創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

176.創価学会員とのやりとり その9

2007年02月03日 11時38分18秒 | 創価学会
 過去に創価学会員のメールを晒した事があります。

 最近、そのことに関連して、ある人からTELにてご注意を頂けたのと、別の人から一般論として、「どこからどこまでがプライバシーといえるのか? 問題解決の為、事例の列挙する事と言えるか?」という議論をしました。質問などが2つ重なったので今の考え方を書いておきます。 記事番号としては92、107、108、109がそうだと思います。簡潔に書くと


荒らし行為があった。マナー違反

学会員のブログに抗議文書を貼り付けた。nanaさんが忘れるといけないので備忘録

別の学会員Bが来てやはりマナーを守って頂けない。

上記の事にも某学会員Aは注意しない

”私から先に”対話を継続するメールを某学会員Aに3度も送付。

私からのマナー方針に了解して頂き、病気の責任が取れない事に同意して頂いた。A

またも荒らし行為。マナー違反

「がたがたぬかすんじゃねぇ」という暴言。マナー違反

出入り禁止

出入り禁止にした私の人が疑われると嫌なのでメールを公開。B

gooより一方的に削除要請(gooに抗議しても覆らない)C

学会員のメールを主旨に変更して今に至る。


というわけで、Aの時点で問題人物と約束させる時にはメール公開の同意が必要か????。。。
01番記事の厳守をしてもらうよりほかないが。。。。。
---------------------------
創価学会に功徳はあるか?を書く前に。
>○1-2.メールについて
 受け取ったメール内容に問題が有り、抗議しても妥当なお返事が頂けなければ、ブログ上に晒します。更に酷ければプロバイダなど正式に抗議します。
---------------------------

 B、Cの時点で学会員Aにメールで和解か抗議、同意を得ても良かったかもしれないが、思いつかなかったですね。TELでご指摘頂いた様に今後は

「メール公開の同意を可能な限り得る様、」

気をつけたいと思います。トラブルの場合にはケースバイケースですね。

○言い訳

いきなりやってきて罵倒、など最初からマナーの問題がほとんどである。(仏法対話らしい対話はほとんどしていない)
躁鬱病の人に来て貰っても対処に困る。
こちらから3通もメールで和解を促し約束し、折伏もコメントも許可した。
問題のあるメールが来た時には公開する。(01番記事)
「和解と約束のメール」は問題解決といえる。
「和解と約束のメール」を表に出す事は私の信用維持に繋がる。(出さないと信用を失う)
学会員A、B共にマナーの話しかしていない、マナー違反ばかりしているのに、自分に都合の悪い所だけをgooに頼るのはいかがな物か?

「和解と約束のメール」を公開する事は、なによりも今後の荒らし対策になる。

というわけで私にも失敗はありますね。今後はBとCに気をつけるしかないですね。

○今後

「どこからどこまでがプライバシーといえるのか? 問題解決の為、事例の列挙する事と言えるか?」

やはり、軽々に”判断する事””判断出来る事”の方が危険ですね。
ケースバイケースで慎重な判断が必要ですね。

こうした事を思い返すとネットの学会員に必要以上に親切にするのは無駄なのかもしれません。

 1万5000文字も書いて、アンチ創価が創価を擁護する苦労という物が無駄になった様な気がします。そういう人と友人でいると私も疑われてしまうでしょう。
私の恥であり、失敗であり、人を見る目がなかったわけですが、きちんと残しておきたいと思います。

 なお、多くの相談者からメールを頂いていますが、ご了解を得てメールの一部公開したのはチョココさんの件だけかな?。なぜか8割が結婚と恋愛相談ですが。。。。。全部一般論として、私の意見として記事にしていますから問題ない様に気は遣っているつもりです。

なお、メール公開も建設的な人であれば、チョココさん、Libraさんのように「どうぞどうぞ」と言って下さいます。

以上
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メール公開の違法性 (Libra)
2007-02-03 18:59:48
 そううそさん、こんばんは。

