210.地獄論、罰論、メモ(その1) - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
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みみちゃんさんへ (そううそ)
2007-12-15 10:07:07
お早うございます。
みみちゃんさん
●幸福とは?
>>創価から見た他宗、邪宗の人も道理や科学を学んだ上で祈って幸せをつかんでいると思います。
>私はこの意見に疑問です。
>幸せは「祈って掴むもの」でしょうか?
>「幸せになるために祈る」ものなのでしょうか?
>私はそうは思いませんし、そのように考えてもいません。
祈って幸福をつかむ場合もあれば祈っても不幸になる場合はあるでしょう。
創価であろうと無かろうとどちらもあり得る話だろうと思います。
過去記事にも何度も書いてきました。
×
祈って幸せをつかんでいると思います。
○
祈って幸せをつかむ場合もあれば祈っても不幸になる場合もある、と思います。
追記訂正します。
宗教的な祈り自体は必要でも不必要でもないでしょう。
ケースバイケース。その人次第。その状況次第だと思います。
●日蓮の本尊は絶対という創価思想を問題にしています。
>「祈る」という対象が何であるかを問題にしている
いいえ。
本尊自体は創価学会以外の仏教にもありますし、祈る対象は仏教以外の他宗教にもあります。
別に、日蓮の本尊に祈っても問題はないでしょう。教えや内容が宗教であれば。
問題はカルト的な教えが入るかどうかです。
ある人Aさんの子供や親が病気になったとします。
創価であろうと無かろうと自分の宗教の本尊に祈り、宗教的な教えや経文を理由となり、
具体的に行動する、行動出来る事は悪い事ではありません。
ここでは、例えば病気ですから看病や世話してあげる事がそうでしょうか?
ここまではカルト性はなく、宗教的だと思います。
問題はここからです。
創価の場合で書きます。
治った場合、御本尊のおかげで宿命転換出来た。病気が治った。→(折伏、新聞啓蒙、ご供養をしっかりするように。)
治らない場合、それは病人本人の宿業、あるいはAさんの宿業です。信心が足りません。→(折伏、新聞啓蒙、ご供養をしっかりするように。)
というわけで 「折伏、新聞啓蒙、ご供養をしっかりするように。」というわけで組織にメリットのある様に組織信仰する事が求められてしまいます。この信心を教えてくれた池田先生のおかげ。とかね。
こういう教えが入るとカルトになっていくわけです。
治った場合、前者はオカルトやまじない信仰であり後者は罰論、宿業論に繋がっていきます。
>paiさんにとって
>「対象は、自分にとっては何でもありではない」
という事について全く問題にしていません。
彼の頭の中にある教学や心の問題として、創価の教えや学会員の傾向性、宗教的に問題ある傾向性を疑問視するのです。
●幸福体験の言い方。
私は幸福体験を語ったら駄目なんて言っていません。
幸福体験を語る方法や傾向性に宗教かカルトかの違いがある、ということです。
難しい問題ですが、ここをごっちゃにするとおかしくなります。
例えば先のAさんは病気が治ったという幸福体験を語っても良いでしょう。
「信仰して、一生懸命看病して家族の病気が治った。」
誰でも「 ””病気が治って”” よかったね」って言ってくれると思います。
「信仰して、一生懸命看病して家族の病気が治った。
一生懸命看病する事を教えてくれたのは法華経。(あるいは日蓮の教え)
だから法華経信仰しませんか?」
ケースバイケースで問題がある可能性があると思います。問題ない場合もあると思います。
「信仰して、一生懸命看病して家族の病気が治った。
一生懸命看病する事を教えてくれたのは法華経。(あるいは日蓮の教え)
だから○○○○(宗教団体)に入りませんか?」
かなり問題がある可能性が高いと思います。
「信仰して、家族の病気が治った。
病気が治ったのは御本尊の(力の)おかげ。(あるいは日蓮の法力)
だから○○○○(宗教団体)に入りませんか?」
かなり問題があると思います。
「信仰して、家族の病気が治った。
病気が治ったのはこの信心を教えてくれた池田先生おかげ。
だから創価学会に入りませんか?」
カルト。
少なくとも私はまじない信仰を強調するのは正統派仏教ではないと思います。
創価学会員は「一生懸命看病」「病気が治った事」という誰にとっても良い事と宗教をごっちゃにしています。
その良い事をすべては本尊や日蓮、池田氏、学会のおかげと勘違いしていると思います。
「一生懸命に看病した甲斐あって ””病気が治って”” よかったね」
これがいつの間にか学会員の頭の中で
「創価学会の信仰をすることがよかった」
にすり替わっています。
すべては御本尊のおかげ。
というのは
御本尊は絶対。
と同じです。
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みみちゃんさんへ (そううそ)
2007-12-15 10:07:07
お早うございます。
みみちゃんさん
●幸福とは?
