったのですね。

そして、カミュは不条理な現実世界で唯一我々ができることは、不条理に対する抵抗だと言っています。
この不条理とは、生命が、生れ落ちたその時から、死の定めを持った存在として何人も死を免れない、つまり死の前には富みも権力も無力であるという深い洞察から来ています。
仏法的でしょう。生老病死・四苦八苦は誰も逃れられない人生の不条理です。

一歩、仏法に近づいてますが、絶望に近いところから出発する抵抗に救いはありません。むなしいニヒリズムです。救えるものは希望だとも言ってます。

つまり、生活の上で必要なものは希望です。希望の最たるものが祈り・願いな訳ですから、宗教にとって願いを叶えるということは最も重要な事でなければならない筈です。

マターリさんすいません。私にとって宗教は学問ではないのです。

現世利益を軽んずるならば神道を信仰したって良いのです。なにせ2000年の歴史を誇るわが国の伝統土着宗教ですから。
何の根拠もなく言い伝えだけでやってる宗教です。はいオカルト(ただの想像豊かな妄想)ですね。


少したとえ話をします。
我が子が大病をしたとします。いろんな病院に診てもらっても治療方法がありません。あとは死を待つばかりです。

諦められないのが人の親でしょう。何にでもすがりつきます。そして助けてくれと願います。自分の命と引き換えでもかまわないから助けてくれと。

これを助けられなければ神も仏もないじゃないですか。困った苦しい時に助けてくれる、もしくは祈りが叶う事がなければ、信じてもしょうがないのです。

だから、現世利益は信じるに足りる宗教の絶対必要条件です。

私は、神や仏のために命を差し出せという宗教を絶対信じません。悪魔の使いだからです。悪魔=脱能命者

神や仏のために衆生はいません。衆生は救うべき存在であって神や仏の犠牲になるべき存在ではないのです。逆に衆生のために神や仏はいなければならない。生贄(いけにえ)を必要とするのであればただの悪魔です。

だから、学会にしろ宗門にしろ、たてまえは民衆と言いながら本当は組織や宗門の利益・保身・権威を優先しているやり方が許せないのです。(特に中央執行部)
利権に群がるいやらしい凡夫中の凡夫の集団だからです。
葬式仏教の現実はなんともお粗末ですよ。卒塔婆を毎年立てなければ死んだ人の供養にならない。はい、何万円!戒名代、はい何十万円。お葬式に法華経を唱えましょう、はい何十万円。金で戒名の位と唱える経典の位が変わるの知ってますか。内の爺ちゃんは親戚の坊主は親戚のくせに戒名代30万取られて、親鸞を賛嘆するお経ではなく歌を仏前で唱えられました。アホくさい。これは葬式産業ですね。

結論は、私は現世利益第一主義です。その叶う原理はオカルトは御免です。科学の時代ですから。

そこで、叶う原理の裏づけとしての教学の探求が、私の探求の出発点です。体験としてご本尊はすごいのは事実です。ではなぜそうなるの?ということを本当に知りたくて当体義抄や諸法実相抄やらなんやらを読み込みました。
私も、ご本尊の体験がなければさっさと止めて無神論者になります。
でも、子供のころは親に言われてお題目唱えても叶ったことがなくて、なんだ、だめじゃんと思ってました。祈り方を知らなかったのです。また、どれくらい本気で祈ったかも知れたものでした。
法華経の行者の祈りとして叶わざるはなし。この言葉を信じてご本尊の中にいる諸天善神に命令するのです。法華経の行者を守れ、この命に代えても祈りを成就させたまえ、あとはイメージしながら妙の字に一念を込める。気迫のこもった一時はあっという間です。そして、心にピンと来るまで祈りを止めない。どこまでも納得するまで祈り続けると・・・確信が湧いてきて歓喜の心が湧き上がるのですね。あとは叶います。
でも、ものすごくエネルギーがいります。本当のピンチ以外ではそのエネルギーは湧いてきませんね。なかなか。

また長くなりました。すいません。

今日はこのへんで。すいません。
Unknown (そううそ)
2007-12-09 08:31:51
paiさん
おはようございます。

時間がないのですが、書けるだけ書きます。

>私にとって宗教は学問ではないのです。

 創価は日蓮遺文から「有解無信」より「無解有信」。信じる事が大事。とか教えますからね。
 さらには創価がカルトでも御本尊への信仰や御書根本であれば個人としてはそれで構わないというのが理論です。

