シアターコクーン『女教師は二度抱かれた』2回目 ソワレ S席1階前方センター
1回目(8/10)に観た時に松尾スズキさんの視点の在り様は好みなんだけど芝居としてはかなり物足りない感があって、なんでだろうなあ?なんて疑問とともに観劇前に『文學界9月号』に掲載された脚本をざっと立ち読みなんかしてみたり。文字だけだともう少しテーマが際立つ感じはした。あとやはり私小説系の戯曲だなという印象。でも基本的なとこで広がりがないかなあ、という感じも。そんな予習をしてからの2回目観劇でした。結局劇場で『文學界9月号』買いました。
で、2回目に臨んだんですが、すでに物語を把握していた分、薄い部分がもっと見えちゃって、なんでそうなるわけ?という不満が募る。とにかく歌舞伎界サイドのキャラクター造詣の薄さに、なぜそうなる?という疑問符が沸くばかり。滝川栗之介の存在感の無さって何?安部サダヲさんの芝居の濃さ&テンションの高さと反比例してこのキャラ必要ないのでは?な印象がますます…。ほとんど箸休め的使い方しかされてない。安部サダヲさん、荒川良々さんあたりは大人計画ファンを満足させるためにいつもの使い方で宴会芸させてみましたとしか思えないんですけど(毒)
歌舞伎界側の人間をまったくと言っていいほど本筋に絡ませないのはなぜですか?松尾さんにとって歌舞伎界はそんなに遠い存在ですか?演劇界のヒエラルキーのtopにある存在だと思っている節がありますがどうしてですか?歌舞伎のことをまったく知らない人が書くのならまだしも知っていてなお表面をなぞるだけの世界しか描かないんでしょうか?滝川栗之介というキャラが歌舞伎役者で女形である意味をまったく見出せないです。歌舞伎の世界をどういう切り口であれしっかり描いてくれれば芝居自体に深みが出たと思うんだけどなあ。
今回の芝居の視点はあくまでも弱者側にあって、その弱者が弱者を傷つけた悲哀とか罪悪と許しとか、強者の側に行くことの後ろ冷たさとか、そんなものが描かれているんだけど、そのなかで歌舞伎は「絶対的な強者」としての側面しか描かれない。かといってその強者としてのエネルギーが何かを、磁場を持つってこともない。人と人が交差していかない。誰かが何かをすることで傷つく人間がいる。それが人生と謳うのなら、絶対的価値観が底辺にあることで揺らぐ世界の人の悲哀も描くべきでは?
松尾さんが描きたかったものは前回以上に伝わってきた。私小説的に自分を投影しているのは天久六郎@染五郎さん、山岸諒子@大竹しのぶさん、鉱物@浅野和之さん、江川昭子@池津祥子さんの4名。だって基本この4名だけで話済んでしまうもの。プラス、「劇団ビリーバーズ」という名の自分のアイディンティティのひとつであろう小劇団という場への愛情かな。上へ上と行こうとして壊れやすくなっている人たちそれぞれのどこか掛け違っていく感情が愛しいのだろう。それはわかる。でも、己の成功していくうちに忘れてしまった見失ったもの、を直視してないよね。自分のずるさをもっと出そうよ、と思う。「落とし前」と付けなくちゃと思うのであれば、幸せの前借をしたと思うのであれば、「逃げた自分」「流された自分」をもっと表現してほしかった。
天久六郎は初っ端から自己反省をしはじめている。でもその前があるはずでしょう?「落とし前をつける時期」がくるその前が。それが描かれて無いと引き受けた重さに潰される。六郎のずるさを描こうよ、流れてしまう弱さをもっと描こうよ。
鉱物のほうは松尾さんがなりたかった自分なんだろうなと思った。一途に愛する人のためだけに生きる人生。そのために誰かを犠牲にしてもいいと思える強さ。愛に狂った男。
