この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

戦争が無くならないワケ、自殺が無くならないワケ。

2006-10-30 23:59:37 | 戯言
 他人を説得しようと思ったら二つの『り』を心掛ければいい。
 一つ目の『り』とはすなわち『理』。つまり道理のことで、大袈裟に言えば大義名分のことである。わかりやすくいうと「~すべきだ」「~すべきじゃない」といったことだ。
 人は『理』があれば行動を起こしやすい。何しろ正義は我にあるのだから怖いものなどない。
 だが正義がこちら側にあっても、説得に交渉することはしばしばある。
 なぜか。それはもう一つの『り』が欠けているからだ。その『り』とは『利』、つまり利益のことだ。
 戦争をすべきじゃないってことは誰でも知っている。子供だって知っている。犬や猫だって知っているんじゃないかって思う。
 でも戦争は無くならない。それは単純に戦争をすることで儲ける人間がいるからだ。
 本気で戦争を無くそうと思ったら、戦争で儲けている連中に、戦争をしないとこんなに利益があるのですよ、ということを証明してみせなければならない。
 だがそれはほとんど不可能事だ。なぜなら彼奴らときたら戦争をすることで莫大な利益を得ているからだ。それを放棄しろといっても納得できる話ではない。
 だから戦争は地球上から無くならない。
 一方、日々中高生の自殺が新聞を賑やかす。自殺をしようっていう連中に、自殺はいけないことですよ、人は生きるべきなんですよ、などと道理を説いても始まらない。
 なぜなら彼らもそんな道理は百も承知しているからだ。彼らが死のうとしているのは、生きていることによって生じる悩みや苦痛などの不利益が、生きていくことで得られる喜びや楽しみなどの利益を大きく上回るからだ。望んで死ぬ奴など実はいない。
 だから彼らを説得しようと思ったら、彼らが生きていくことで、どれぐらいの利益を得られるのか、具体的に説明し、納得させればいい。
 決して易しいことではない。だが不可能ごとでもないかな、とも思う。
 もしかしたらいつか地球上から自殺者はいなくなるかもしれない。
 そんなことをふと、新聞を読みながら考えたりした。
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どんな敵にも。

2006-10-29 23:47:22 | 日常
 あるブログで思いつくままテキトーにコメントをつけたら、そのコメントがやたら過大に評価されて、コメントした本人である自分も「この人は器の大きい人だ」みたいなことを別のブログでいわれちゃって、ちょっと困惑しています。
 それって絶っっっ対勘違い平行棒ウルトラCで、まぁ勘違いを勘違いのまま放っておいても構わないんですけど、万が一「器の大きい人ってどんな人だろ?」と思ってこのブログにやって来た人が片っ端から記事を読んだ後に、な~んだ、この程度かぁとガッカリしてもいけないので最初から断っておきます。
 平均的な器の大きさをご飯茶碗だとしたら、自分の器はペットボトルのフタぐらいの大きさですから!!
 また別のブログで、こんなまともな方とは思ってもませんでした~、っていわれたんですけどね、、、どーゆー人だと思っていたのですか!!涙。
 その人を生徒指導室に呼び出して、放課後みっちり発言の真意を問いたいところです。
 ま、上に書いてあることが、何のことやらさっぱりわかりませんな、お代官様、という方は遠慮なくスルーしちゃってください。
 
