●まとめ
やはり「末端の会員が大切」だと考える学会本部職員ならば遺文集は必要でしょう。遺文集作成のために学会本部は一日も早く和解すべきだと私は思います。
和解するとしても池田大作の死後になるのでしょうか?
正宗と学会で裏でつながりがあるのを知らないのは末端の信徒会員だけで、信徒の取り合い合戦や誹謗中傷合戦は哀れとしか言いようがありません。
歴代会長の著作でも意見でも改ざんや無視してきたのが、ノースタンダードな創価学会と公明党。
ダブルスタンダードより、ノースタンダードのほうがぴったりだと思うようになりました。
官僚的な学会本部職員がいると仮定すると「本部職員が楽をする」ためには、遺文集作成を先送りにすることです。
先送りか、あるいは今までどおり編年体改訂版でお茶を濁して、末端の会員だけが苦労して恥をかき続けることです。本部職員は折伏しないまま、会員の苦労も折伏現場も知らんぷりでいれば法華経の衆生所遊楽ではなく「職員所遊楽」(末端堕地獄)だと私は思います。
学会本部職員のプライドとメンツと金庫は諸天善神に守られ、今までどおり末端の会員が恥をかけばいいだけで済みます。そうでないと言うなら池田や原田会長自ら日顕、日如氏を折伏し動画に残し公開すればいいだけです。100%学会が正しいと正宗に言わせれば良いのです。
381.番記事を書いてから一年弱になりますが、未だに聖教新聞には謝罪がないので「職員所遊楽」(末端堕地獄)でしょう。
蜜月時代を知らない若い職員連中は池田派が多いでしょうし、昔を知る職員は年寄りばかりでしょう。
本来は早期和解を模索すべきだと私は思いますが、池田大作の死期が学会本部や正宗トップの誰にも分かりません。
遺文集の作成するとしても、その時の法主の権威が欲しいでしょうし、正宗へのゴマすりにもなりますから尚更、御書作成より和解優先にして欲しいと私は思いますが、金庫のカネを優先するなら和解しないほうが「学会本部職員だけはオトク(得)」です。もちろん末端会員はバカにされ続けます。
「世間一般に謝罪すること」などを絶対条件に先に書いた記事などの条件を満たし、更に正宗と和解後に遺文集作成を開始するのが理想だと思います。
創価学会の遺文集に大問題があることが発覚したことで、池田大作思想の一部と御書全集を捨てやすくなり、日蓮正宗との和解がしやすくなったのは間違いないと思います。客観的には、ですが。
しかし、学会本部も大石寺も罪悪感というものがないので、新しい貪欲と今までどおりな混沌と争いが生まれるだけで、私が考える理想通りにはならないでしょう。双方が深く反省と謝罪すれば理想に近くなるでしょう。
御書修正を怠った極悪人池田大作の虚像は教団都合的に都合の悪いところは捨てられ、都合のいいところは使われ続けるのは言うまでもありません。
創価学会の日寛本尊は削除、改ざんされて、カラーコピーで配布されています。
犀角独歩さんによれば、大御本尊は「日禅授与漫荼羅から取った輪郭をパッチワークし彫刻した板本尊」とのこと。私にとっては筆法もなく(改ざん)、文字掘り下げ(削除)なので本尊というより遺骸や遺骨のイメージに近いです。遺骸本尊、骸本尊!?(正宗の人にとっては本尊なので、過去に私がゴミに出せばいいと書いた点だけは取り下げます。)
未公表や調査中な点もありますが、現時点でも御書全集は「日蓮宗の複数の遺文集から盗用、剽窃しパッチワークして梵字を削除して出版した」パクリ本。更に編年体は「御書全集を元に年表と列伝を削除し異称を盗用、剽窃した」パクリxパクリ本。
現役学会員時代に外部の人に折伏して御書全集を読み聞かせたり、見せたことは、本当に申し訳なく思っています。折伏の後、「御本尊様、大聖人様、御書の一節を聞いてもらえました。」と歓喜して勤行唱題していた事が正義や信仰レベルといった話ではなく社会常識のレベルで愚かでバカだったとしか今では他に言いようがありません。
こんな出来の悪いメチャクチャなパクリ本だったとは呆れ苦笑しています。
現役学会員時代に編年体は所持していませんでした。
編年体の年表や不統一な句読点・中点を人様他人様に得意げに見せることがなかったのが唯一の不幸中の幸いでしょう。(笑)
以上
やはり「末端の会員が大切」だと考える学会本部職員ならば遺文集は必要でしょう。遺文集作成のために学会本部は一日も早く和解すべきだと私は思います。
和解するとしても池田大作の死後になるのでしょうか?