>法華経の行者の祈りとして叶わざるはなし。この言葉を信じてご本尊の中にいる諸天善神に命令するのです。法華経の行者を守れ、この命に代えても祈りを成就させたまえ、あとはイメージしながら妙の字に一念を込める。

そろそろ長文コメントを書いて頂くより、私のブログ記事、それとコメントを全て読んで下さい。

 私とLibraさんの記事やコメントを読んで頂けない様ですし、さらに01番記事のルールに従って頂けないのであれば、すべてのコメントを保留にさせて頂きます。
 地獄論、罰論からどんどん話が逸れていき、「祈りは叶うから創価は正しい」という理論でしかありません。

 私のブログは2年になりますがあなた同様の意見を持つ人が1人も現れなかったのか?どうか想像が付きませんか?

時計の針の 巻き戻し 「仏知恵」で、願いは叶うか?
http://blog.goo.ne.jp/gehen_584/e/dc2690f8c722b17e9155abfdc95819e7

過去記事にも書きましたが、日蓮の「法華経の行者の祈りは必ず叶う。」は信徒に対する道理を外れない中での思いやりでしょう。
現代では道理は「科学的根拠」と言い換える事が出来るでしょうか?

生老病死についてどの様にお考えか解りませんが、例えば「老病死」を避けて祈れば不老不死でいられるでしょうか?

そうすると学会員は「道理だからどうのこうの」と言った答えが返ってくると思います。
ではその道理は具体的には誰から学んだでしょうか?
仏教教育、宗教教育のない日本においては社会や親や友人、学校などです。
 創価から見た他宗、邪宗の人も道理や科学、祈って幸せをつかんでいると思います。
 道理を学んだ上であくまでも部分的に創価は法華経の良い所取りをしているにすぎません。
法華経の内容を全て信じると言う人は私には疑問でしかありません。

法華経=日蓮という思いこみでなく法華経自体は釈迦の時代に限りなく近い時代の経文であるということです。

///////////////////
法華経入門 菅野博史 著 岩波文庫
マインドコントロールとは何か? 西田公昭 著
///////////////////

日蓮でしか、御本尊でしか、創価でしか、祈りは叶わない

聞き飽きました。

絶対的幸福とか相対的幸福とか境涯とかも聞き飽きました。信仰以外で得られた幸福は宿命転換ではないから本物の幸せじゃないとか。。。

聞き飽きました。

コメントを書く事で折伏しているつもりでしょうが、その内容であれば、学会員がいる所でやればいいでしょう。

>本当のピンチ以外ではそのエネルギーは湧いてきませんね。なかなか。

あなたにとっての私程度のピンチではエネルギーはわきますか?(笑)
Unknown (そううそ)
2007-12-09 08:40:58
訂正

創価から見た他宗、邪宗の人も道理や科学を学んだ上で祈って幸せをつかんでいると思います。


きちんとしたコメントでなければ以後問答無用で削除します。
そうそう、あなたの論調のままでコメント削除されない様に祈って叶えてみては如何ですか?
「祈れば何でも叶う」んですからこれ程楽な人生もないと思います。

他の皆さんも相手にして頂く必要はないと思います。
お久しぶりです (みみちゃん)
2007-12-12 07:07:45
そううそさん、ご無沙汰してます。

paiさんのコメントを読みながら、それに対するそううそさんのコメントを読んで、え?っとちょっと驚きました。

なぜ、そんなに感情的に否定する意見を書くのか?と。

>創価から見た他宗、邪宗の人も道理や科学を学んだ上で祈って幸せをつかんでいると思います。

私はこの意見に疑問です。

幸せは「祈って掴むもの」でしょうか?
「幸せになるために祈る」ものなのでしょうか?

私はそうは思いませんし、そのように考えてもいません。

が、「祈る」という実際は、paiさんの仰るような「気持ちからそうする」という人間の行為のような気がします。

これは義務でもなく、理論や学問で得るものではなく、ただ、人間が持つ心に自然に起きてくるものではないかと思います。

その「祈る」という対象が何であるかを、そううそさんは問題にしているのでしょうが、paiさんにとっては、その「対象は、自分にとっては何でもありではない」ということが仰りたいのでしょう?