でもさなんかね、ただ切ないだけで終わらせるのはどうよ?と思ってしまう私であった。感情のすれ違い、行き違い、そんな不幸な流れをどこかで受け入れる。でも受け入れることの大きさも描こうよ。
結局劇場で『文學界9月号』を買っちゃったのは松尾さんが表現したかったものをもっときちんと知りたいため。なんで不満足な芝居の戯曲を買わなきゃいけないんだよっ。どーしてだよっ、私。でもだから気になるんだよ。方向性は嫌いじゃないから。
それにしても外に向かってない芝居だなあ。内へ内へと向かっている。私小説的芝居という観点でみると自己完結している。でも視点を下に置くのはいいけど、引っ張りあげることもしたほうがいいよ。好きと愛してるは免罪符にならないよ。受け入れることだけじゃダメなんだよ。山岸せんせいを救おうとするなら泉ちゃんも救ってあげようよ。これが「現実」なんだとしても。
と、まあ本筋に関してはモヤモヤが続いています。
滝川栗之介@安部サダヲさんははたぶん、歌舞伎を背負う重さをもつキャラだ、というその部分はわかっていると思う。でも表現するべき場が少なすぎるうえに、滝川栗之介というキャラをオン、オフともにテンションmaxにさせすぎ。CM撮影のシーンでプロ根性の凄みを出してもよかったような?なんだろ緩急が少なすぎ。テンションmaxのサダヲちゃんを期待する客が多いから?それで評価されるしね。個人的に今回の安部サダヲを全面評価できない。厳しい部分を出せるのに出さないってどうなんでしょう。いくらでも表現する隙はあると思うのです。この際、歌舞伎役者にまったく見えないのはどーでもいいです。今回の箸休め的キャラに甘んじてほしくない。ラスト一瞬だけ出すけど、もう後が無さすぎ。うーん、ほんと今回のサダヲちゃんの使い方はもったいない。このキャラ、褒められてるんで普通のファンにはいいんでしょうけど、。でも物語設定に対して、という部分でまったく使いこなせてないよね。
天久六郎@染五郎さんは気弱で、でも「俺のことわかって~」と叫びだしたくてしょうがない、でもその弱みもみせたくない、そんなまだ大人になりきれない男の子でした。その先に行きたいけど、その先へ行くことへの不安をどこかもてあましてしまっている自分の居場所を決めかねているそんな風情。悩める男としての等身大さがいいです。でも演劇界の風雲児と呼ばれるどこかぶっとんだ雰囲気もみせてほしかったかなあ。松尾さんはそこを求めてなさげでしたが…。山岸諒子@大竹しのぶさんとのバランスは良かったと思う。滝川栗之介@安部サダヲちゃんとのバランスは今回イマイチだった。朧でのライとキンタでのコンビネーションはいずこ?
染ちゃんファン目線で言えばやはりかなり可愛いです。ふにゃ~とした顔もポニョポニョしたお腹も、テンションひく~い、眠そうな目も、やたらとセクシーな横顔も。子供ぽく歌う「先生と待ち合わせ」のはじけっぷりも可愛い。最後のほうの感情が爆発してしまう部分の、すべてを飲み込んだその哀しげな表情や切ない台詞廻しは「ああだから染ちゃんのこと好きなんだよね」とか思ってしまったり。歌の生声が聞けたもの個人的に萌え系でした。ラストの「夢から醒めないで」のとこ、前回以上によく声をだしていた。歌うこと、案外好きなんじゃないかなあ。
山岸諒子@大竹しのぶさん、「女優」としての腹の括りよう感動を覚えた。表情の凄みに今回やられた。歌の『吐息のジュテーム』の「あたし女優」のフレーズのとこの表情がすごかったよ。今回は狂いの部分よりここにやられた。可愛らしさと凄みの同居。それと弁天小僧の台詞回しが、ほんと上手い。何でここまでできるの?ってくらい凄かった。拍手もんです。歌舞伎の台詞廻しに関してはサダヲちゃん、負けてるよっ(笑)
あーなんかこれ感想?って感じの文章になりました…。
ps.