 「著作物性のある電子メール(未公表)」を著作者の許諾を得ずに勝手にブログ上に公開するのは違法です。著作者の人格権と財産権ともに侵害することになります。要約して公開するのも違法です。以下の資料がわかりやすいとおもいます。

  あんこう椿「小論文 電子メール公開の違法性」
  http://www5f.biglobe.ne.jp/~a-tubaki/page6.htm

 策略にはまって違法行為をさせられてしまうようなことのないように、十分に注意されて下さい。
Unknown (そううそ)
2007-02-03 23:48:41
こんばんは。
Libraさん

 実を言うとここのところ急激に創価学会には興味を無くしている(笑)ので今後は仏教の書籍の感想文サイトになってしまうかもしれません。なので、創価学会員が荒らしに来る事はもうほとんど無いような気がします。。。。

 正しくない教団がこれだけ大きくなるという事は仏法の法則など意味がないように感じつつあるのです。
Unknown (そううそ)
2007-02-04 00:07:52
師匠と同じ認識になるかどうかは不明ですが、密教も勉強してみるつもりです。密教と日蓮も。コメント頂いた分は自分なりに消化したいと思っています。
仏法の法則など意味がない? (Libra)
2007-02-04 11:25:18
 そううそさん、こんにちは。

1.「正しくない教団がこれだけ大きくなるという事は仏法の法則など意味がない」?
 このご発言は、「仏法の法則を正しく伝えていない教団がこれだけ大きくなったということは、仏法の法則などには意味がない」という趣旨なのでしょうか。

 インドにおいても、仏教の縁起説は敗北しました。カースト制度を覆すこともできませんでした。歴史的には、カースト制度を温存するような理論が勝利したわけです。しかし、はたして、そのことから、「縁起説などには意味がない」といえるのでしょうか。

 ある理論に意味があるかどうかは、まずは、その理論が真理にどれだけ近いかという観点から測られるべきなのではないでしょうか(以下を参照)。

  真理について
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-2.html

 もちろん、その理論が実際の問題をどれくらいうまく解決できたか(より解決が困難なさらなる問題を引き起こしてはいないか)という観点も必要だろうと思います。
 
 これらのことをすべてすっとばしてしまって、いきなり、「より宣伝に成功した理論の方が、より意味がある」だとか、「宣伝に成功しなかった理論には意味がない」だとか、そんなふうに考えるのは馬鹿げているのではないでしょうか。

 いうまでもなく、「より宣伝に成功した理論の方が、より真理に近い」などということはありません。みんなが天動説を信じていた時代でも、地球は動いていたのですから。

 創価学会が多くの国に宇宙生命論を広めることに成功したのだとしても、その事実は、宇宙生命論が真であることをなんら保証しません。


2.創価学会は密教としては王道を歩んでいる
 密教のベースは「梵我一如」であり、それは、現代風にいえば「宇宙生命論」です(以下の資料を参照)。

  宇宙生命それじたいを本体とする法身大日如来(宮坂宥勝)
  http://fallibilism.web.fc2.com/035.html

  マクロコスモスとミクロコスモスが本来的に一体(松長宥勝)
  http://fallibilism.web.fc2.com/034.html

  密教の「入我我入」(頼富本宏)
  http://fallibilism.web.fc2.com/037.html

 創価学会は、密教としては、立派に王道を歩んでいるといってもよいでしょう。

  勤行─大宇宙と自身の生命交流の儀式
(「やさしい教学」『聖教新聞』)
  http://fallibilism.web.fc2.com/063.html
Unknown (そううそ)
2007-02-07 21:35:16
こんばんは。
Libraさん。

>仏法の法則など意味がない?