>>創価から見た他宗、邪宗の人も道理や科学を学んだ上で祈って幸せをつかんでいると思います。
>私はこの意見に疑問です。
>幸せは「祈って掴むもの」でしょうか?
>「幸せになるために祈る」ものなのでしょうか?
>私はそうは思いませんし、そのように考えてもいません。
祈って幸福をつかむ場合もあれば祈っても不幸になる場合はあるでしょう。
創価であろうと無かろうとどちらもあり得る話だろうと思います。
過去記事にも何度も書いてきました。
×
祈って幸せをつかんでいると思います。
○
祈って幸せをつかむ場合もあれば祈っても不幸になる場合もある、と思います。
追記訂正します。
宗教的な祈り自体は必要でも不必要でもないでしょう。
ケースバイケース。その人次第。その状況次第だと思います。
●日蓮の本尊は絶対という創価思想を問題にしています。
>「祈る」という対象が何であるかを問題にしている
いいえ。
本尊自体は創価学会以外の仏教にもありますし、祈る対象は仏教以外の他宗教にもあります。
別に、日蓮の本尊に祈っても問題はないでしょう。教えや内容が宗教であれば。
問題はカルト的な教えが入るかどうかです。
ある人Aさんの子供や親が病気になったとします。
創価であろうと無かろうと自分の宗教の本尊に祈り、宗教的な教えや経文を理由となり、
具体的に行動する、行動出来る事は悪い事ではありません。
ここでは、例えば病気ですから看病や世話してあげる事がそうでしょうか?
ここまではカルト性はなく、宗教的だと思います。
問題はここからです。
創価の場合で書きます。
治った場合、御本尊のおかげで宿命転換出来た。病気が治った。→(折伏、新聞啓蒙、ご供養をしっかりするように。)
治らない場合、それは病人本人の宿業、あるいはAさんの宿業です。信心が足りません。→(折伏、新聞啓蒙、ご供養をしっかりするように。)
というわけで 「折伏、新聞啓蒙、ご供養をしっかりするように。」というわけで組織にメリットのある様に組織信仰する事が求められてしまいます。この信心を教えてくれた池田先生のおかげ。とかね。
こういう教えが入るとカルトになっていくわけです。
治った場合、前者はオカルトやまじない信仰であり後者は罰論、宿業論に繋がっていきます。
>paiさんにとって
>「対象は、自分にとっては何でもありではない」
という事について全く問題にしていません。
彼の頭の中にある教学や心の問題として、創価の教えや学会員の傾向性、宗教的に問題ある傾向性を疑問視するのです。
●幸福体験の言い方。
私は幸福体験を語ったら駄目なんて言っていません。
幸福体験を語る方法や傾向性に宗教かカルトかの違いがある、ということです。
難しい問題ですが、ここをごっちゃにするとおかしくなります。
例えば先のAさんは病気が治ったという幸福体験を語っても良いでしょう。
「信仰して、一生懸命看病して家族の病気が治った。」
誰でも「 ””病気が治って”” よかったね」って言ってくれると思います。
「信仰して、一生懸命看病して家族の病気が治った。
一生懸命看病する事を教えてくれたのは法華経。(あるいは日蓮の教え)
だから法華経信仰しませんか?」
ケースバイケースで問題がある可能性があると思います。問題ない場合もあると思います。
「信仰して、一生懸命看病して家族の病気が治った。
一生懸命看病する事を教えてくれたのは法華経。(あるいは日蓮の教え)
だから○○○○(宗教団体)に入りませんか?」
かなり問題がある可能性が高いと思います。
「信仰して、家族の病気が治った。
病気が治ったのは御本尊の(力の)おかげ。(あるいは日蓮の法力)
だから○○○○(宗教団体)に入りませんか?」
かなり問題があると思います。
「信仰して、家族の病気が治った。
病気が治ったのはこの信心を教えてくれた池田先生おかげ。
だから創価学会に入りませんか?」
カルト。
少なくとも私はまじない信仰を強調するのは正統派仏教ではないと思います。
