この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

本屋大賞。

2006-02-09 23:03:30 | 雑事
昨日の続きのようなものですが、本屋大賞についてちょっと考えを述べてみたいと思います。

『博士の愛した数式』は第一回本屋大賞受賞作品だそうです。
本屋大賞について詳しくはこちら。

さて文学界でいちばん有名な文学賞といえばいうまでもなく大衆文芸作品に対する直木賞と、純文学作品に対する芥川賞ですよね。
この両賞に関して、特に直木賞には以前から何かと問題や弊害が指摘されていました。
ざっと思いつく限り挙げてみると、、、
1.出版形態が文庫、もしくは新書である作品は選考対象とならない。
まずそう言い切って構わないと思います。
文芸春秋のHP、各賞紹介において直木賞紹介は「単行本として発表された」とありますから、芥川賞もこれに準ずると考えていいでしょう。
しかしおかしくないですか、文庫やノベルズで発表された作品だからといって選考対象にならないというのは。
そういった出版形態の作品にだっていくらでも素晴らしい作品はありますしね。(一例を挙げると講談社ノベルズの京極堂シリーズとか。)
2.弱小出版社の作品も選考対象とならない。
こう言い切ってしまうのはどうかと思いますが。笑。
でも例えば太田出版がこの先どんな素晴らしい小説を単行本として出版しようが、その作品が直木賞に選ばれることはないでしょうね、きっと。
直木賞、芥川賞が一部の大手出版社による持ち回りの文学賞といわれても致し方ないのでは、と思います。
3.落選理由が腑に落ちるものでない。
横山秀夫の『半落ち』問題は記憶に新しいところです。(詳しくはこちらこちらなど。)
他にも確か「長いから」という理由で落選した作品もありましたよね。字数の規定があるわけでなし、この理由もやっぱり変です。
4.選考委員に信を置けない。
これは3と被るものがあります。まぁいい年をした中年の男と女が然したる理由もなく乳繰り合うだけの小説しか書けないジーサンに人物造詣がどうこうといわれたくないのは確かです。笑。
あとは無責任な発言で作品を全否定するオバサンとか。
他にもいろいろ問題があるような気がしますが、これぐらいにしておきます。
いくつか否定的な意見をいわせてもらいましたが、でも決して直木賞(芥川賞もですが)そのものを否定する気はありません。
何といってもこの二つの賞は文学界のお祭りですから。
例え選考システムに問題があったとしても、さらに多少選考委員に偏りがあったとしてもそれはそれでいいと思っています。
いうなれば昼間から点けっ放しの派手できらびやかな飾り灯篭みたいなものではないでしょうか。

さて、翻って本屋大賞です。
直木賞、芥川賞はあれでいい、といいました。
しかしすべての文学賞が直木賞化、芥川賞化されては困ります。
本屋大賞とは、出版不況にあえぐ出版業界において、その現場である本屋の売り場からベストセラー作品を生み出すべく、全国の書店員が実際自分で一番売りたい!と思える本を選ぶ賞だそうです。
その志自体は非常によい、と思います。
そしてその栄えある第一回本屋大賞受賞作品が『博士の愛した数学』なのですが、ここで疑問が生まれます。
『博士の愛した数式』は確かに良質の感動を与えてくれる佳作だと思います。
けれど、確か本屋大賞を受賞した時点で(というかノミネートされた時点で)かなりの売上げがあったような記憶があります。
そして第三回本屋大賞ノミネート作品を見るにつけ、ため息に近いものが漏れました。
ノミネート作品はいずれも大手出版社から出版されたものばかりです。
そしてすべての作品がハードカバー(単行本)。
さらにいえば、いずれも既にベストセラーと呼べる作品ばかり(のように思えます)。
いささか残念でなりません。
売り場からベストセラーを生み出そう!という気概で作った賞ならば、何ももう十分に名の知れた作品を今さらノミネートしなくてもよいのに、と思うのです。
実際、ミリオンセラーである『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』や直木賞を受賞している『容疑者Xの献身』といった作品が本屋大賞を受賞したとして、それで何か意味があるのでしょうか。
ノミネート作品が直木賞のそれと比べて代わり映えがしないのであれば、本屋大賞は自分にとって必要なものではありません。
直木賞が飾り灯篭であるなら、本屋大賞は夜道を照らす行灯のような存在となってほしいのです。
それを望むのは酷というものなのでしょうか。
コメント (6)