自分にとっては「御本尊」である。
paiさんがそう思うことは間違いではないし、それでいいと私は思いますよ。

それを、そううそさんが「それは違う」と否定する。
paiさんは何も「だから創価は正しい」とは言ってはいないのに。

それこそ「そううそさん、違いますよ」と私は思います。





誤解があるようですね。 (pai)
2007-12-13 15:53:19
そううそさん こんにちは。

コメント読みました。

正直言って、相当真剣に創価学会の信心をやってらっしゃったのでしょう。また、退転についてのトラウマもかなりおありになるようですね。

私は、大変申し訳ない事をしたのかもしれません。折伏しようなどとは毛頭思ってなかったものですから。

お気持ちは少しは分かりました。
学会や日蓮を何とか否定したいと言う本音がわかりました。
でもこんな考えの奴もいるのだと、できれば削除しないで欲しいです。

最初は学会についての批判を述べたかったのです。
今日も長文のコメントになりますがお許しください。

私は学会と自分の信仰を切り離しました。
学会に束縛されるマインドコントロールからは脱却できました。仏法の論理を信じることによってです。
それは因果の理法は峻厳だと思ってるからです。
身口意の三業(しんくいのさんごう)のことはご存知ですか?
人の業(ごう)とは、
身=現実の悪意・善意の行動。
口=現実の悪意・善意の言動
意=現実に心に抱く悪意・善意の意図
の三つの要素によって悪業・善業が決まっていく。つまり、因を踏むわけです。それに伴う縁があり、その結果としての果があり、その果がもたらす報いがある。因・縁・果・報。
すべての衆生に備わる法則です。
では業の存在はどうやって確認するのか?簡単です。私と、読んでらっしゃる方は別人で別の環境、別の境遇、別の運命を持って生まれてきています。この現実にある生命の個としての差別を業(宿業)というのです。
では九識論をご存知ですか?5識までは5感(目・耳・口・鼻・触)6識は意識(心・我)、7識は無意識(本能)、8識はアラヤ識と言って宿業(記憶・記録)、9識は九識心王真如の都=仏界=生命を発動させる根源=妙法(妙法蓮華)。
私は、受精卵が細胞分裂するあのパワーの源が九識だと思ってます。生命そのものですよね、あのパワーは。
この考え方は哲学の範疇です。生命の謎は科学では永遠に解明できないでしょう。受精卵が細胞分裂をするあのパワーは、その源は????または、種の発芽はのパワーは?

因縁果報、このロジックは否定しようがないと思います。現実に起こっている現象面を捉えているからです。

地獄の業も罰もこれに由来するわけです。

ただ、信心していなくても幸せな方は沢山いるのも知ってます。
学会を辞めたからといって必ず不幸になるとも限りません。学会はただの洗脳された人の集まりですから。
因縁果報からすれば良き因を踏めば良き果報を受け取れる筈です。身口意の三業はそれ自体が因となるわけですから。
祈りはその中の意に当たります。意は行動(身・口)の根本です。祈りは因なのです。そうなると、何に祈るかが重要でしょう。
帰命といって祈りは命を預けるわけですから、犬や狐の神様に命を預けられません、畜生界ですし。信仰とは怖いものです。キリストやイスラムは天界。第六天ですね。脱能命者として生死を支配する。

幸不幸はその人の主観です。叶わない信心をするより叶う信心をしたほうがまし。信心しなくたっても良いし。私の人生は御本尊はあるけど90%くらい信心してません。10%は困ったときの神頼み的な信心です。ご本尊のある安心みたいな。

ブログ読みました。
恋の悩みを信心で解決するのは至難の業ですよ。
仏法でいう縁の問題が大きく関わってますね。
なぜなら、恋が成就し結婚までいくと、子供が出来ます。
相手が誰かで、どの子が生まれるか変わるので、それこそ我々のコントロールできない宿業を感じます。新しい生命の生老病死の根幹に触れるのですよ。
これぞ生命の不思議ですね。
縁のない人にいくら祈りを注いでも恋は成就しません。一時期成就しても必ず別れますね。心の奥底にどこかこの人ではないと無意識に思ってましたね。
上司との不仲は何度も解決しましたよ祈って。大抵3ヶ月をめどに上司がいなくなりました。
皆さんは祈りの叶ったことが無いのですね。文面からしますと。また、過大に期待しすぎてますね。問題は急転直下に解決する場合と、ゆっくり時間がかかってしまう問題とがあるのです。根気よく解決するまで祈り抜いてないような気がしますし、やっぱり祈り方を知らなかったのかな?学会じゃ教えてくれないもんなあ。私は御書を読んであのやり方にしました。大聖人が八幡大菩薩を叱責してるところを真似たわけです。
ついこの間人事部が画策する人事異動を祈って阻止しました。大切な部下を戦力を他へは出せませんと。2週間祈りました。
信心は、目の前の困難の解決にけっこう注いでます。
別に学会の誰かに言われて祈ってるわけではない事を付記しておきますし、学会の正当化や擁護をしてるわけでもありません。
日々の生活の問題と向き合ってのことです。

