前の記事からの続きです。
●遺文名のあるべき姿は?
日顕が監修かあるいは編纂したと思われる平成新編にお元気な池田大作と学会本部が信伏随従(しんぶくずいじゅう)し、媚びへつらう条件なら、明るく笑って何事もなかったかのように和解できそうです。(笑)
真面目な話に戻すと、現状変更するにしても、編年体改訂版か、法主が認めていない新しい遺文集にするか、日蓮正宗の坊主が認めた遺文集のどれかです。
編年体最新版は未確認ですが、編年体の昭和の版には日蓮遺文と目次(目録のこと)に「盗用または剽窃」が存在し、著作権法違反の疑いが濃厚です。
今後どうなるかは分かりませんが、会員に新しく作った遺文集を買わせたとします。
その後、和解したとしても正宗は、新しい遺文集を認めない可能性があります。
新しい遺文集でも特に池田大作が生きている間の出版だと日蓮正宗にもメンツがあるでしょうから認可と法主の署名は困難かもしれません。
幾つかの過去記事で遺文名に触れましたが、新しく作成する場合、日蓮宗の各遺文集と学会版で遺文名が異なる問題があります。
1.御書全集と同じ遺文名
2.編年体と同じ遺文名
3.新しい遺文名をつける。
4.日蓮正宗/平成新編と同じ遺文名
5.昭和定本と同じ遺文名
御書全集と編年体で遺文名は異なっています。
どうするんでしょうね。
日蓮正宗の平成新編と日蓮宗の昭和定本の遺文名の差異について私は未確認です。
御書全集と編年体で数多く問題が見つかっている以上、創価イズムで遺文名を継続する意味は全くないと私は考えています。
社会に対する迷惑と混乱の元と末端会員の恥でしかないでしょう。
遺文集編さんを何度も行ってきた稲田海素さんは晩年に関わった行道文庫版を見る限りは遺文名を変更せず、慎重に取り扱っていると思われます。(他に、日蓮聖人遺文の文献学的研究 鈴木一成)
日蓮遺文本文、遺文名と年表を盗用または剽窃した創価学会に、学会独自の遺文名を継続するか、新たな遺文名の学説を主張し発表する資格はないと私は思います。
社会に対し謝罪や賠償、遺文集の無償交換があれば、反省したことが少しは社会に認められるのかもしれません。
学会は謝罪すらしないと私は現時点で思っています。
1〜3の選択肢を選ぶと、日蓮系だけでなく社会全体から末端の学会員がバカにされて当然です。
末端会員が悪く言われないようにするには、4と5しかありません。
●遺文集の選択肢
正宗と和解していない段階で、新しい遺文集は作られるのでしょうか?
◯新しく作る選択肢
A.昭和定本(霊艮閣版や行道文庫版の系統)+大石寺所蔵の日蓮遺文あり
B.昭和定本(霊艮閣版や行道文庫版の系統)+大石寺所蔵の日蓮遺文なし(和解後に大石寺所蔵分を追加?)
A,B案
和解前に作成されるなら昭和定本を基準。これなら和解後でも無理やり認めさせることが出来るかもしれません。
遺文集を坊さん無しで作成すると、またも在家信徒が勝手に作ったと批判されるでしょう。
謝罪や正宗との和解がない場合、世間一般で学会版を信用する人は皆無でしょう。
和解前に作った遺文集を日蓮正宗の法主、日如氏が後に認可、記名すると、正宗の法主が実にかっこ悪いと思えます。
(仮に正宗の坊さんが編さん、あるいは監修したとしても日蓮宗より教学レベルが劣っていると言われている点も問題です。信徒切り捨てても後悔しないレベルだからヘーキヘーキ(笑))
和解前に作るとしても、日蓮宗系の遺文は許可をとって、日蓮正宗系からは遺文使用の許可を取らないのは、あまりにも異様です。正宗系統寺院や大石寺から許可を取らずに遺文作成を強行し、正宗系遺文を掲載すると、黙認し”出版妨害事件を起こさない””慈悲深い”日蓮正宗僧俗に創価学会が借りを作る形になります。
後々、もちろん創価学会員は全員批判され、バカにされます。
著作権の切れた(切れたかもしれません。)霊艮閣版か著作権が切れていない昭和定本と選択肢が2つあり、どちらを底本にしても、日蓮正宗の僧俗に借りを作ることになります。
原田会長は序文で日蓮正宗に感謝できますか?ってことです。
霊艮閣版(縮刷遺文)を再使用しました、と正宗の許可なしに序文で勝手に言い訳するにしても、日蓮正宗と日蓮宗の交流があってこその霊艮閣版が出来た成果になっています。その交流を創価新報などで誹謗中傷している場合じゃないってことです。
池田センセーは序文で日蓮正宗に感謝出来るに違いありません。日蓮大商人の生まれ変わりですからね。(笑)
序文なしというカッコ悪いのが、創価にはお似合いかもしれませんが。
池田大作が創立した東洋哲学研究所はいつの間にか、公益財団法人になっていたんですね。
新しく作る選択肢なら今度も東洋哲学ならぬ、盗用の哲学が生き生きと学会本部職員の血脈に師弟不二として継承されるのではないでしょうか?
