錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~当時の日本映画界(その1)

2012-10-26 11:04:28 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
昭和27年から昭和28年にかけての日本映画界について触れておきたい。錦之助が映画界入りする前の背景であり、錦之助という映画スターが登場する前の、いわば前舞台である。
 まず、大映は、昭和26年9月に黒澤明の『羅生門』がヴェネチア映画祭でグランプリを取って気勢を上げた。その後社長永田雅一は、自社作品の海外進出も視野に入れ、芸術大作路線を敷いて本格的に映画製作に乗り出した。
 大映はすでに長谷川一夫の劇団新演伎座とは提携契約を結んでいたので、長谷川一夫は大映作品に出ていた。昭和26年、長谷川は、娯楽時代劇『銭形平次』シリーズを開始し、また11月、大作『源氏物語』(吉村公三郎監督)で光源氏を演じてヒットさせた。そして、昭和27年、松竹京都の『治郎吉格子』(伊藤大輔監督)で鼠小僧を演じた後、大映京都で『修羅城秘聞』二部作などを撮って大映専属となり、以後大作は衣笠貞之助監督と組んで、11月に『大仏開眼』、翌28年には大映初の総天然色映画『地獄門』を撮って、大映時代劇を支える看板スターの座を確保していく。『地獄門』はアカデミー賞の衣裳デザイン賞と外国語映画賞を取り、カンヌ映画祭ではグランプリを受賞した。
 また、永田雅一は、顧問に川口松太郎を据え、昭和27年には監督溝口健二を招いて『お遊さま』を製作(これは失敗作)、翌28年、溝口は『雨月物語』を撮って、ヴェネチア映画祭で銀獅子賞を受賞する。つまり、大映はチャンバラ時代劇でなく、プライドの高いワンマン社長永田雅一の方針の下に、芸術大作時代劇を連打していた。それには、チャンバラスターがいなかったこともあるだろう。(昭和29年夏、市川雷蔵と勝新太郎が入る前の大映の話になってしまった。)

 さて、それに対し、チャンバラ解禁を受けて、それを最も活用したのは東映であった。昭和26年4月に三社合併によって設立した、大川博社長率いる東映は、膨大な負債を抱え苦境にあったが、経費を切り詰め、自社作品の配給網を広げていった。GHQによる時代劇への規制は昭和25年頃から緩められていたが、昭和27年、まったく自由に時代劇が製作できるようになって、俄然勢いづいた片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介、大友柳太朗など、並み居るチャンバラスターが活躍を開始した。
 昭和27年4月、他社に先駆け戦後初の忠臣蔵映画『赤穂城』(萩原遼監督)、5月に『続赤穂城』を封切った。ただし、討ち入り場面はなかった。この映画で、浅野内匠頭と大石内蔵助の二役を演じたのは片岡千恵蔵である。多羅尾伴内、Gメン、金田一耕助といった現代人をやっていた千恵蔵が、近藤勇や国定忠治や机竜之助もやるようになった。市川右太衛門の「旗本退屈男」はすでに昭和25年に復活しシリーズ化していたが、「ジルバの鉄」をやった右太衛門が中山安兵衛や浅香恵之助(『修羅八荒』)に扮し、剣を振るった。
 東映のことはまた書こう。

 松竹は大船の現代劇がメインだったが、京都製作の時代劇にも力を入れ出す。
 昭和24年秋、大物スター阪東妻三郎を大映から松竹に移籍させた。阪妻はまず、木下恵介監督の現代喜劇『破れ太鼓』でカミナリ親父を熱演し大ヒットさせた後、暮に『影法師』を撮って昭和25年の正月上映で当て、松竹京都時代劇の大看板になっていた。同年5本(1本は東横作品)、翌26年3本(1本は東映作品)、寡作ながらもすべて時代劇だった。昭和26年11月公開の『大江戸五人男』(伊藤大輔監督、市川右太衛門共演)では幡随院長兵衛を演じた。昭和27年は『魔像』と『丹下左膳』に主演。だが、持病の高血圧に悩まされ、往年の活躍は望めなかった。昭和28年7月初め『あばれ獅子』の撮影中に倒れ、7月7日不帰の人になった。一世を風靡した剣戟スターが消えたのだった。
 松竹京都の時代劇には、ほかに高田浩吉がいたが、歌のうまい時代劇スターではあったが、チャンバラスターとは言えなかった。
 
 東宝は争議の後、落ち着きを取り戻し、自社製作がやっと軌道に乗り始めていた。が、時代劇は当時まだ不得手で、昭和27年は、三船敏郎主演で『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』(森一生監督)と『戦国無頼』(稲垣浩監督)を作ったが、子会社の宝塚映画が製作した作品を配給することも多かった。
 新東宝は設立時の大物俳優がごっそり抜け、経営も苦しく低予算の映画を連作していたが、時代劇は専属スターも不在で小粒な作品が多かった。昭和27年、起死回生をはかり、溝口健二の力作『西鶴一代女』を世に送るも、興行的には不発に終ってしまった。
 
 戦前からの大物時代劇スターには、ほかに大河内伝次郎と嵐寛寿郎がいた。
 大河内伝次郎は50歳を過ぎてから大映時代劇では長谷川一夫の助演が多かったが、昭和27年、東宝の『四十八人目の男』で大石内蔵助、大映の『すっ飛び駕』で河内山宗俊、昭和28年、東映の正月作品『喧嘩笠』では清水次郎長に扮し、大前田栄次郎役の千恵蔵と共演し、続いて新東宝の『名月赤城山』で国定忠治、夏にマキノ雅弘監督で『丹下左膳』を2本撮った。が、左膳に往年の迫力はなかった。
 嵐寛寿郎は新東宝系の綜芸プロに所属していたが、フリーだった。昭和26年以降、寛寿郎は各社から引っ張りだこになる。『鞍馬天狗』だけを追ってみると、昭和25年夏、綜芸プロ製作、新東宝配給で『鞍馬天狗 大江戸異変』を撮って戦後初の鞍馬天狗を撮った後、昭和26年は松竹京都で2本(『鞍馬天狗 角兵衛獅子』では美空ひばりが杉作を演じ、松竹京都作品計3本に共演)、昭和27年になると松竹京都、東映京都、新東宝各1本で計3本、昭和28年には東映京都3本、新東宝1本、宝塚映画(東宝配給)1本で、計5本撮っている。加えて『右門捕物帖』も数本撮って、天狗だけでな「むっつり右門」の当たり役も復活させた。


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