錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~当時の日本映画界(その2)

2012-10-26 16:58:01 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 ところで、戦後第一期の男優スターと言えば、池部良三船敏郎鶴田浩二佐田啓二三國連太郎らであるが、彼らは現代劇で主役を演じ人気が出たスターだった。(鶴田のデビュー作は昭和23年松竹京都の時代劇『遊侠の群れ』だが、彼が主演して注目されたのは昭和24年の『フランチェスカの鐘』だった。また、三船敏郎のデビュー作は昭和22年東宝作品『銀嶺の果て』で、注目されるのは昭和23年、黒澤の『酔いどれ天使』である。三船の時代劇初出演は昭和25年の『羅生門』、剣豪を初めて演じるのは『完結佐々木小次郎・巌流島決闘』の宮本武蔵で、この時の小次郎は友右衛門である。)
 そして、彼らはみな、大正後半生まれで、昭和27年4月時点(筆者の生まれた時)で二十代半ばを過ぎていた。(池部良は、若く見えるが、大正7年生まれで35歳、この中で最年長だった。昭和24年『青い山脈』で20歳そこらの旧制高校生を演じた時、すでに32歳である。)
 が、それでも時代劇に比べればましだった。時代劇の人気俳優はほぼ全員戦前からのスターで、明治生まれの中年男ばかりだった。昭和27年4月時点で一番若い大友で39歳、最年長の大河内が54歳だった。若い順に言うと、浩吉40歳、長谷川44歳、右太45歳、アラ寛48歳、千恵蔵49歳、月形50歳、阪妻51歳である。
 これまで時代劇の男優は、歌舞伎役者をスカウトすることが多かった。時代物の所作振舞といった基本が出来ているので、着物を着せて鬘をかぶせ、すぐにでも映画に出せた。手っ取り早かったのである。ただし、戦前の時代劇俳優は、歌舞伎では名門出身でないため不遇な役者、売れていない役者、小芝居の役者がほとんどだった。尾上松之助、市川百々之助、阪妻、千恵蔵、寛寿郎、右太衛門、林長二郎(長谷川一夫)がそうである。大河内は新国劇、歌舞伎や芝居に無関係なのは月形龍之介くらいである。
 前にも述べたが、戦後歌舞伎役者から転じた時代劇スター第一号は、昭和25年12月、『佐々木小次郎』で映画デビューした大谷友右衛門だが、昭和27年には時代劇4本に出演している。大佛次郎原作の『四十八人目の男』(佐伯清監督 東宝)は「赤穂浪士」の番外編で、討ち入りに加わらなかった小山田庄左衛門(のちに錦之助も演じた)を主人公とした作品だが、これを友右衛門が好演している。その後、東宝から新東宝、大映、松竹と転々とし、20本ほど出演して(その中には溝口健二の現代劇『噂の女』での医師もある)、昭和30年歌舞伎界に戻ってしまう。友右衛門は、短命の時代劇スターだった。
 昭和一ケタ生まれ(錦之助と同じ昭和7年生)で歌舞伎役者から時代劇俳優に転じた最初の役者は、北上弥太郎である。七代目嵐吉三郎の息子で関西歌舞伎時代の名は嵐鯉昇、武智歌舞伎で注目された若手有望株の一人だった。昭和25年大阪歌舞伎座で錦之助は鯉昇と同じ舞台に立っている。演目は「夕涼み」で、錦之助は江戸っ子芸者、鯉昇は太鼓持ちを演じた。鶴之助、扇雀、雷蔵も出演した舞台であった。鯉昇は大谷竹次郎社長の推挙を受けて、時代劇スターが手薄な松竹京都に入り、昭和27年2月、『出世鳶』(大曾根辰夫監督)で本名の北上弥太郎を名乗ってデビューした。
 その後、昭和28年末までに15本の作品(3本は現代劇)に出演。美空ひばりの相手役をやった最初の歌舞伎界出身の若手俳優であった。その15本のうち美空ひばりとの共演作が4本あり、昭和28年10月製作の『山を守る兄弟』(大仏次郎原作 松田定次監督)では、北上が兄の玉置伊織、ひばりが弟の大三郎をやっている。


『山を守る兄弟』北上とひばり

 この映画の企画は、ひばりのプロモーター、新芸プロ社長福島通人である。これは重要なことなのだが、福島がその次の時代劇映画で、16歳になったひばりにもそろそろ恋愛する役をやらせようと考え、『ひよどり草紙』を企画したのは、この頃だった。そして、その相手の男優を必死に探していた。ということは、北上弥太郎がひばりの恋人役としては適さないと感じたからなのだろう。この頃、北上は瑳峨美智子との噂もあり、ひばりの母の加藤喜美枝とひばり自身も北上を望まなかったにちがいない。結果的に北上はひばり母娘に振られたことになる。(『山を守る兄弟』と『ひよどり草紙』の間に、松竹大船作品『お嬢さん社長』(川島雄三監督、佐田啓二共演)が製作される。ちなみに、ひばりに「お嬢」という呼び名がついたのはこの作品によってである。)
 北上弥太郎は、主演作で松平長七郎役の「若君捕物帳」を2本撮ったがシリーズ化には至らず、結局主役スターにはなれないまま脇役俳優に落ちてしまう。松竹京都に入ったのが不運だったのかもしれない。彼はスターになれなかった時代劇俳優だった。


八代目嵐吉三郎(北上弥太郎)

 北上弥太郎は、旧友扇雀の勧めで、昭和59年歌舞伎界に復帰し、父の名跡の嵐吉三郎(八代目)を継いだ。が、歌舞伎役者として再スタートした3年後の昭和62年、喉頭鴈で人生の幕を閉じている。享年55歳だった。(つづく)





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