創価学会員は「一生懸命看病」「病気が治った事」という誰にとっても良い事と宗教をごっちゃにしています。
その良い事をすべては本尊や日蓮、池田氏、学会のおかげと勘違いしていると思います。
「一生懸命に看病した甲斐あって ””病気が治って”” よかったね」
これがいつの間にか学会員の頭の中で
「創価学会の信仰をすることがよかった」
にすり替わっています。
すべては御本尊のおかげ。
というのは
御本尊は絶対。
と同じです。
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こんばんは。
>ほんとに凡夫さんが仰ること、丸ごと共感で、そううそさんが唱題に否定的な見解
いえ。ちょっと違います。
「唱題に否定的な見解」というのは完全否定しているわけではありません。
難しい話なのですが、きちんとした条件が整えば、「一念三千の思想を前提とした唱題による修行」はしてもいいとおもいます。
もちろん唱題でなく念仏でも良いとおもいます。
よりカルト的な修行ではなく、より宗教的な修行の一つとしてあり得ます。但し原始仏教がどんな感じだったのか?、とか、他にも修行方法があっても良い、などのそうした「柔軟な」認識が必要だと思います。
Libraさんと私の会話の過去記事をよく読んでみて下さい。
「法を本尊」、ってLibraさんは説明していますよ。
-6.師匠達との対話。その5 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/f6a4a984b022edb05d82d34afd2f17d3
-7.師匠達との対話。その6 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/b878fbf96a40615b09003471e88963c9
-8.師匠達との対話。その7 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/1803a30f883991dbc39e19289d5afeaf
○柔軟な考え方。
>考え方が偏りがちになるし教条的にもなり
>そうした柔軟性を欠いた人間同士、何かと衝突が多い
>これは学会とか信仰の有無に限らず、「考え方や方針とかに拘りを持ち続けている人の集合体」
ここは全く同感です。
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231.MC論、AC(アダルトチルドレン)、カウンセリング系、心理学系などの本の紹介 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/b71c9ad3230e5ce388a51c6bd96e3f3b
○心の傷を癒すカウンセリング366日
西尾和美 著 講談社プラスアルファ文庫
○アダルト・チルドレン 癒しのワークブック (本当の自分を取りもどす16の方法)
西尾和美 著 学陽書房
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ここで紹介した本にも 「考え方が偏りがち」「柔軟性を欠いた人間同士」ということが何をもたらすか?という事が書かれています。
””学会とか信仰の有無に限らず””というのは全くその通りだと思います。
カルトっぽい宗教や思考や組織や人というのは学会以外にもあるのです。
学会とか信仰の有無に限らず、というのは同感です。
幸福や不幸が学会の中にも外にもあるのと同様に良き人も悪い人もどちらにもいるでしょう。
但し、多い少ないなどの傾向性や問題の大きさは否定出来ません。一言で言えば創価は悪い団体って事です。
また、池田氏や学会本部職員、創価学会の教義などは、白黒2極論なく無数のグレーゾーンを考慮に入れても
残念ながら「ほとんど黒」って事だと思います。
創価学会から教わる仏教、唱題などの修行方法はほとんど無内容に近いと思います。