前例もありますし、本部職員は高学歴ですから10ヶ月あれば楽勝、大勝利の完成でしょう。
◯再利用する選択肢
C.日蓮正宗 平成新編 日蓮大聖人御書
D.御書全集は廃刊。学会版編年体の改訂版を出して、編年体改訂版だけにする。
E.御書全集の改訂版と編年体の改訂版を出す
F.しばらく何もしない
G.現代語訳版だけ
どれを採用するんでしょうね。今更、改訂ないままの問題のある学会版編年体を採用するのは、下策だと思います。
C案
和解前に平成新編を基準にするのは、学会本部のメンツ(笑)と、和解の際に問題になる可能性があるから難しそうです。創価新報でさんざん、日顕の平成新編について悪口を書いていましたし、平成新編は今でも正宗の遺文集です。
和解後なら、平成新編を選ぶ可能性はあるかもしれません。
平成新編の採用条件は遺文集として出来が良いのであれば、ですが。
E案
E案だと創価学会が遺文集の著作権法違反を謝罪や賠償をするとは思えません。
社会的信用が皆無で、道義的にも無責任すぎます。
それを更に正宗が創価学会を認めた形にすると、正宗も笑いものです。
私には正宗も学会も一緒に笑えて良いのですが、正宗がそこまでバカとも思えません。
F案
近日中に謝罪はしない。新たな御書作成の発表も当分の間しない。
G案
今出ているらしい現代語訳版だけにする。
お花畑で幸せそうな創価のオジちゃんオバちゃんはこれがピッタリかもしれません。
威厳がなくなり、学会員が脅迫めいたことや、謗法とか退転とか言わなくなるでしょうから、これも一つの選択肢かもしれません。
開目抄とかは抄1「貴方の目を開きなさい」になるんですかね?
それともタイトルは開目抄で本文は日本語訳!?
現代語訳版を採用するメリットデメリットは、和解後に「正宗の僧俗が上で、学会は下」と客観視と明確化出来ていいのかもしれません。ただし正宗の僧俗が上で、学会は下を創価学会はすごく嫌っています。
創価学会員の方には一度くらい、勤行をする際に法華経方便品寿量品の日本語訳を読んでみることをお勧めします。これでマインドコントロールが一つでも解ける人は比較的マトモな人だと思います。
唱題や勤行の儀礼に含まれる神秘や呪文が幻想であることがわかると思います。
(つづく)
'170511
貸しを作る(二箇所)
↓
借りを作る
●遺文名のあるべき姿は?
日顕が監修かあるいは編纂したと思われる平成新編にお元気な池田大作と学会本部が信伏随従(しんぶくずいじゅう)し、媚びへつらう条件なら、明るく笑って何事もなかったかのように和解できそうです。(笑)
真面目な話に戻すと、現状変更するにしても、編年体改訂版か、法主が認めていない新しい遺文集にするか、日蓮正宗の坊主が認めた遺文集のどれかです。
編年体最新版は未確認ですが、編年体の昭和の版には日蓮遺文と目次(目録のこと)に「盗用または剽窃」が存在し、著作権法違反の疑いが濃厚です。
今後どうなるかは分かりませんが、会員に新しく作った遺文集を買わせたとします。
その後、和解したとしても正宗は、新しい遺文集を認めない可能性があります。
新しい遺文集でも特に池田大作が生きている間の出版だと日蓮正宗にもメンツがあるでしょうから認可と法主の署名は困難かもしれません。
幾つかの過去記事で遺文名に触れましたが、新しく作成する場合、日蓮宗の各遺文集と学会版で遺文名が異なる問題があります。
1.御書全集と同じ遺文名
2.編年体と同じ遺文名
3.新しい遺文名をつける。
4.日蓮正宗/平成新編と同じ遺文名
5.昭和定本と同じ遺文名
御書全集と編年体で遺文名は異なっています。
どうするんでしょうね。
日蓮正宗の平成新編と日蓮宗の昭和定本の遺文名の差異について私は未確認です。
御書全集と編年体で数多く問題が見つかっている以上、創価イズムで遺文名を継続する意味は全くないと私は考えています。
社会に対する迷惑と混乱の元と末端会員の恥でしかないでしょう。
遺文集編さんを何度も行ってきた稲田海素さんは晩年に関わった行道文庫版を見る限りは遺文名を変更せず、慎重に取り扱っていると思われます。(他に、日蓮聖人遺文の文献学的研究 鈴木一成)
日蓮遺文本文、遺文名と年表を盗用または剽窃した創価学会に、学会独自の遺文名を継続するか、新たな遺文名の学説を主張し発表する資格はないと私は思います。
社会に対し謝罪や賠償、遺文集の無償交換があれば、反省したことが少しは社会に認められるのかもしれません。
学会は謝罪すらしないと私は現時点で思っています。
1〜3の選択肢を選ぶと、日蓮系だけでなく社会全体から末端の学会員がバカにされて当然です。
末端会員が悪く言われないようにするには、4と5しかありません。
●遺文集の選択肢
正宗と和解していない段階で、新しい遺文集は作られるのでしょうか?