この掲示板はとても重要なテーマを投げかけてくれてます。

学会を体験してやめた方、私みたいに退転しても御本尊だけは信じてる者、まだ学会にどっぷりつかってるけど疑問に思ってる方、思いっきり学会につかってる方。またはアンチ日蓮派などいろんな方がいらっしゃる。いろんな意見があってよいと思うのですがダメですか?

今日はこの辺で。

違うなぁ~・・ (みみちゃん)
2007-12-14 07:28:21
でもやっぱり違うなぁ・・

paiさんがされてる「祈り」というのは、どこか呪詛的な意味合いが強い感じがします。

人と離れて、一人端座し「祈る」という行為が、そこに居る自分から離れたところにいる人に何らかの変化をもたらすとか、直接、自分が関わってない人間関係にまで影響を及ぼすとか、それは、あまりにも超ミラクルというか「超常現象的」すぎる。

そもそも「祈り」というのは、こういう「現象」への期待のために存在したのではないと私は思うし、実際そのように扱うのも良くないと思います。

祈りも行為ではあるけど、人と離れての「祈り」というのはなんか違う気がする。

そうじゃなくて、やっぱり祈りの最中に心に湧く気持ちと、直接人と関わってる最中に湧く気持ちが、同じであるかないか、どんな気持ちで、どういう思いでその人と接してるかが「行為」そのもので、それが「因果」「縁」というものの流れを決めてゆくのではないかと感じます。

であるなら、paiさんが言われるような「祈り方」というのは、知ろうが知るまいが問うべき問題でもないし、マニュアルみたく存在させる必要もない。

心というのは、或る形の上に成立させるものでも、そう扱えるものでもないもののはずですから。

第一、日蓮は「祈り方」をマニュアル化させたのだろうか?
ただ「祈ったまま」の心で、人に関わり続けて生きたのではないか?
その実際の「関わり方」こそが「祈り」そのものだったのではないだろうか?

日蓮仏法が「万人に与えられたもの」であるなら、何も御本尊という曼荼羅に向かって祈るなんていう「特別な行為」なんか必要ないと思います。
「いつでもどこでも」「誰もが、万人が可能」と謳うのなら尚更です。

それと、

>縁のない人にいくら祈りを注いでも恋は成就しません。一時期成就しても必ず別れますね。心の奥底にどこかこの人ではないと無意識に思ってましたね。

というご意見には、私は疑問に思います。
「この人ではない」という潜在意識を持ったまま、果たして「縁」を成就させようとするエネルギーが心に湧くものでしょうか?
その逆であれば考えられますけど・・。

縁を成すのは意識によるところが多いでしょうが、「なんとなく」という潜在意識は、具体的な何らかのアクションを起こさせる明確な意識へと変わりゆくものでもあります。

縁というのは「関係性」だと考えますから、その濃度は関係性をどのように考えるか、思うかで、意識の置き方も関係性の中での自らの行為(アクション)も違ってくるものだと思います。

その、人との関係性・・関わりを、自分がどうしたいのかと思う様に合わせて、その関係というのは形作っていくのではないでしょうか。







みみちゃんさんへ (そううそ)
2007-12-15 10:07:07
お早うございます。
みみちゃんさん

●幸福とは?