もっと言いたい放題:
今回の芝居はいわゆる「振れ幅」が少ない。脚本家の自己完結系物語だから、役者や観客が物語を膨らませる余地が少ない。
松尾スズキさんは気持ち的に弱者側。 歪んだ救いはみせるけど、ストレートな救いはみせない。弱者と弱者じゃ傷の舐めあいになるから、だろう。私小説、という部分での解釈として、書きますが…たぶん「成功した自分」に開き直れていないでは?成功したことで傷ついた部分も多分にありそうだし。松尾さんは基本的に弱者への共感が多い人なんだと思う。弱者の強さもわかってるからこそ真正面から弱者を描けるのかなと。外れた人の弱さも強さもひっくるめて描く。ただ、強者の弱さはまだ描けてない。この部分、まだ自分を見つめ切れてないってとこかなあとか。
1回目(8/10)に観た時に松尾スズキさんの視点の在り様は好みなんだけど芝居としてはかなり物足りない感があって、なんでだろうなあ?なんて疑問とともに観劇前に『文學界9月号』に掲載された脚本をざっと立ち読みなんかしてみたり。文字だけだともう少しテーマが際立つ感じはした。あとやはり私小説系の戯曲だなという印象。でも基本的なとこで広がりがないかなあ、という感じも。そんな予習をしてからの2回目観劇でした。結局劇場で『文學界9月号』買いました。
で、2回目に臨んだんですが、すでに物語を把握していた分、薄い部分がもっと見えちゃって、なんでそうなるわけ?という不満が募る。とにかく歌舞伎界サイドのキャラクター造詣の薄さに、なぜそうなる?という疑問符が沸くばかり。滝川栗之介の存在感の無さって何?安部サダヲさんの芝居の濃さ&テンションの高さと反比例してこのキャラ必要ないのでは?な印象がますます…。ほとんど箸休め的使い方しかされてない。安部サダヲさん、荒川良々さんあたりは大人計画ファンを満足させるためにいつもの使い方で宴会芸させてみましたとしか思えないんですけど(毒)
歌舞伎界側の人間をまったくと言っていいほど本筋に絡ませないのはなぜですか?松尾さんにとって歌舞伎界はそんなに遠い存在ですか?演劇界のヒエラルキーのtopにある存在だと思っている節がありますがどうしてですか?歌舞伎のことをまったく知らない人が書くのならまだしも知っていてなお表面をなぞるだけの世界しか描かないんでしょうか?滝川栗之介というキャラが歌舞伎役者で女形である意味をまったく見出せないです。歌舞伎の世界をどういう切り口であれしっかり描いてくれれば芝居自体に深みが出たと思うんだけどなあ。
今回の芝居の視点はあくまでも弱者側にあって、その弱者が弱者を傷つけた悲哀とか罪悪と許しとか、強者の側に行くことの後ろ冷たさとか、そんなものが描かれているんだけど、そのなかで歌舞伎は「絶対的な強者」としての側面しか描かれない。かといってその強者としてのエネルギーが何かを、磁場を持つってこともない。人と人が交差していかない。誰かが何かをすることで傷つく人間がいる。それが人生と謳うのなら、絶対的価値観が底辺にあることで揺らぐ世界の人の悲哀も描くべきでは?
松尾さんが描きたかったものは前回以上に伝わってきた。私小説的に自分を投影しているのは天久六郎@染五郎さん、山岸諒子@大竹しのぶさん、鉱物@浅野和之さん、江川昭子@池津祥子さんの4名。だって基本この4名だけで話済んでしまうもの。プラス、「劇団ビリーバーズ」という名の自分のアイディンティティのひとつであろう小劇団という場への愛情かな。上へ上と行こうとして壊れやすくなっている人たちそれぞれのどこか掛け違っていく感情が愛しいのだろう。それはわかる。でも、己の成功していくうちに忘れてしまった見失ったもの、を直視してないよね。自分のずるさをもっと出そうよ、と思う。「落とし前」と付けなくちゃと思うのであれば、幸せの前借をしたと思うのであれば、「逃げた自分」「流された自分」をもっと表現してほしかった。
天久六郎は初っ端から自己反省をしはじめている。でもその前があるはずでしょう?「落とし前をつける時期」がくるその前が。それが描かれて無いと引き受けた重さに潰される。六郎のずるさを描こうよ、流れてしまう弱さをもっと描こうよ。
鉱物のほうは松尾さんがなりたかった自分なんだろうなと思った。一途に愛する人のためだけに生きる人生。そのために誰かを犠牲にしてもいいと思える強さ。愛に狂った男。
でもさなんかね、ただ切ないだけで終わらせるのはどうよ?と思ってしまう私であった。感情のすれ違い、行き違い、そんな不幸な流れをどこかで受け入れる。でも受け入れることの大きさも描こうよ。