正宗と学会で裏でつながりがあるのを知らないのは末端の信徒会員だけで、信徒の取り合い合戦や誹謗中傷合戦は哀れとしか言いようがありません。
歴代会長の著作でも意見でも改ざんや無視してきたのが、ノースタンダードな創価学会と公明党。
ダブルスタンダードより、ノースタンダードのほうがぴったりだと思うようになりました。
官僚的な学会本部職員がいると仮定すると「本部職員が楽をする」ためには、遺文集作成を先送りにすることです。
先送りか、あるいは今までどおり編年体改訂版でお茶を濁して、末端の会員だけが苦労して恥をかき続けることです。本部職員は折伏しないまま、会員の苦労も折伏現場も知らんぷりでいれば法華経の衆生所遊楽ではなく「職員所遊楽」(末端堕地獄)だと私は思います。
学会本部職員のプライドとメンツと金庫は諸天善神に守られ、今までどおり末端の会員が恥をかけばいいだけで済みます。そうでないと言うなら池田や原田会長自ら日顕、日如氏を折伏し動画に残し公開すればいいだけです。100%学会が正しいと正宗に言わせれば良いのです。
381.番記事を書いてから一年弱になりますが、未だに聖教新聞には謝罪がないので「職員所遊楽」(末端堕地獄)でしょう。
蜜月時代を知らない若い職員連中は池田派が多いでしょうし、昔を知る職員は年寄りばかりでしょう。
本来は早期和解を模索すべきだと私は思いますが、池田大作の死期が学会本部や正宗トップの誰にも分かりません。
遺文集の作成するとしても、その時の法主の権威が欲しいでしょうし、正宗へのゴマすりにもなりますから尚更、御書作成より和解優先にして欲しいと私は思いますが、金庫のカネを優先するなら和解しないほうが「学会本部職員だけはオトク(得)」です。もちろん末端会員はバカにされ続けます。
「世間一般に謝罪すること」などを絶対条件に先に書いた記事などの条件を満たし、更に正宗と和解後に遺文集作成を開始するのが理想だと思います。
創価学会の遺文集に大問題があることが発覚したことで、池田大作思想の一部と御書全集を捨てやすくなり、日蓮正宗との和解がしやすくなったのは間違いないと思います。客観的には、ですが。
しかし、学会本部も大石寺も罪悪感というものがないので、新しい貪欲と今までどおりな混沌と争いが生まれるだけで、私が考える理想通りにはならないでしょう。双方が深く反省と謝罪すれば理想に近くなるでしょう。
御書修正を怠った極悪人池田大作の虚像は教団都合的に都合の悪いところは捨てられ、都合のいいところは使われ続けるのは言うまでもありません。
創価学会の日寛本尊は削除、改ざんされて、カラーコピーで配布されています。
犀角独歩さんによれば、大御本尊は「日禅授与漫荼羅から取った輪郭をパッチワークし彫刻した板本尊」とのこと。私にとっては筆法もなく(改ざん)、文字掘り下げ(削除)なので本尊というより遺骸や遺骨のイメージに近いです。遺骸本尊、骸本尊!?(正宗の人にとっては本尊なので、過去に私がゴミに出せばいいと書いた点だけは取り下げます。)
未公表や調査中な点もありますが、現時点でも御書全集は「日蓮宗の複数の遺文集から盗用、剽窃しパッチワークして梵字を削除して出版した」パクリ本。更に編年体は「御書全集を元に年表と列伝を削除し異称を盗用、剽窃した」パクリxパクリ本。
現役学会員時代に外部の人に折伏して御書全集を読み聞かせたり、見せたことは、本当に申し訳なく思っています。折伏の後、「御本尊様、大聖人様、御書の一節を聞いてもらえました。」と歓喜して勤行唱題していた事が正義や信仰レベルといった話ではなく社会常識のレベルで愚かでバカだったとしか今では他に言いようがありません。
こんな出来の悪いメチャクチャなパクリ本だったとは呆れ苦笑しています。
現役学会員時代に編年体は所持していませんでした。
編年体の年表や不統一な句読点・中点を人様他人様に得意げに見せることがなかったのが唯一の不幸中の幸いでしょう。(笑)
以上