>>創価から見た他宗、邪宗の人も道理や科学を学んだ上で祈って幸せをつかんでいると思います。

>私はこの意見に疑問です。
>幸せは「祈って掴むもの」でしょうか?
>「幸せになるために祈る」ものなのでしょうか?
>私はそうは思いませんし、そのように考えてもいません。

祈って幸福をつかむ場合もあれば祈っても不幸になる場合はあるでしょう。
創価であろうと無かろうとどちらもあり得る話だろうと思います。
過去記事にも何度も書いてきました。

×
祈って幸せをつかんでいると思います。

祈って幸せをつかむ場合もあれば祈っても不幸になる場合もある、と思います。

追記訂正します。

宗教的な祈り自体は必要でも不必要でもないでしょう。
ケースバイケース。その人次第。その状況次第だと思います。

●日蓮の本尊は絶対という創価思想を問題にしています。

>「祈る」という対象が何であるかを問題にしている

いいえ。
本尊自体は創価学会以外の仏教にもありますし、祈る対象は仏教以外の他宗教にもあります。
別に、日蓮の本尊に祈っても問題はないでしょう。教えや内容が宗教であれば。

問題はカルト的な教えが入るかどうかです。

ある人Aさんの子供や親が病気になったとします。
創価であろうと無かろうと自分の宗教の本尊に祈り、宗教的な教えや経文を理由となり、
具体的に行動する、行動出来る事は悪い事ではありません。
ここでは、例えば病気ですから看病や世話してあげる事がそうでしょうか?
ここまではカルト性はなく、宗教的だと思います。

問題はここからです。
創価の場合で書きます。
治った場合、御本尊のおかげで宿命転換出来た。病気が治った。→(折伏、新聞啓蒙、ご供養をしっかりするように。)
治らない場合、それは病人本人の宿業、あるいはAさんの宿業です。信心が足りません。→(折伏、新聞啓蒙、ご供養をしっかりするように。)

というわけで 「折伏、新聞啓蒙、ご供養をしっかりするように。」というわけで組織にメリットのある様に組織信仰する事が求められてしまいます。この信心を教えてくれた池田先生のおかげ。とかね。

こういう教えが入るとカルトになっていくわけです。
治った場合、前者はオカルトやまじない信仰であり後者は罰論、宿業論に繋がっていきます。

>paiさんにとって
>「対象は、自分にとっては何でもありではない」

という事について全く問題にしていません。
彼の頭の中にある教学や心の問題として、創価の教えや学会員の傾向性、宗教的に問題ある傾向性を疑問視するのです。

●幸福体験の言い方。

私は幸福体験を語ったら駄目なんて言っていません。

幸福体験を語る方法や傾向性に宗教かカルトかの違いがある、ということです。
難しい問題ですが、ここをごっちゃにするとおかしくなります。

例えば先のAさんは病気が治ったという幸福体験を語っても良いでしょう。

「信仰して、一生懸命看病して家族の病気が治った。」
誰でも「 ””病気が治って”” よかったね」って言ってくれると思います。

「信仰して、一生懸命看病して家族の病気が治った。
一生懸命看病する事を教えてくれたのは法華経。(あるいは日蓮の教え)
だから法華経信仰しませんか?」

ケースバイケースで問題がある可能性があると思います。問題ない場合もあると思います。

「信仰して、一生懸命看病して家族の病気が治った。
一生懸命看病する事を教えてくれたのは法華経。(あるいは日蓮の教え)
だから○○○○(宗教団体)に入りませんか?」

かなり問題がある可能性が高いと思います。

「信仰して、家族の病気が治った。
病気が治ったのは御本尊の(力の)おかげ。(あるいは日蓮の法力)
だから○○○○(宗教団体)に入りませんか?」

かなり問題があると思います。

「信仰して、家族の病気が治った。
病気が治ったのはこの信心を教えてくれた池田先生おかげ。
だから創価学会に入りませんか?」

カルト。

少なくとも私はまじない信仰を強調するのは正統派仏教ではないと思います。

創価学会員は「一生懸命看病」「病気が治った事」という誰にとっても良い事と宗教をごっちゃにしています。
その良い事をすべては本尊や日蓮、池田氏、学会のおかげと勘違いしていると思います。

「一生懸命に看病した甲斐あって ””病気が治って”” よかったね」
これがいつの間にか学会員の頭の中で
「創価学会の信仰をすることがよかった」
にすり替わっています。

すべては御本尊のおかげ。
というのは
御本尊は絶対。
と同じです。
Unknown (そううそ)
2007-12-15 10:07:25
そうそう、ある人の研さんの受け売りですが「祈」という漢字は法華経本文にはないそうです。御祈念文は「祈」ですが、それは日蓮正宗や創価学会が付け足した物ですよね。