 まぁ器の大きい人、なんていわれてしまったものだから、本当に器の大きい人って誰だろ~、って考えてみました。
 でもこれが案外な難問で、自分同様器の小さい人なら何人でも思いつくんですけどねぇ、、、具体的に誰かはいいませんけど。笑。
 で、散々考えた末に思い出したんですよ、器の大きい人。
 それは誰かというと他でもない、先日日本シリーズを征したばかりの北海道日本ハムファイターズ監督のトレイ・ヒルマン監督その人。
 先ごろ行なわれた日本シリーズは優勝旗が初めて北海道に渡ったシリーズとして話題になりましたが、監督よりも先に選手(誰かというともちろんSHIJO選手その人ですが。)が胴上げされたシリーズもこれまた初なのではないでしょうか。少なくとも自分は寡聞にして知りません。
 自分よりも先に胴上げされるSHINJOをにこやかな笑顔を浮かべて見つめるヒルマン監督は間違いなく器が大きいといえるでしょう。
 仮に自分が同じ立場だったら、お前らふざけんじゃねぇぞ、誰のおかげで優勝できたと思ってやがるんだ、って言って、バットを持って選手たちを追っ掛け回していたでしょう。だって器がペットボトルのフタぐらいの大きさしかないんだもん。笑。
 ま、そういうわけで自分もせめてヒルマン監督の、半分、、、いや四分の一ぐらいの大きさの器でありたいものだなぁと思う今日この頃です。
 ちなみにタイトルの「どんな敵にも。」の意味、わかりましたよね?わかんない人はやっぱり遠慮なくスルーしちゃってください。笑。
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トンマッコルへようこそ

2006-10-28 23:59:03 | 新作映画
 パク・クァンヒョン監督、『トンマッコルへようこそ』、Tジョイ久留米にて鑑賞。

 ジブリの正統なる後継者。

 観てない作品についてあれこれ言うなよ、と思われる方もいるかもしれないが、それも最もだと思うけれど、現在公開中の宮崎悟郎監督の『ゲド戦記』はまーったく観に行く気がしない。一週間レンタルになったら見てもいいかな、それぐらいの鑑賞意欲しかそそられない。
 なぜだろう、『ゲド戦記』にはジブリらしさが感じられないというか、あの作品で唯一評価してもいいかなと思えたのは手しま葵が歌う主題歌ぐらいで、ゴローちゃんもアニメ映画監督としてはともかく、作詞家としての才能はなかなかあるのだな~と感心してたら、その歌詞も萩原朔太郎の『こころ』のパクリでビックリでガックリで栗金団が出来そうだ。笑。
 本人は公式サイトとパンフレットでそのことが明記されているから問題ないといっているようだが、あれだけ『テルーの唄』を全面に押し立てて広告をしておきながら、その際は告知されることなく、さらにシングルCDには萩原朔太郎の名が一切記されていないのだから、問題がないわけがない。
 まぁ『ゲド戦記』以前からジブリが商業主義に走るようになってからの作品にはほとんど魅力は感じないのだけれど。そのうちパチンコ『風の谷のナウシカ』とか出てくるに違いない。笑。
 今となっては信じ難いことだが、宮崎駿は『ルパン三世 カリオストロの城』の劇場公開時、それまでの路線とは異なるロマンチックなルパンを作ってしまったがために、ルパンファンから叩かれるに違いないと怖れていたそうだ。このエピソードがどこまで本当なのかは知らないが、アニメ製作に一切関わったことのない息子に監督を任せ(一応反対したという話だが)、その息子は恥も外聞もなく先人の詩をそのまんまパクっちゃう今では、到底考えられない謙虚さだ。
 今でも年に数回は『カリオストロの城』を思い出したときに見る自分にとって(もちろん『カリオストロの城』は正確にはジブリ作品じゃない)、ジブリ作品にジブリらしさ(ジブリらしさって何よ?という定義はさておく)が見られなくなっているのには一抹の寂しさを感じないわけでもなかった。
 が、まさか韓国映画を観に行ってジブリらしさを見出すことになろうとは夢にも思っていなかった。
 村の入り口に置いてある土偶(?)は『千と千尋の神隠し』のワンシーンを思い起こさせるし、苔むした墜落機はまさに『ナウシカ』の腐海で朽ちた兵器群であるし、武器を捨て鍬や鋤を手に取る兵士たちはまるきり『未来少年コナン』のインダストリア兵だ。
 他にも随所でジブリアニメの思い起こさせるシーンのテンコモリで、自分は観ていて妙に懐かしくなった。
 結局のところパクリなのか、オマージュなのかは、その作品の志の高さによるのだと思う。『トンマッコルへようこそ』がもしジブリのワンシーンのパッチワークだけで構成されていたとしたら、所詮それは二流のパクリ作品といえるのかもしれない。自分もてっきりここまでジブリっぽい作品なのだから、最後もいかにもジブリらしい奇跡が起こってめでたしめでたしの大団円、みたいな結末なのだろうと高を括っていた。確かに奇跡は起こる。起こるのだけれど、代償も要求される。正直ビックリした。お気楽なハッピーエンドなのだろうと思い込んでいた自分は意表を突かれた。
 ここに、大好きなジブリ作品を実写にしてみたいという製作スタッフの、でも自分たちらしさ、韓国人らしさも決して忘れていませんよ、という主張が垣間見えて自分はとても感心した。兵士たちの、自分たちのやるべきことはすべて成し遂げた、その達成感に満ちた笑顔はとても印象的だった。
 無論著作権の関係だろう、ジブリ作品からの引用ですとか、宮崎駿に捧ぐとかいう断りは目にすることが出来なかったけれど、それでも数多のジブリ作品、そして宮崎駿へのリスペクトが感じられた作品だった。
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眩暈と北枕。