という私もまだ学会員なんですが。
実は下心があるんです・・
とは学会の人は言わないし、そんなつもりも全くない「つもり」で近づいてくるから始末が悪いわけで。
その近づき方というのも、親切そうに見せかけたイヤラシサを発していて、私はそれがとてもイヤ。
でも、かつての私もそうだったんだろうか?と、今更ながら思い返しては恥ずかしく嫌悪してしまいますが・・。
というわけで、
そううそさん、ご無沙汰してます。
ご無沙汰してる間に、私もずいぶんと考え方が変わってしまったようでして・・
ほんとに凡夫さんが仰ること、丸ごと共感で、そううそさんが唱題に否定的な見解をされることに、これまた頷けるようになりました。
今までの自分の信仰って何だったんだろう・・
少し虚しく、侘しいような後悔の気持ち、時々、波のように押し寄せてきたりしてるこの頃です。
ところで、
蒸し返すようで申し訳ありませんが、学会の家庭に家族離散や家族バラバラが多い傾向があるのではないか?という見方は、あながち外れてはいないような気がします。
そして、安易な決め付けでもない、かと・・。
学会の信仰を長年続けてしまうと、考え方が偏りがちになるし教条的にもなります。
そうした柔軟性を欠いた気持ちの人間同士が家族として共に暮らしていれば、何かと衝突が多いのも当然でしょう。
これは学会とか信仰の有無に限らず、「考え方や方針とかに拘りを持ち続けている人の集合体」というような家庭にありがちなのではないでしょうか。
ほんとに凡夫さん
>友を得ること、良き友となること
>すごく難しいこと
そうですね。
私も同様に思います。しかし、私が友岡氏の書籍を紹介記事にも書きましたが
「ありがとう、ごめんなさい」などの挨拶や「会話が続く事」が大事で結果として友になっているのではないでしょうか?
会話なども沢山重ねる事=友人では?
会話なども沢山重ねる事でどんな人間かよく分かると思います。
きちんとした会話が続くのであれば、宗教の有無は関係なくお互いにプラスになるでしょう。
>創価学会員のような
>下心で人に近づいてくる
まったくです。
カルトの特徴として言っている事とやっている事が違う場合が危険です。
>ほとんど私の意見も同じです。
そりゃぁもう、ここでいろいろ学ばせてもらってますので^^;
>日蓮正宗系の人は身延離山とか分離とか離脱僧とか喧嘩別れ、
世界をどうこうするレベルじゃないですよね・・
他の宗教と何ら変わりないっす。
>原始仏教の「友を得る事が仏道修行」そんな事も出来ないで
ほんっと自分たちがいつしか仏道からも「人の道」からも逸れてしまっていることに気付かないんですから・・
>より高度、というのは皮肉としかいいようがありません
はい。仰るとおりで。
もはや日蓮仏教は「別物」ですね。。
それはさておき、友を得ること、良き友となることってのは仏教云々関係なく、すごく難しいことだなと最近つくづく思います・・
僕もスッタニパータを読み始めていますが、良き友と共に歩むことの重要性を説く反面、その友もあくまで慎重に選ばなければならない姿勢も説かれていますね。
創価学会員のような善行と称して下心で人に近づいてくるような者に心を開いてしまってはダメってことですね。。反省o(--)
ナウシカさん
>>日蓮正宗系の人は身延離山とか分離とか離脱僧とか喧嘩別れ、家族離散とか家族バラバラが実に多い。日蓮正宗系の人の暴言もそうでしょう。
>これは根拠があるのでしょうか?
>世界中にある何千何万とある宗教を信仰する人たちと比べて多いということでしょうか?
>そういう統計結果は出ているのでしょうか?
ナウシカさんの言うとおり私の問題発言ですね。
曖昧に悪い方に決めつけてかいたのはいけなかったようですね。
「家族離散とか家族バラバラが実に多い。」
ここは上記コメントからは取り下げます。
ご指摘有り難うございました。
これは根拠があるのでしょうか?
世界中にある何千何万とある宗教を信仰する人たちと比べて多いということでしょうか?