以下、転載許可を得ていないので主旨
/////////////////////////////////////
法華経、止観・文・玄、決・記・籤で「祈祷」で検索すると何もヒットしない。
「祈」一文字で検索するとヒットしたのは、以下のみ。

「摩訶止觀」「勸請者。名爲祈求」
「止觀弘決」「祈請爲口業」「祈是請法」
「文句記」 「祈體理同故略三藏」

法華経本文には「祈」「祈祷」とは無縁であり、御祈念という概念すらない。
/////////////////////////////////////

富士門流信徒の掲示板 つぶやきすれっど2
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/2484
ああ・・なんか分かるような気がします (みみちゃん)
2007-12-15 11:36:38
そううそさんが言われてる・・疑問に感じられてることが、なんかちょっと理解できる気がしました。

>「一生懸命に看病した甲斐あって ””病気が治って”” よかったね」
これがいつの間にか学会員の頭の中で
「創価学会の信仰をすることがよかった」
にすり替わっています。

そうですね、これ読んで「ああ、なるほど」と思いました。
そうなんですよね。

あくまでも、自分がそう思って、感じて「した行為」なんだけど、それは「学会の信仰ゆえに」みたいな、そのように心を「仕向けたもの」によって「自分はそうした」みたいな捉え方をしてしまうところは、確かに、ほとんどの学会員は無意識に持ってるような気がします。

実際、自分を振り返っても、そんなところありましたしね・・。

こわいですね、知らず知らず、無意識にそう考えてしまうところは・・。

実は、前にあのheckさんとそんな話をメールでやり取りしたんですが、そううそさんが言われてるのと同じような指摘をされましてね、その時はちょっと意思の疎通が出来てないような気がして・・私の考えが上手く伝わらないというか、理解されなかったような感じで、あとからもう一度よくいろいろ考えてみたら、なんか妙に納得したんですよ。

自分が「善いことをした」のは、何も「信心してたから」ではなくて、信心してたからそういう行為に至ったわけでもなく、ただ、私のもともとの(生来の)「人間性」ゆえではないか?というふうに。

彼女はたぶんそれを言いたかったようなんですが・・
もっと自分に自信を持てという思いで・・。

何も自分の長所を謙遜したり、卑下なんかしなくても、もともとの自分っていうんでしょうかね、信仰の影響とか御本尊の力とかではなく、「もともと」そういう心を持ってるという、ある意味「素直」な気持ちで「自己肯定」したっていいんじゃないかと。
それは別に思い上がりでもなく、傲慢なことでもないんじゃないかと思いました。

素直に自分の正は正として認める。
それは自分のみならず、人もまたみなそうで、信仰の有無をまず見てから判断するとかではなく、「そのまま」に人を見ることは、とっても大切なことだと改めて思い直しもしました。

信仰で自分を飾る必要もないし、そうしたもので本来の人間性を「それゆえの善」として誇張させる必要もない。

「そのままの自分」として、まず、「自分の中にある善の要素を認める」というんでしょうか、誰もが平等に持つ人間としての価値を認める。

その上に、信仰の価値は開花するような気がしますね・・。

まず、信仰ありきではなく、人間ありきかと思います。

まぁ確かに、学会の信仰を持つ家庭に育ち、そうした環境の中で特定の思想を持った親の人間性から受けた影響というのが、少なからず、私の人格形成にも関わってるとは思いますが・・。

それでも、父は父。母は母。私は私。それぞれ全く別の、違う個々の人間として存在してるということは、間違いのないことなのですから。




Unknown (そううそ)
2007-12-15 14:12:49
みみちゃんさん
たびたび、どうも。

>なんかちょっと理解できる気がしました。

助かります。

>あくまでも、自分がそう思って、感じて
(中略)
>確かに、ほとんどの学会員は無意識に持ってるような気がします。

同感です。

>自分を振り返っても、そんなところありました

そうでしたか。私も同じようにMCされてましたね。

>こわいですね、知らず知らず、無意識にそう考えてしまう

そうですね。まさにスティーブンハッサン氏のマインドコントロールの恐怖ですね。

>実は、前にあのheckさんとそんな話をメールでやり取りした

そうでしたか。

>私のもともとの(生来の)「人間性」ゆえではないか?というふうに。
>彼女はたぶんそれを言いたかったようなんですが・・
>もっと自分に自信を持てという思いで・・。
>「もともと」そういう心を持ってるという、ある意味「素直」な気持ちで「自己肯定」したっていい
>素直に自分の正は正として認める。