2006-10-27 23:43:49 | 日常
 最近眩暈がする。朝布団から起きる時。ぐるんぐるんと。いや、ぐるんぐるんって感じじゃないな、(視界が)半回転して巻き戻し、半回転して巻き戻し、その繰り返し。
ちょうど回転式のジェットコースターから降りた直後って感じでしょうか。
 当然朝起きた直後だっつーのに気分も悪いし、吐き気もする。
 これが普通の人だったら、自分の身体はどこかおかしいんじゃないかって不安になったりするところだろう。中には病院に行く人だっているかもしれない。もし知り合いがそういう症状を訴えたら自分も病院に行けっていうだろう。
 でも自分自身がそういう症状になったとしても病院に行こうという気は起こらない。
 だってさー、やっぱり病院に行くのって超めんどくさいし、しかも診察費?診療費?は矢鱈高いし、まぁ貧乏人は病院に来るなってことだよね♪、それに何より自分は生きることに執着しないタイプなので、だから病院には行かない。
 生きることに執着しないなんて書くと、ゲェー、こいつ危ないヤツなんじゃ、って思われるかもしれないけれど、そーゆーわけではない。と思う。
 生きることに執着はしないけれど、だからといって積極的に死のうかとゆーわけでもなく。
 やっぱりねー、死ぬのって面倒臭いよ。
 何が面倒臭いかといって、死ぬ時ぐらいはやっぱり穏やかな気持ちでいたいじゃないですか。もう何も心を煩わせるものが無いような状態で。
 自分の場合、まずパソコンのあれやこれやのファイルやデータを抹消しないうちには、しかもそれが誰にもサルベージ出来ない状態になってないうちには、おちおち死ねやしねぇ。自分が死んだ後万が一誰かがパソコンをいじくってそれらのファイルやデータを見つけ出したときのことを想像すると本当に冷や汗もんだよ。あと、机の引き出しに隠してあるコレクションAや本棚の上に置いてあるダンボールの中のコレクションBも処分しないとね。
 まぁコレクションAやBは燃えるゴミの日にでも出せばいいことだけど、問題はパソコンのファイルやデータの方。ファイルやデータを完全に消去するのは実は難しいって聞いたことがある。まずはそのやり方を覚えないとねぇ、ってことだ。
 話を眩暈のことに戻すと、夜寝る部屋を隣りの物置部屋からパソコンを置いてある自室に移した、って話は以前にもしました。
 で、布団を引いて寝ているわけだけれど、布団を敷く向きを南北に、そして枕を南側に置いてある。つまり北枕は縁起が悪いから、そんな言葉はないのだれど、南枕にしてるってわけ。
 それだとパソコンに頭を向けて寝ることになるので、もちろん寝るときパソコンはオフにしているが、寝ている間にパソコンから電波が発せられて、それで眩暈がするようになったんじゃないの?ってお袋に言われた。そういや隣りの部屋で寝ているときはこんなことなかったなぁと思って、今は少しでも頭をパソコンから遠ざけるべく、北枕で寝ている。
 で、皆さんにお聞きしたいのですけど、北枕が縁起が悪いってことは知ってるんですよ、確か死者が葬式とかで北向きで寝かされるなんですよね、でもそういう因習は自分にはどーでもよくて、生きてる人が北枕で寝て、それで何か実害があるのかどーか、ご存知の方がいたら、教えて下さい。
 昔何かの本で北枕で寝ると地球の磁力(!)の関係で身体によくない、みたいな話を聞いたことがあって。
 まぁそれで実際身体に悪かったとしても病院に行くわけではないけどね。笑。
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きっこの日記。