そういう統計結果は出ているのでしょうか?
それとも、そううそさんの回りにはそういう人が多いということでしょうか?
それか、ネット上で見られる傾向ということでしょうか?
大雑把な言い切り型になっていたので、細かいかもしれませんが気になってしまいました。
失礼しましたm(_ _)m
>私にとって題目は役に立っていたのかなー?
>題目=強迫観念だった
>ほんとに凡夫さん
>180度考えが変わってしまった今、世間から学び得ることが多く
お二人にこんにちは。
凡夫さんの想学サロンのコメント読みました。
ほとんど私の意見も同じです。
日蓮正宗系の人は身延離山とか分離とか離脱僧とか喧嘩別れ、家族離散とか家族バラバラが実に多い。日蓮正宗系の人の暴言もそうでしょう。
題目をあげる意味は自己満足か無意味に近いとさえ思ってしまいます。
原始仏教の「友を得る事が仏道修行」(主旨)そんな事も出来ないで、より高度?なはずの日蓮の南無妙法蓮華経を修行しても意味があるのかな??と。
より高度、というのは皮肉としかいいようがありません。
実はさっきまで飲んでまして、いま帰ってきました。
(冷や汗)
ほんとに凡夫さん、あちこちでお名前は拝見しております。
>過去未来への煩悩を捨て、今を生きよ。
今の自分には、この言葉は励みになります。
あしたからまた、いろいろ頑張ります。
はじめまして。でしたっけ?
なんかいっぱいお見かけしてるもんで、どうだか分かんなくなっちゃいました(汗)
>題目=強迫観念
>正直心が軽いです。
同感です。
なんだったんでしょうね。
180度考えが変わってしまった今、世間から学び得ることが多くなりました。
矛盾かもしれませんが、逆にお釈迦様の言葉が生きてきています。
諸々の事象はただ過ぎ去るのみである
過去未来への煩悩を捨て、今を生きよ
ただし何ものにも執着せずに
なんか・・じーんとします。
生まれる前から題目の聞こえる環境にいた私。
最近は、私にとって題目は役に立っていたのかなー?と、考えたりしています。
学会三世、未活で学会嫌いの弟は、「姉さんはもう自分の意思で退会したんだから、ご本尊も返却したんだから、難しく考えなくてもいいんじゃないか?」と、いってくれますが、やっぱりあれこれ考えてしまいます。
わたしには、題目=強迫観念だったので、きれいさっぱり関係のなくなった今が、正直心が軽いです。
良寛さんの文はゆっくり読んでみたいと思います。
アドバイスも有り難うございます。
良寛さんといえば
http://www.kokujouji.com/karan/index.php
ここに行った事がありますよ。(^^)/
そううそさんの二つのコメントを読まないうちに投稿してしまいました。
謝罪にこだわっているのではなく、「良いこだわり」ならば、きっといつか関係改善するかもしれませんね。
急がず時を待つのも必要なのかもしれませんね。
そううそさんが心穏やかに過ごされることを願っています。
以前に良寛さまが好きと書いたので、今夜は良寛さまの詩をご紹介します。
なぜ良寛さまが好きなのかと言えば、宗派を問わず多くの「よき友を持ち」生涯 寺を持たずひとり飄然と生きたその姿勢が好きなのです。
私が初めて良寛さまの名を知ったのは、小学校低学年のころ、祖父の家の掛け軸に書かれた詩の中でした。
越後の国の良寛さまは
雀と遊んでかくれんぼ
漢字が読めなくて父の膝の上で読んでもらったのを覚えています。白秋のものだそうです。
良寛詩歌講座より
正月十六日夜 正月十六日の夜
春夜二三更 春夜 二三更
等間出柴門 等間 柴門を出ず
微雪覆松杉 微雪 松杉を覆い
孤月上層巒 孤月 層巒に上る
思人山河遠 人を思えば 山河遠く
含翰思萬端 翰(かん)を含めば 思い萬端たり
口語訳