結局劇場で『文學界9月号』を買っちゃったのは松尾さんが表現したかったものをもっときちんと知りたいため。なんで不満足な芝居の戯曲を買わなきゃいけないんだよっ。どーしてだよっ、私。でもだから気になるんだよ。方向性は嫌いじゃないから。
それにしても外に向かってない芝居だなあ。内へ内へと向かっている。私小説的芝居という観点でみると自己完結している。でも視点を下に置くのはいいけど、引っ張りあげることもしたほうがいいよ。好きと愛してるは免罪符にならないよ。受け入れることだけじゃダメなんだよ。山岸せんせいを救おうとするなら泉ちゃんも救ってあげようよ。これが「現実」なんだとしても。
と、まあ本筋に関してはモヤモヤが続いています。
滝川栗之介@安部サダヲさんははたぶん、歌舞伎を背負う重さをもつキャラだ、というその部分はわかっていると思う。でも表現するべき場が少なすぎるうえに、滝川栗之介というキャラをオン、オフともにテンションmaxにさせすぎ。CM撮影のシーンでプロ根性の凄みを出してもよかったような?なんだろ緩急が少なすぎ。テンションmaxのサダヲちゃんを期待する客が多いから?それで評価されるしね。個人的に今回の安部サダヲを全面評価できない。厳しい部分を出せるのに出さないってどうなんでしょう。いくらでも表現する隙はあると思うのです。この際、歌舞伎役者にまったく見えないのはどーでもいいです。今回の箸休め的キャラに甘んじてほしくない。ラスト一瞬だけ出すけど、もう後が無さすぎ。うーん、ほんと今回のサダヲちゃんの使い方はもったいない。このキャラ、褒められてるんで普通のファンにはいいんでしょうけど、。でも物語設定に対して、という部分でまったく使いこなせてないよね。
天久六郎@染五郎さんは気弱で、でも「俺のことわかって~」と叫びだしたくてしょうがない、でもその弱みもみせたくない、そんなまだ大人になりきれない男の子でした。その先に行きたいけど、その先へ行くことへの不安をどこかもてあましてしまっている自分の居場所を決めかねているそんな風情。悩める男としての等身大さがいいです。でも演劇界の風雲児と呼ばれるどこかぶっとんだ雰囲気もみせてほしかったかなあ。松尾さんはそこを求めてなさげでしたが…。山岸諒子@大竹しのぶさんとのバランスは良かったと思う。滝川栗之介@安部サダヲちゃんとのバランスは今回イマイチだった。朧でのライとキンタでのコンビネーションはいずこ?
染ちゃんファン目線で言えばやはりかなり可愛いです。ふにゃ~とした顔もポニョポニョしたお腹も、テンションひく~い、眠そうな目も、やたらとセクシーな横顔も。子供ぽく歌う「先生と待ち合わせ」のはじけっぷりも可愛い。最後のほうの感情が爆発してしまう部分の、すべてを飲み込んだその哀しげな表情や切ない台詞廻しは「ああだから染ちゃんのこと好きなんだよね」とか思ってしまったり。歌の生声が聞けたもの個人的に萌え系でした。ラストの「夢から醒めないで」のとこ、前回以上によく声をだしていた。歌うこと、案外好きなんじゃないかなあ。
山岸諒子@大竹しのぶさん、「女優」としての腹の括りよう感動を覚えた。表情の凄みに今回やられた。歌の『吐息のジュテーム』の「あたし女優」のフレーズのとこの表情がすごかったよ。今回は狂いの部分よりここにやられた。可愛らしさと凄みの同居。それと弁天小僧の台詞回しが、ほんと上手い。何でここまでできるの?ってくらい凄かった。拍手もんです。歌舞伎の台詞廻しに関してはサダヲちゃん、負けてるよっ(笑)
あーなんかこれ感想?って感じの文章になりました…。
ps.
もっと言いたい放題:
今回の芝居はいわゆる「振れ幅」が少ない。脚本家の自己完結系物語だから、役者や観客が物語を膨らませる余地が少ない。
松尾スズキさんは気持ち的に弱者側。 歪んだ救いはみせるけど、ストレートな救いはみせない。弱者と弱者じゃ傷の舐めあいになるから、だろう。私小説、という部分での解釈として、書きますが…たぶん「成功した自分」に開き直れていないでは?成功したことで傷ついた部分も多分にありそうだし。松尾さんは基本的に弱者への共感が多い人なんだと思う。弱者の強さもわかってるからこそ真正面から弱者を描けるのかなと。外れた人の弱さも強さもひっくるめて描く。ただ、強者の弱さはまだ描けてない。この部分、まだ自分を見つめ切れてないってとこかなあとか。