2006-10-24 23:59:52 | インターネット
 ついこの間までのことだけれど、っていうか今でも一応はそうなのだけれど、ブログの更新は出来るだけ毎日するようにしていた。なぜかっていうと、下手っっっくそな文章であっても毎日更新していれば少しは上達するんじゃないか?みたいなことを考えていたからだ。つまり文章修行の場をブログに求めていたってわけ。
 でもダメなもんはやっぱりダメ。文才ない奴が毎日文章書いたところでたかが知れてる、ってことを最近よく思う。っていうか、本当はもっと以前から思っていた。
 所詮、書きたいことも書くべきこともないのに、それなのに毎日書いたって意味なんてない。読むべきものなんて何もない。空虚な文章の積み重ねでしかない。
 自分に関してはそうなんだけれど、ほぼ毎日、いや、ほぼなんて副詞が要らないぐらいに毎日更新されていて、なおかつ読む価値があるブログがある。
 今さらここで紹介するのもどーかと思われるぐらい有名だけれど、それがきっこのブログだ。
 どういったブログなのか、説明するのは難しい。なぜなら内容が多岐に渡るから。ともかくスゴイ、としかいえない。
 文章的にはとても安定している。安定している文章を読むのは気持ちいい。そういった点では三谷幸喜の文章と共通している。
 なぜ今日わざわざ取り上げたのはきっこのブログが書籍化された『きっこの日記』をよーやく!入手出来たから。本当は地元の本屋で予約していたんだけど、入荷予定日になって「うちには入荷しないことになりました♪」なんてことをほざいてくれるもんだから、入手するのが遅くなってしまった。っていうか、手に入らないかと思ってた。
 自分も以前はブログで読めるものを何でわざわざ高い金を出して読まなくちゃいけないの?みたいなことを思っていたし、今でもブログの書籍化されたものの多くは読むに値しないなんて偏見に満ち満ちたことを思っちゃったりしているわけだけれど、『きっこの日記』だけは自信を持って購入することをお薦めする今日この頃なのだ。
 
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緊急アンケート!!

2006-10-23 22:34:49 | 雑事
 緊急アンケート!!
 というのは大袈裟で、ミクシィの某コミュニティのトピックで話題になっていたことで個人的にちょっと聞いてみたいことがあるので、よかったら答えてみてください。

 問1.次の漢字の読み仮名(ルビ)をつけてください。
 ①雰囲気
 ②女王
 ③体育
 問2.問1.の漢字を実際に発音する場合、何と言っていますか?お答えください。