春の夜の真夜中、私はぶらりと庵から外へ出てみた。すると細かな雪は松や杉に覆いかかり、山の峰から離れた月が重なり合った山の上高く上っている。あなたの事を思うと、遥か遠く隔たっており、筆を執って手紙を書こうとすると、いろいろな思いが溢れてきて、筆がなかなか進まない。
二三更=夜10時から夜中の2時。真夜中。
等間(とうかん)=ぶらりと。
柴門(さいもん)=柴で作った門。粗末な門。粗末な庵。
微雪=細かな雪。
松杉(しょうさん)=松や杉だけでなく針葉樹を指す。
孤月=一つの月。中空の月。
層巒(そうらん)=幾重にも重なり合った山。
人=この場合は維馨尼(いきょうに)。
山河=隔たっていること。
遠く=はるかに遠く。
含翰=「翰」は筆。筆を口に含む。筆を執る。
萬端=いろいろなこと。
正月16日は陽暦の2月20日にあたる。この頃の月は半月かもう少し細くなっている月ではないかと思われる。
この遺墨(漢詩)は維馨尼に宛てた手紙である。
維馨尼さんの師・虎斑さんが大蔵経を買って帰って来る。しかし資金が足りない。維馨尼さんは虎斑さんの宗教心を援助しようと、勧進により資金を調達するために、江戸へ上った。その志を高く評価した良寛さまは「人を思えば山河遠く」と詠み、そして詩の最後に「思い万端たり」と結んだ所に良寛さんの思いが凝縮されている。
http://www.geocities.jp/umezu34/mokuji_index.html
謝罪にこだわっているのではなく別の事にこだわっています。自分では良いこだわりだと思います。
あらら~ 驚かせてごめんなさい。
>法華経も現代で言う書籍の一つでしかありませんし、日蓮も偉人の1人でしかありません。
そうですね。私もそういう捉え方です。
仏教経典も聖書もコーランもそうゆう読み方しか私にはできません。
それらの中から私にとって有益だと思うものは遠慮なく頂いております。
人生訓、処世訓として使用しています。
法華経は岩波文庫で読んだんですけど(上、中、下と3巻もあるのよね。読むのも難儀・・・)結局私にはファンタジー わけわかめでした(泣
同様に仏陀も日蓮もイエスもモハメッドも歴史上の著名人ですから、彼らについて読んだり聞いたりするけれど、私には信仰の対象にはなりえません。
ゲバラやレーニン、ガンジー、キング牧師などの考え方、生き方なども興味深く引き込まれて調べたりもしました。
歴史も好きなのでロシア、ソ連史はかなり夢中になって調べた時期があるんですよ。
日本史は中央公論の「日本の歴史」が素人にも解りやすく楽しく読めます。全巻を文庫版で読みましたが興味のある巻から読めるのが良いですよ。
>日蓮正宗系の人は ””ちょっとした意見が違うだけで「仏敵」です。””
これはほんとに醜いですよね。
日蓮正宗から分派した顕正会、創価学会、正信会など三巴、四巴の喧嘩ですから。
私からはまるで親子喧嘩、兄弟喧嘩のように見えます。
そもそも日蓮正宗の教義に問題があるとしか思えませんし、その教義を元にしている各分派も問題大有りになるのは必然かもです。
>また、宗教は組織を必要としていません。
>一個人が組織を 必要としている、求める というのは宗教に限って言えば疑問です。
私も宗教は個人的なもの。神対自分自身、仏対自分自身でいいんじゃないかと思うんですけど、いろんな人がいますから、中には神や仏について話し合う、研鑽し合う仲間が欲しいと思う人々がいても自然なのかもと思います。
それが、そううそさんがおっしゃる、
「より良き人間関係、より良き心の関係を求める事・・・」
になってくれると良いのでしょうが。
>釈迦
>「良き友を得ることは仏道の半ばどころか、仏道の全てです。」
ほんと、真実そう思います。つくづく良い言葉だなって感じます。
最近よく思うんですけど、イエスと仏陀って良く似ているなぁと。
(考えてみるとブッタもイエスも自分で自分の言葉を書いていないんですよね。聖書も仏教経典も後の人々によって書かれたものですよね)
