創価学会の信仰に功徳はあるか?

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2008年02月11日 13時19分38秒 | 創価学会
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肯定的証拠をいくら積み重ねても理論の正しさは証明されない(小河原誠)
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ここでは、もう一端、つまり、肯定的証拠を積み重ねることが科学の営みであるという考えに立ち返ってみよう。これは科学についての本当に正しい見方であろうか。
 一例として、天動説、つまり、大地は静止しているという考えが信じられていた時代を考えてみよう。その時代にあっては、京都においてであろうが、北京においてであろうが、たとえば小石を自然落下させれば真下に落ちるという、大地静止説にとっての肯定的証拠をあらゆる地点あらゆる時点で無数に集めることができただろう。そしてもし、帰納法が科学を営む唯一正しい方法であると信じられていたとしたら、世界の各地をめぐりながら、またさまざまな物体を自然落下させながら、真下への落下の事例をかき集めていくことが科学であったことになるだろう。しかし、それらの証拠なるものは、なるほど大地静止説とは矛盾しないかもしれないが、大地静止説が真なることを立証するだけの力をもっていただろうか。明白に否である。
 地動説を信じ、地球の自転を信じている今日のわれわれにとって、小石が自然落下で真下に落ちるのはまさに地球が静止しておらず、動いているからである。真下への自然落下は、慣性の法則を念頭におけばまさに、地動説──天動説とは決定的に矛盾する──にとっての肯定的証拠である。真下への自然落下という同一の事象が相矛盾する理論双方にとっての肯定的証拠となってしまうのである。いったいこれはなにを意味しているのであろうか。──ひとつの解釈がある。肯定的証拠をいくらかき集めたところで、理論の真なることを立証できないのであれば、そのような営みはきっぱりと投げすてて別な方向に科学の真のあり方を探らねばならない。そして、実にこれこそが一九一九年の時点でポパーが歩みだした道であった──今世紀の科学哲学の樹立に決定的役割を果たした反証可能性というみのり豊かな観念を胸中に秘めながら。
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