>「仏法の法則を正しく伝えていない教団がこれだけ大きくなったということは、仏法の法則などには意味がない」という趣旨なのでしょうか。

これは今の私にはとても難しい質問であり、答えるのが苦しい質問です。

 仏法の法則なのかはわからないのですが、学会教学で教わった中に因果応報や幸福と不幸というのがあります。学会ではよく福運とも言いますね。創価学会で、罰論、福運論をたたき込まれ、様々な悩み事の中で、

「いつか必ず好転するんだ。打開できるんだ。祈りはかなうんだ」

こう信じていた私にとって気がついたら何もかも失っていたわけです。
ご本尊に祈って幸せになるという「因果応報」を信じていたわけです。先のやりとりのとおりまじない信仰をしていたわけです。

創価教学がこれだけ日蓮教学とも違っていて今まではいったい何だったのか?
という後悔と悔しい気持ちがあります。。。。。。

 信じた私が馬鹿だったとしか言いようがありませんが、私の紹介者である某君は(嘘の創価教学だけを一つとっても)私のような罪悪感や後悔は感じていないでしょう。おそらく今でも他人事かと。「そううそのことは仕方がなかった。」ぐらいにしか思ってないのではないでしょうか?むしろ一時的にせよご本尊を拝ませたのだから私には福運がある、と思っているかもしれません。別れ際に「池田先生の事を悪く言ったら許さないから」なんて言う人に慈悲や思いやりを感じる事は少なくとも私には難しいです。

簡単な文章なのですが、どうしてもこうした事をコメントするのは今までの自分を思い返します。。。。。
時間がかかった事をお許しください。。。。

皆さんや書籍などから原始仏教や仏教の基本を。日蓮仏法をLibraさんから教わって、
日蓮を肯定出来る部分が増えるかもしれません。

謙虚に学ばせて頂きたいと思います。
実際、Libraさんに教わってかなり楽になりましたし。。。

●「因果応報」

「因果応報」に関しては、友岡氏の書籍もありますし感想を書いてからか、あるいは、基本仏教をきちんと学んでからLibraさんに質問するつもりでいました。。。。。いきなり聞くのも失礼ですし、質問文が思い浮かびません。

(すでに友岡氏の「ブッダは歩む ブッダは語る」にも書かれていますが)

あえて今聞けるとすれば、、、、

Libraさんから見て「因果応報」は仏教の基本となる考え方なのでしょうか?
Libraさんから見て「因果応報」は釈迦の考え方や立場は?
(もしご存じでしたら、日蓮の時代の天台宗、密教も。。。)
Libraさんから見て「因果応報」は日蓮の考え方や立場は?

というところでしょうか?もうちょっときちんとした質問が書けると良いのですが。。。。。。

友岡氏の書籍でもここはかなり重要なメインテーマであり、因果業報論はむしろもっと書いて頂きたかった(笑)と思ってます。(ページの都合なのか、かなり圧縮されて書かれている気がしますね。(笑)(^_^;A )

●仏教史

>歴史的には、カースト制度を温存するような理論が勝利したわけです。

これは人々には受け入れられなかったわけではないと思います。
しかし宗教として、主流にならなかった事実があると思います。

しかし今は過去記事に書いたとおり、様々なメディアがあるおかげで、
像法、末法どころか、正法の再現が可能だと思います。

>そのことから「縁起説などには意味がない」といえるのでしょうか。

いいえ、意味があると思います。
実際、Libraさんに教わってかなり楽になりました。
リアルでも(リアルでは私はまだマシだったみたいですが。。。)ネットでも
創価から慈悲や優しさを感じ取れないのに、
Libraさんや友岡氏の書籍から感じ取れるわけですから意味はあると思います。

>理論が真理にどれだけ近いかという観点から測られるべき

同感です。
謙虚に学ばせて頂きたいと思います。

>「より宣伝に成功した理論の方が、より意味がある」そんなふうに考えるのは馬鹿げている

ええ、ですから、「より宣伝に成功した創価に意味がある」状況に腹立たしいわけです。
創価学会は190カ国や1000万人の陣列というじゃないですか?