等身大の自分、ありのままの自分ということですね。
当然、そこには反省や後悔も必要だと思います。
記事に何度か書いてきましたが、

「反省、謝罪、振り返る、後悔etcetcということを放棄させるのが創価学会」

だと思います。

>まず、信仰ありきではなく、人間ありきかと思います。

同感です。

>まぁ確かに、学会の信仰を持つ家庭に育ち、そうした環境の中で特定の思想を持った親の人間性から受けた影響というのが、少なからず、私の人格形成にも関わってるとは思いますが・・。
>それでも、父は父。母は母。私は私。それぞれ全く別の、違う個々の人間として存在してるということは、間違いのないことなのですから。

大丈夫ではないでしょうか?

カルトのMCが人間に悪影響を与えるのは事実だと思いますが、常に創価が時間的に100%MCしたとしても、ある人Aさんの人生全ての時間がMCされていたわけではないと思います。だから2世3世の人は退会する事で哲学的に戻る場所がない気(あるいは恐怖)がしますが、そんな事はない気がしてきました。もう少し考えて記事にするかもしれません。
ちょっとひとこと (みみちゃん)
2007-12-19 09:27:49
>だから2世3世の人は退会する事で哲学的に戻る場所がない気(あるいは恐怖)がしますが、

う~ん・・哲学って「唯一」として存在するものでも、そうさせるものでもないような気がしますが・・。

「戻る場所」というのを、信仰としての精神的な「拠り所」という意味でおっしゃってるんであれば、2世3世「だから」無くなる、と考えるのはちょっと違うような気も・・。

やはり同じ信仰をしていても人が違えば「別物」であることは、いろんな学会員を見てきたそううそさんにならよく分かるかと思います。

みんな親が違うわけですからね。

親の信心深さの強度も教義の理解度も違うし、それよりも親自身の「人間性」や子供への接し方のほうが何よりも「より強く」子供に影響を与えていると思います。

信仰は二の次の問題というんでしょうか。
実際、影響を与えるのは、「信仰」よりも「人間性」のほうが大きく潜在的かと思います。

自分にとって親が実質「どんな対象」であるかという関係性の中に、「信仰」への「是非」を問うような気もしますしね・・。

どんなに口で善いこと言いながら子供を育って、子供はその親の持つ「愛」を感じながら生きていきますから、そこに「口」と「振る舞い」の矛盾というのは、理屈として説明できなくとも心にははっきりと感じることは出来てるはずです。

そうした「矛盾」として受ける、親の内面に対する違和感というのは、無意識の中に「不審」として「不信」を抱くようになっていくのかと思います。

私はそういう意味で、以前、別記事のコメントにも書いたわけなんですけどね・・。

なんて、ひとことが長くなりました。



Unknown (そううそ)
2007-12-20 07:13:20
みみちゃんさん
おは!です。

>う~ん・・哲学って「唯一」として存在するものでも、そうさせるものでもないような気がしますが・・。

私もそう思いますよ。

様々な哲学、宗教、個人の考えがある事

戻る場所、つまり一個人のアイデンティティや哲学
は別個の議論や命題です。
祈りが叶わないとき (マターリ)
2007-12-20 22:35:14
福祉関係の会合で、ガンと戦っている方の講演を聞きました(非学会員)。何回も手術をしながら、かろうじて生きておられます。その方が、こんな事を言っていました。・・・

「人生の中で八方ふさがりになり、身動きもできないような、どうしようもないときがあります。そんなときは、手を合わせて祈るしかなくなるのです。祈っているうちに、自然に心が落ち着いてきます。祈る言葉は、南無妙法蓮華経でも南無阿弥陀仏でも良いのです。」

私も、祈りとは、自分の心を落ち着けるものかな、と思っています。私も含めて学会員の場合、「祈りとして叶わざるなし」と教わってきました。

祈りが叶っているうちは良いのですが、人生はそんなに甘いものではありません。叶わない事の方が多い、むしろ、叶わない事ばかり、というのが実感です。

現世利益ばかり考えていると、祈りが叶わなかったときの落胆がひどかったことを覚えています。

祈りが叶わなかったときに、どう心をコントロールするか、の方が重要かと思います。
Unknown (そううそ)
2007-12-21 19:20:26
こんばんは
マターリさん