 一体何いってんの?と思うかもしれませんが、まぁ要は表記(ルビ)と発音が異なる場合がある、ってことなんです。どーゆーことかというと、①でいえば、『雰囲気』と書いて「ふいんき」と発音する人がいるらしいんですよ。まぁ自分の周りにはいませんが。「ふいんき」は明らかな誤読として、問題は②と③。
 自分は『女王』には「じょおう」とルビを振り、口に出しては「じょうおう」と発音します。『体育』であれば、ルビが「たいいく」、発音が「たいく」です。
 それが主流だと思ってました。『体育』を「たいいく」ときちんと読むのなんて(それが正しいのはわかっています)、今どきNHKのアナウンサーぐらいのものだろう、なんて思ってました。実際民放のバレーボール中継とかだと「代々木体育館」は「よよぎたいくかん」って言ってますし。
 が、しかし。そうではないんですねぇ。
 『女王』を「じょおう」と読む人、「じょうおう」と読む人、そして『体育』を「たいいく」と読む人、「たいく」と読む人、トピックをざっと見た感じ半々ぐらいでした。
 言葉っていうものは生き物ですから、時の流れとともに変化していきます。
 元々『新』という漢字の訓読みは「あらた」しかなく、当然『新しい』は「あらたしい」と読むのが正しい読み方でした。つまり、「あたらしい」っていう読み方は誤読だったんです。でも今となっては「あらたしい」と読む人はいません。誤読が正しい読みを駆逐してしまった例といえるでしょう。 
 それまでと違う使い方の言葉であったとしてもそれが言葉の乱れなのか、それとも新たなる言葉の流れとなりうるのか、それを現時点で判断するすべはありません。もしかしたら「あたらしい」という読み方に対してもそれまでの読み方にこだわる、旧態然とした人々は苦々しく思っていたのかもしれないですし。
 ともかく、あらためて言葉ってのは面白いなぁって思いました。
 いつの日か、『雰囲気』と書いて「ふいんき」と読むのが当たり前になる日が来るかもしれませんね、って、さすがにそれはないか。笑。
 
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正義警官モンジュ、三巻。

2006-10-22 13:37:26 | 漫画・アニメ
 宮下裕樹作、サンデーGXコミックス『正義警官モンジュ』、三巻購入。

 自分の笑いの感覚が一般のそれとズレてるんじゃないかと思うことがしばしばあって、例えば『エンタの神様』とか見ててもちっとも面白くない。あの番組を見て、一時間笑うなよ、といわれても超楽勝だ。
 じゃ何でそんな笑えもしないお笑い番組を見てたのかというと単純に『マイボス☆マイヒーロー』を見てたので、その続きで惰性で見てたのだ。『たった一つの恋』は見てないから、たぶん『エンタの神様』も見ないだろう。
 それにしても今さらながらではあるが『マイボス☆マイヒーロー』は『ごくせん』にくりそつだよな、と思う。単純に、主人公の性別が男から女に、先生だったのが生徒に代わっただけじゃん、って思う。といっても主人公が表向き真っ当な市民のように見えて実はヤクザ(の跡取だったり、若頭)だったりする映画やドラマは昔からあるので、『マイボス☆マイヒーロー』は『ごくせん』にくりそつなのがいけないというわけではない。(『マイボス☆マイヒーロー』は元々韓国の映画が原作。)
 で、今度は『セーラー服と機関銃』である。メガネっ子女子高生がヤクザの組長になっちゃったら、というお話。まぁ新味は無いけど、だからこそのお約束って感じで面白い。
 ところで『セーラー服と機関銃』の主題歌といえばいわずとしれた“さよならは別れの言葉じゃなくて♪”というフレーズで有名な『セーラー服と機関銃』であるわけなのだけれど、あの歌、よくよく聴いてみると実は男の歌であることはご存じだろうか。
 どういうことかというと“愛した男たちを思い出に変えて~”“僕のことを思い出すがいい~”という歌詞なのであるから、自分の元を去って行った(恋多き女である)彼女のことを未練たらしくうじうじと思い出している男の歌なのである。ついでにいうと思い出すがいい、などとアンタ何様?的なことをいっているので、この男、相当なナルシストでもある。
 さらに純粋にこの歌詞を詩として評価すると「思い出に変えて」「思い出すがいい」と重複しているのでお世辞にも上手とはいえないと思う。まるで“愛は今も愛のままで”の福山雅治レヴェルだ。でも必ずしも上手い詩と世間的に受けがいい詩とはイコールではないのだけれど。
 福山雅治といって思い出すのが木村拓哉だ。何でも木村拓哉は雑誌「アンアン」の【好きな男性】部門で十三連覇を果たしたのだそうだ。素直におめでとう、といいたい。なぜならこんなアンケートでキムタクを支持するような女性には自分は興味がないからだ。自分にとってキムタクはいつまでたっても特攻部隊の映画で一人だけ髪がロン毛の男、である。このまま是非とも五十連覇ぐらいはして欲しいものである。
 ところで雑誌「アンアン」なのだけれど、実はこの雑誌名、パンダの「アンアン」に由来するということ調べて初めて知った。こちら。つまり雑誌「アンアン」は雑誌「フェイフェイ」とか雑誌「ユウユウ」とかでもありえたかもしれない、ということである。いや、ないだろう。
 そういえばドラえもんの主題歌でも「アンアン」という歌詞が出てくる。なので、“アンアンアン、とっても感じるドラえもん♪”などと勝手に替え歌を作っていたらドラえもん好きな友人に怒られたことがある。
 そんなドラえもんに似たところのあるモンジュは面白い。
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スネーク・フライト。