私のブログの立ち上がった意味もここにあります。ある意味、Libraさんと同じ考えです。

また過去記事においてアンチ創価の人がブログを立ち上げるべき。あるいは自分と同じ立場の人を捜して何とか問題を解決してください、という事もそうした理由からです。

---------------------------
創価学会の信仰に功徳はあるか? 学会員との交渉術 (夫婦恋人で信仰が違う時 その3)
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/7ec9d0bb99718a5f91d32dac5189729b

>過去に何らかの形で創価を経験したり創価に関わった人、アンチ創価の皆さんにもブログを立ち上げて欲しいです。ブログならHPを作るよりもずっと簡単です。
 創価だって「何でも相談出来る人を一人作っておきなさい。」っていう指導があります。これは実際にわたしが受けた創価の指導です。だからアンチ創価や一般の人だって普通に一般の人に相談しても良いのです。相談出来る相手を捜してくださいね。
---------------------------

>天動説
>その事実は、宇宙生命論が真であることをなんら保証しません。

同感です。

●最後に。。。。

というわけで、仏教を学ぶ気持ちはあります。今後ともよろしくお願いします。m(_ _)m

皆さんにもお願いしたいです。
MCの残っている私ですからはっきり言って助けて頂く格好になると思います。(^o^)
Libraさん (そううそ)
2007-02-07 22:14:03
呪縛からの解放─法華経の宗教性(友岡雅弥)
http://fallibilism.web.fc2.com/042.html

『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
http://fallibilism.web.fc2.com/016.html

ここは以前、既読で理解は出来ました。
他に何かありましたら教えてください。
m(_ _)m
罰と福 (Libra)
2007-02-08 01:45:16
 そううそさん、こんばんは。

【罰と福】
 「罰」は、初期経典の中にもいろいろな形で説かれています。たとえば、『ダンマパダ』の第72詩節では、以下のように説かれています。

○『ダンマパダ』第72詩節
───────────────
七二 愚かな者に念慮が生じても、ついにかれには不利なことになってしまう。その念慮はかれの好運を滅ぼし、かれの頭を打ち砕く。

(中村元訳『ブッダの 真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、岩波書店、1978年、p. 20)
───────────────

○中村先生の注
───────────────
 頭を打ち砕く──悪いことをすると、その報いとして、その人の頭が砕けてしまうという教えが古ウパニシャッドのうちにしばしば述べられているが、それを受けているのである。

(同上、p. 86)
───────────────

 また、相応部経典には、《悪いことをした人間は死後に地獄に行く》という趣旨の説法があります(相応部経典42・2、同42・6)。

 しかしながら、このような説法は、《説法を受ける側に存在する観念》を有効に利用(逆用)することにより、相手を、よりよい方向により速やかに導くという、いわばショック療法的なものだったのだろうとわたしはおもっています。

 「福」も初期経典に説かれています。たとえば、『スッタニパータ』第2章の「大いなる幸福」(第258~第269詩節)などがあります(以下の資料を参照)。

  スッタニパータ(正田大観訳)
  http://www.j-theravada.net/sakhi/suttanipata.html#2-4

 釈尊じしんも、自分ほど真剣に「福」を求めている人間はいないといっています(漢訳『増一阿含経』、大正蔵第2巻、p. 719b)。

  わたしほど真摯に幸せを求めるものはない(くまりん)
  http://ngp-mac.com/~kumarin/website/modules/wordpress/index.php?p=141
釈尊は「まじない信仰」を否定 (Libra)
2007-02-08 01:48:25
【釈尊は「まじない信仰」を否定】
 「湖の中に投げ込まれた大きな石は、いくら合掌したり、祈ってみたりしたところで、決して浮かんできたりはしない」という趣旨の有名な説法があります(これも相応部経典42・6です)。たしか、この説法は、友岡さんの本でも紹介されていたようにおもいます。
 あと、病気についてですが、「病気は医師の治療および薬によってなおる」というのが仏教徒の考えでした(以下の資料を参照)。