>原理主義やカルトっぽくなる可能性が高いという事です。
なんでだろうなと考えてみて簡単に言うと、やはり中央集権制度と現世利益追求型宗教組織だからじゃないでしょうか。
だから、
>池田大作や日顕氏は人を誹謗中傷までしておきながら、過去の間違いについて反省や謝罪無く今に至っています。
このようになるんでしょう。
>○○○○氏や○○○氏、A氏、B氏etcetcは人を誹謗中傷までしておきながら、過去の間違いについて反省や謝罪無く今に至っています。
もうね、こうゆう人たちはほっておきましょう。
悪しき友に拘るより、よき友を求め交流するほうが私たちには有益ですからね。
(けれども放蕩息子を快く迎える心の余裕を失わないようにもしましょう)
私のつまらないレスに長いレスを頂いたので、がんばって書いてみました。的外れになっていないといいのですが・・・
長文は苦手です~
こんばんは。
>あん また・・・
時々トップ画面からではなく管理人の編集画面を先に除く事があります。管理人の画面から「あん また・・・」を見た時にアダルトコメントがついたのかと思いました。(笑)ヽ(^o^;)ノ
>ほんと最近はもの忘れがひどいし、目はかすむし・・・
私も3歩あるくと忘れたくない事を忘れている事があります。(^_^;A
>何かひとつに囚われるのでなく、心(精神)が自由だと自分を元気にする元はたくさん見つかります。
もちろん、法華経や日蓮の遺文を理由に元気になってもOKなわけですが、日蓮正宗系の宗教教義や組織では
「怒り」と「恐怖」を心理操作されて平常心ではいられないでしょうね。
法華経も現代で言う書籍の一つでしかありませんし、日蓮も偉人の1人でしかありません。
●「心(精神)が自由」それと「組織」、「囚われる」
また、宗教は組織を必要としていません。
一個人が組織を 必要としている、求める というのは宗教に限って言えば疑問です。
一般的な組織では、お金とリーダーと役職による上下関係が発生します。
現代の一個人にとって組織を求める面があるのは社会の中で良くある事です。
そこには是非も善悪もないと思います。
社会的な組織はお金や成果、役職や名声を求めるからでしょうか?
(いずれ記事にするかもしれませんが、)そうではなくて、宗教に限って言えば
現代の一個人にとって組織を求めるのではなく、
より良き人間関係、より良き心の関係を求める事が大事だと思います。
社会的な組織はお金や成果、役職や名声を求める(?)
宗教はより良き人間関係、より良き心の関係を求める。(断言。)
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アーナンダー
「私たちが良き友を得ることは、仏道の半ばを完成した事に等しいですか?」
釈迦
「良き友を得ることは仏道の半ばどころか、仏道の全てです。」
ブッダは歩むブッダは語る 友岡雅也 著 第三文明社 より P6から主旨。
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○なぜ学会員はMCや自分たちの間違いを認めないか?
ですから、私がブログに1-21番記事を書いてきた当初より、
「学会の中にも良い人はいる」と記してきました。
親切にしてくれたり、思いやってくれたり、顔も知らない人に題目を送ったりする事などなど。。。(1)
”学会員同士であれば”暖かな人間関係の中から元気や自由を感じるのは嘘ではないでしょう。
しかし、客観的に見て、未入信の一般人から見てどうでしょうか?>創価学会の人、日蓮正宗系の人。
(1)はすべて条件付きなわけです。、創価学会員だから。入信してくれるかもしれないから。。。
新聞取ってくれるかもしれないから。。。。。。です。
では竹入氏や日顕氏など仏敵なら、誹謗中傷、罵倒してもOKなのでしょうか?