>私も、祈りとは、自分の心を落ち着けるものかな、と思っています。
>祈りが叶わなかったときに、どう心をコントロールするか、の方が重要かと思います。

こうした事が一念三千や止観、禅定なのかもしれませんね。勉強不足でまだよく分かっていませんが。

法華経本文には「祈」と言う文字はないそうです。でも「禅定」はありますね。禅宗の禅です。
創価学会、日蓮正宗系だと確かに 「祈りとして叶わざるなし」 ですよね。

しかしこうして色々と学会や正宗の嘘が出てくると経文解釈も当然疑わしいでしょう。
はっきり言ってバリ活の人はこれだけ嘘がある現実を見抜けないのです。
それがMCであり思いこみであり定義はともかくとしても疑問に思うか謙虚になって欲しい物ですね。

かくいう私も14年から16,7年、MCや思いこみが解けなかったわけですから、これがMCの問題点であり、恐ろしさでしょうね。
ちょっとだけ (キマグレカモメ)
2008-05-25 07:56:44
信仰と云うのは疑ってかかっても大いに結構だし当たり前ですよね。御自分が入る宗教を勉強され納得して始めるのだと思います。で入れば文字で信心と書いてますから信ずるこころなんですね。 ここに記載されてる疑問視を抱いてるかた方はそれが、かけてらっしやるのでいつまでも立ってもその教えが命・心から理解出来ないんでしょうね。 かわいそうに、と思っちゃいます。 南無とは帰命と云います。私はその教えに命を捧げますとの意味です。もう少し信仰心を宜しく。
Unknown (そううそ)
2008-05-25 12:36:27
キマグレカモメさん
こんちは。

01番記事、及び全部の記事を読んでいないと思われるコメントですね。

>南無とは帰命と云います。

知っていますよ。学会でも学会版御書でこれは教わりました。

>私はその教えに命を捧げますとの意味です。

「命を捧げる」という意味はあくまでも精神論や決意と呼ばれるモノでしょう。
それならば、謗法をしている私を折伏し「教えに命を捧げ」て、ごらんなさい。

>教えが命・心から理解出来ないんでしょうね。 かわいそうに、と思っちゃいます。

 キマグレカモメさんも昔の私と同じで学会教学や日蓮仏法が正しいと信じているんですね。
おそらく幸福体験から信じているのでしょうが、学会員だけが必ず幸福になれる訳ではないでしょう。
Unknown (元学会員)
2008-09-01 23:13:23
創価の人は考えることをしないロボット集団

成仏していないと死に顔で判断できるか?
創価に入ったら信心したら福運つく

まず創価の人は何百万の会員がある
その一人一人の会員の死に顔を見ることなどできない
また何百万人の生活状態を知ることはできない
交通事故や他の事故にもあっている
創価の中にも不幸になる人はいくらでもいる

創価はカルトだからいろいろ不確定なことで脅す
死に顔がどうだとか不幸になるから信心しろとか
先祖の因縁でどうだとか同じ
みんなカルトのやっていることだよ

創価はともかく政治的、権力的に圧力をかける
あとは宗教を都合のいいように解釈して会員を脅し
会から脱退できないようにする
カルトということがこれだけでもはっきりしている
創価はフランスではカルトと認定されたから
国で禁止すべきなんだが政治力があるからできない
創価の目的は一体何なんだろう
宗教を利用して権力奪取すること
この世の権力を我が物にすること意外ない
幹部はだからベンツにものるし
池田は世界から勲章集めもする
創価の幹部でまず成仏する人は一人もいない
凄まじい欲望のかたまりだから地獄行きはまちがいない
池田は最悪の地獄に行くことは決定している
地獄で「オレは庶民の王」だとわめいているよ
会員はオレの奴隷だった、オレは王だったとな・・
池田氏がどの様に物事を考えている人物なのか? (そううそ)
2008-09-06 02:44:08
こんばんは。
元学会員さん

>地獄で「オレは庶民の王」だとわめいているよ
>会員はオレの奴隷だった、オレは王だったとな・・

池田氏がどの様に物事を考えている人物なのか?他人や自分をどのようにみているか?などなどを考察する記事も予定しています。

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