───────────────
 当時一般の考えとしては、病気などもすべて悪魔鬼神の仕業であるとせられたから、これを祈■〔示+壽〕やまじないによって治すことが盛んに行われた。勿論病気の中には、精神面から生ずるものもあるのであるから、原始仏教でもこれを精神的に治癒させたという例はあるけれども、多くの病気に対しては、その病状や病因に応じて、正しい科学的薬物治療を施すべきことが、律蔵の中に具体的に詳しく規定せられている[8]。釈尊自身が病気の時は、名医ジーワカに診察治療を受けられ、仏教教団の比丘達もこの名医に頼っていた。然しマガダ王家と仏教々団以外の人達は、ジーワカの治療を受けることが出来なかったので、信仰や求道の心からではなく、この名医に難病を治して貰う目的で教団に入る者が現われたと云われている[8〔ママ:9〕]。
 とにかく律蔵に規定されている病気の治療法は、当時としては最も進んだ合理的な科学的療法であったに相違ない。今日なお新興宗教などの中には、病気に対して薬物や科学的治療法を否定し禁止するものがあるのに比すれば、二千五百年前の仏教がいかに進歩的であったかが知られるであろう。
 ⑧ 例えばパーリ律蔵大品第六、薬■〔牛+建〕度の中には当時のあらゆる薬の名が掲げられており、また病気に応じて薬や治療法が述べられている。
 ⑨ 例えばパーリ律蔵■〔牛+建〕度部大品受戒篇三九参照。五種の難病を治療して貰う目的で教団に入り、病気が治れば還俗して教団を去る者があったとせられる。

(水野弘元『原始仏教〈サーラ叢書4〉』、平楽寺書店、1956年、pp. 257-258)
───────────────

 ちなみに、『法華経』寿量品の良医治子の譬喩においても、子供の病気は《良薬》で治るのです。父親が魔術的に治してくれるわけではありません。そして、《良薬》で病気が治った子供には父親が見えるのです。ようするに、《法を見るものは仏を見る》ということです。
業説は仏教の基本 (Libra)
2007-02-08 01:50:16
 わたしは、生まれ変わりを説く輪廻説は否定します。

  輪廻説は仏教ではない(Libra)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z006.html

 しかし、《本来の業説》は「仏教の基本となる考え方」だとおもっています。わたしがいうところの《本来の業説》というのは、たとえば『ダンマパダ』第165詩節に説かれているような説のことです。

───────────────
一六五 みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。

(中村元訳『ブッダの 真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、岩波書店、1978年、p.33)
───────────────

 「業」の原語は、パーリ語では「カンマ(kamma)」であり、サンスクリット語では「カルマ(karma)」ですが、それは、「行為」を意味する語です。人はみずからの行為によって、みずから汚れたり、浄まったりするということです。誰も他人に自分を浄めてもらうことなどできません。他人を浄めることなんて、釈尊にもできません(『スッタニパータ』第1064詩節を参照)。

───────────────
一〇六四 「ドータカよ。わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。」

(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1984年、p. 224)
───────────────

 《釈尊の口から出る声(教法)》をよく聞いて、最上の真理を知ることにより、《みずからがんばって》、「自己の安らぎ(ニルヴァーナ)」を学び、煩悩の激流を渡ることを志すのが仏教です。

───────────────
一〇六二 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世において賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この(わたくしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」

(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1984年、p. 223)
───────────────

 仏教というのは、《釈尊におまかせで救ってもらえる》というような「他力主義」でもなく、また、《自分の力だけがたよりだ》というような「自力主義」でもありません。いってみれば「善知識主義」です(以下の資料を参照)。