慈悲や思いやりを前提とした十分な議論や会話の中で意見が違う人がいたとします。
その人が明らかに暴力行為や犯罪に及んだらはじめて「仏敵」と呼べるのかもしれません。
しかし、日蓮正宗系の人は ””ちょっとした意見が違うだけで「仏敵」です。””
池田氏批判や学会批判をするとアホ呼ばわりバカ呼ばわりです。地獄論、罰論、etcetc。
麻原しょうこうが「仏敵」という言葉で信徒をMCして多くの人を殺した事は忘れる事が出来ませんね。
話がだいぶ脱線しました。
>何かひとつに囚われるのでなく、
同感です。
宗教組織に囚われる(こだわる)。というのはやや疑問かおかしい。そういう事です。
ですから、特定の個人(日蓮や池田氏)、特定の本(法華経)特定の宗教組織(創価、顕正会、正宗)に囚われるのは
原理主義やカルトっぽくなる可能性が高いという事です。
日蓮正宗の場合は大御本尊や日蓮だけが本当の真実の仏という本仏論という 囚われ、こだわりもありますね。
当然、ネット上の特定個人や特定BBSに拘るのも問題でしょうね。
その是非、見分け方は先の過去記事に記したとおりです。例えばこんな感じでしょうか?
池田大作や日顕氏は人を誹謗中傷までしておきながら、過去の間違いについて反省や謝罪無く今に至っています。
○○○○氏や○○○氏、A氏、B氏etcetcは人を誹謗中傷までしておきながら、過去の間違いについて反省や謝罪無く今に至っています。
長くなりました。
ではでは
そううそ
上の書き込みは、みの虫です。
ほんと最近はもの忘れがひどいし、目はかすむし・・・
哀れと思し召してなにとぞお許しを
>生命力とは元気という言葉に置き換えると
>自分にとって元気を出す方法が”御本尊しかない”のは実に寂しい事だと思います。
本当にそうですね。
何かひとつに囚われるのでなく、心(精神)が自由だと自分を元気にする元はたくさん見つかります。
思想、哲学、歴史、文学書など若いころは乱読していましたが(もうね、忘れてしまったことがいっぱい・・・脳細胞が日々死滅してます)、それらは自分の精神を自由にするために読んでいたんだなぁって思います。
ほんとに凡夫さん
>×題目=生命力が上がる
>○**=生命力が上がる **は何にでもなり得る
>こう考えるのが常識的ですよね。
そうですね。
この事は御本尊を呪(まじな)い信仰の対象として、また、宇宙生命論を信じていた私にとって、全く正反対の事を記したわけです。
十分に心の中で納得してブログ上にこの様に記すまでにずいぶんと時間がかかった様な気がします。
この間違いを退会時に具体的に誰かに指摘されたわけではありませんが、ブログ立ち上げ後、ネットや読書で学んだりしてようやくここまでたどり着きました。
また、Libraさんの言うとおり、人類にとって原始仏教、法華経、日蓮遺文などの内容や修行方法が無意味だとは思いませんが、自分にとって大事な事は何か?と問うた時に選択しないのも自分の自由であり一つの生き方だと思う様になりました。
生命力とは元気という言葉に置き換えると
自分にとって元気を出す方法が”御本尊しかない”のは実に寂しい事だと思います。
というか、毎日来ているんですけどね(藁)
最近また、過去記事をいーーっぱい読ませていただいております♪タノスィ
ちなみにカラーボックスのあれは・・まだあります。
単に郵便局行くのが面倒くさいだけなんですけどね。ププ
>「一生懸命に看病した甲斐あって ””病気が治って”” よかったね」
これがいつの間にか学会員の頭の中で
「創価学会の信仰をすることがよかった」
にすり替わっています。
言うことないですね。
まさにそのとおり。
わざわざ信仰と結びつけなくたって、
「自分の体が病気に打ち勝ったんだ!」
って素直に思えばいい話であって・・
>ケースバイケース。その人次第。その状況次第だと思います。
ざっつらいとです。
たまたまマッチングした人がガンだったら
創価信仰=ガンが治る
ってことにしちゃうんだからオカシくてたまらない。
×題目=生命力が上がる
○**=生命力が上がる **は何にでもなり得る
こう考えるのが常識的ですよね。