◯新しく作る選択肢
A.昭和定本(霊艮閣版や行道文庫版の系統)+大石寺所蔵の日蓮遺文あり
B.昭和定本(霊艮閣版や行道文庫版の系統)+大石寺所蔵の日蓮遺文なし(和解後に大石寺所蔵分を追加?)
A,B案
和解前に作成されるなら昭和定本を基準。これなら和解後でも無理やり認めさせることが出来るかもしれません。
遺文集を坊さん無しで作成すると、またも在家信徒が勝手に作ったと批判されるでしょう。
謝罪や正宗との和解がない場合、世間一般で学会版を信用する人は皆無でしょう。
和解前に作った遺文集を日蓮正宗の法主、日如氏が後に認可、記名すると、正宗の法主が実にかっこ悪いと思えます。
(仮に正宗の坊さんが編さん、あるいは監修したとしても日蓮宗より教学レベルが劣っていると言われている点も問題です。信徒切り捨てても後悔しないレベルだからヘーキヘーキ(笑))
和解前に作るとしても、日蓮宗系の遺文は許可をとって、日蓮正宗系からは遺文使用の許可を取らないのは、あまりにも異様です。正宗系統寺院や大石寺から許可を取らずに遺文作成を強行し、正宗系遺文を掲載すると、黙認し”出版妨害事件を起こさない””慈悲深い”日蓮正宗僧俗に創価学会が借りを作る形になります。
後々、もちろん創価学会員は全員批判され、バカにされます。
著作権の切れた(切れたかもしれません。)霊艮閣版か著作権が切れていない昭和定本と選択肢が2つあり、どちらを底本にしても、日蓮正宗の僧俗に借りを作ることになります。
原田会長は序文で日蓮正宗に感謝できますか?ってことです。
霊艮閣版(縮刷遺文)を再使用しました、と正宗の許可なしに序文で勝手に言い訳するにしても、日蓮正宗と日蓮宗の交流があってこその霊艮閣版が出来た成果になっています。その交流を創価新報などで誹謗中傷している場合じゃないってことです。
池田センセーは序文で日蓮正宗に感謝出来るに違いありません。日蓮大商人の生まれ変わりですからね。(笑)
序文なしというカッコ悪いのが、創価にはお似合いかもしれませんが。
池田大作が創立した東洋哲学研究所はいつの間にか、公益財団法人になっていたんですね。
新しく作る選択肢なら今度も東洋哲学ならぬ、盗用の哲学が生き生きと学会本部職員の血脈に師弟不二として継承されるのではないでしょうか?
前例もありますし、本部職員は高学歴ですから10ヶ月あれば楽勝、大勝利の完成でしょう。
◯再利用する選択肢
C.日蓮正宗 平成新編 日蓮大聖人御書
D.御書全集は廃刊。学会版編年体の改訂版を出して、編年体改訂版だけにする。
E.御書全集の改訂版と編年体の改訂版を出す
F.しばらく何もしない
G.現代語訳版だけ
どれを採用するんでしょうね。今更、改訂ないままの問題のある学会版編年体を採用するのは、下策だと思います。
C案
和解前に平成新編を基準にするのは、学会本部のメンツ(笑)と、和解の際に問題になる可能性があるから難しそうです。創価新報でさんざん、日顕の平成新編について悪口を書いていましたし、平成新編は今でも正宗の遺文集です。
和解後なら、平成新編を選ぶ可能性はあるかもしれません。
平成新編の採用条件は遺文集として出来が良いのであれば、ですが。
E案
E案だと創価学会が遺文集の著作権法違反を謝罪や賠償をするとは思えません。
社会的信用が皆無で、道義的にも無責任すぎます。
それを更に正宗が創価学会を認めた形にすると、正宗も笑いものです。
私には正宗も学会も一緒に笑えて良いのですが、正宗がそこまでバカとも思えません。
F案
近日中に謝罪はしない。新たな御書作成の発表も当分の間しない。
G案
今出ているらしい現代語訳版だけにする。
お花畑で幸せそうな創価のオジちゃんオバちゃんはこれがピッタリかもしれません。
威厳がなくなり、学会員が脅迫めいたことや、謗法とか退転とか言わなくなるでしょうから、これも一つの選択肢かもしれません。
開目抄とかは抄1「貴方の目を開きなさい」になるんですかね?
それともタイトルは開目抄で本文は日本語訳!?
現代語訳版を採用するメリットデメリットは、和解後に「正宗の僧俗が上で、学会は下」と客観視と明確化出来ていいのかもしれません。ただし正宗の僧俗が上で、学会は下を創価学会はすごく嫌っています。
創価学会員の方には一度くらい、勤行をする際に法華経方便品寿量品の日本語訳を読んでみることをお勧めします。これでマインドコントロールが一つでも解ける人は比較的マトモな人だと思います。
唱題や勤行の儀礼に含まれる神秘や呪文が幻想であることがわかると思います。
(つづく)
'170511
貸しを作る(二箇所)
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