  「われを善き友として」(増谷文雄)
  http://fallibilism.web.fc2.com/012.html


 あと、天台と日蓮も《本来の業説》は否定していないでしょう。
仏教を学ぶには (Libra)
2007-02-08 01:52:18
【仏教を学ぶには】
 そううそさんの場合には、いきなり『法華経』を学ばれるよりも、まずは初期仏教(部派仏教とイコールではありませんのでご注意ください)をしっかりと学んでみられたほうがよいとおもいます。今、無理して『法華経』を学ばれた結果、『法華経』をますます嫌いになられるということを、わたしは最も恐れています。
 そういうわけなので、『法華経入門』よりも先に、以下の本を読まれることをお勧めしておきたいとおもいます(税込で1680円、国内送料無料)。先にご紹介した「相応部経典42・2、同42・6」の訳もこの本にのっています(pp. 213-215, pp. 216-219)。

  増谷文雄『仏陀 その生涯と思想』〔角川選書─18〕
  http://www.bk1.co.jp/product/335540/p-movement

 今回は、これにて失礼しいたします。
精進の意味 (無碍人)
2007-04-03 11:05:07
仏教は釈迦(便宜上そういわせていただきます)がヒンズ教7000年の伝統の地盤に立って説かれた教えで、輪廻転生の基盤があるわけです。私たちの体そのものは何億年とも知れぬ間に進化したのであり、人知では計り知れないものがあります。釈迦の教えの特徴の一つに精進があります。人間が人間以外の生き物の生命を無視して生きていくことはこの世界を正しく見ていくのに大きな妨げになると看破されたからでしょう。でもこの理念は一般には受け入れ難いことでした。輪廻転生の観念は宇宙のあらゆる生命の尊重の観点から見るときは、慈悲心を生みますが、反対に人間界だけの観点から見るときは
人間は生まれによって上下差別があるという観念に至るのではないでしょうか。ヒンズーの教えもまさにそのような観念にたっているわけですね。
釈迦は人間社会だけの問題でなく、広く全生命の輪廻という観点に立って、説かれたと解釈して無理は
ないと思います。ただ人間社会の問題だけとして
仏教をとらえれば、釈迦の教えからは大きく外れてしまうといえるのではないでしょうか。精進はいわゆる臭さ物を食べないのには大きな意味があります。
現代はあまりにも勝手な解釈が横行して、堕落の
えせ仏教が彷徨しているのではないでしょうか。


もっかい勧めてみる (Libra)
2009-06-11 12:50:04
 別記事で、初期仏教の本をお探しのようでしたが、このコメント欄の「07/02/08,01:52」でお勧めしておいた増谷先生の本がいいと思いますよ。
 これじゃあかんの?
Unknown (そううそ)
2009-06-11 22:54:49
こんばんは。
Libraさん

いつも有り難うございます。
そういえばその本をすっかり忘れていました。高校生、大学生には良いと思います。

○婦人部のオバチャン

増谷先生の本にはカルト思想なんてありえないでしょうが、創価のオバチャン達には理解出来るのか疑問です。

活動家だった私は色々な婦人部を見てきました。
「先生は結果しか見ない」「今こそ戦いのとき!!!」「負けたら絶対に駄目なのよ」
「活動しないからそんな不幸な事になるのよ」「池田先生だけが素晴らしい」
こうした言動に(゜ー゜ )(。_。)ウンウンと頷いていた私です。
一応こんな私でも学会員時代は教学で折伏していましたし自身持っていた方です。(爆笑)
退転後、LibraさんのHPを読んでもさっぱり頭の中に入ってこない。つまりチンプンカンプンだった私です。
ブログ立ち上げやはったり特急の人や瓦解さん末吉さんのちょっとした一言で気がつき始めたわけなんです。。。

増谷先生の本でも理解出来る人はいると思いますが、
「簡単な心理学の本を読んでも本来の心理学の目的を外れ、自分で自分に駄目出しやカルトっぽい読み方をする可能性がある。」これと同等の読み方をする人がいると思います。

今回の場合、友岡さんの本でも増谷先生の本でも原始仏教をある程度は肯定すると思うのですが、「原始仏教以上に学会教学や池田氏を更に素晴らしい、更に肯定する。。」こういった方向に行くような気がするのです。。。。。

ちょっと仏教用語が書かれているとその単語に美しさや真理や宇宙生命みたいな物を錯覚して捉えて駄目な方向に行く気がします。
増谷先生の本だとちょっと難しいような気がします。。。。。

ちょうど選挙ですから婦人部幹部オバチャンに「選挙活動に必死になるというのは欲望に燃える、ということです。仏教以外のアプローチですよ」っていってみたらどうなると思います?(笑)ヽ(^o^;)ノ

友岡さんの本でも増谷先生の本でも吐き捨てられるような。。。。後者はより駄目出しを食らう気がします。

○心理学と仏教学

心理学と仏教学には共通のアプローチがあると私は考えています。
友岡さんの本にはある(例えばP59)のですが、増谷先生の本にあったかは記憶にありません。
心理学には治療者(お医者さんやカウンセラー)が「あなた(患者さん)と私(治療者)はおなじなんですよ。」っていうアプローチがあるのです。(心理学の記事予定無し。)

但し私は心理学を用いて宗教を維持したり、肯定する事には今の所、反対であり批判的です。
もしかすると欧米にはこれが通用して日本では違和感が大きいのかもしれません。
この様に思うのは私だけかもしれません。

You can lead a horse to the water, but you cannot make him drink. (Libra)
2009-06-11 23:55:56
 そううそさん

 創価のオバチャン達は増谷先生の本なんて理解しないでしょう。能力的に「理解できない」のではなくて、そもそも理解するつもりなんて毛頭ないとおもいます。

 わたしは、そううそさんごじしんが本を探してると勘違いしていたので、そううそさんにお勧めしたわけですが、どうやら、そううそさんは、創価のオバチャン達に初期仏教を理解させるために本をお探しのご様子。
 
 でも、そんな本なんてどこにもないでしょう。もっとも、それは本のせいではなくて、創価のオバチャン達の側に原因があります。

 そもそも、創価のオバチャン達は、友岡さんの本でさえ、理解なんてしていないでしょう?

 理解するつもりさえあれば、増谷先生の本は理解できるでしょう。純粋に、本じたいの読解の難易度でいうなら、増谷先生の本も友岡さんの本と同じレベルです。そもそも、高校生に理解できるんだから、創価のオバチャン達に理解できないはずはありません。

 ただ、創価のオバチャン達に初期仏教を理解したいと思わせることなんてほとんど不可能なのでは?

 とゆーわけで、わたしの上のコメント(2009-06-11 12:50:04 )はただの勘違いです(汗)。

 どうぞお忘れ下さいませ。
Unknown (そううそ)
2009-06-12 00:39:03
Libraさん

こちらこそ失礼しました。
気をつけているつもりなのですが、もっと的確に文章を書きたいと思います。

教団都合の教えが「無い」原始仏教の本がほしい - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/4b591c8a396afb4a91f95bf3b99a278b

ここの記事では私が読む為ではなく、創価のオバチャン達や一般の人に紹介する為に、という意味です。
創価のオバチャン達ももちろん、可能ならば健全な信仰をして欲しいと私は思います。
創価のオバチャン達は邪宗としての興味はあるかもしれませんが読む意志や意欲は薄いでしょうね。
一般の人には興味も読む意志や意欲も無いとはいいませんが、多くの人々、多数の人がそうなのか?という意味では
やはり少ないのではないでしょうか?
宗教人口は2億か3億だった気がしますが。。。

私の親族で宗教の本を読む人は30,40人中?1人か2人です。
それでも私のように10冊以上読んでいるとは思えません。今度会った時にでも聞いてみようっと。

ではでは

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