2006-10-21 23:49:52 | 新作映画
 サミュエル・L・ジャクソン主演、『スネーク・フライト』、ワーナー・マイカル・シネマズ上峰にて鑑賞。

 人類がこの地球上に誕生して以来、一体幾つの暗殺手段が取られてきたのかは無論知りはしないが、おそらくこれほど非効率的なものもなかったであろう、そう断言できる。
 何しろ映画『スネーク・フライト』で一人の証人を消すために犯罪組織が取った手段は、ジャンボジェット機に数千匹の(ラリった)ヘビを解き放つ、というものだから、何とも馬鹿馬鹿しい。
 暗殺手段が非効率的だ、と書いたが、その非効率さが並みではない。ハワイからロサンゼルスへ向かう飛行機に載せるべく用意したヘビが、なぜだか現地ハワイで調達したものではない。ロサンゼルスで調達したヘビを一旦ハワイに空輸(密輸)して、そこで証人が乗る飛行機を確認してから通常の荷物にカモフラージュして機内に運び込んでいるのだ。何たる非効率さ!(無論それには映画的な理由があってのことだが。)
 馬鹿馬鹿しい映画なので、登場人物も揃いも揃って見事なぐらい馬鹿ばかりである。
 これしかやり方はねぇ!みたいなことを叫ぶ犯罪組織のドン。いやぁ、これ以外にもやり方はいろいろあるでしょ~、と教えてやりたくなったのは自分だけではないはず。
 だがそれに負けないぐらい主人公であるジャクソン扮するフリン捜査官も馬鹿である。飛行機の中にヘビが出没した場合、何は無くとも操縦室を死守する、というのが普通の発想だと思う。実際二度、三度操縦室はヘビに襲撃されているのだし。(そのうちの数回はカーゴへ続く入り口のドアの閉め忘れによる。)
 さらにファーストクラスのキャビンが比較的安全なことがわかったら、その時点で乗客をそちらの方に避難させるのが常識というものだろう。
 だが、我らがフリン捜査官はそんなことは微塵も考えない。考える素振りさえ見せない。理由は簡単、なぜなら馬鹿だから。
 だが暗殺手段が非効率的なのも登場人物が馬鹿なのも、映画的にはきちんとした理由がある。
 まず飛行機に載せるヘビがなぜハワイではなくロサンゼルスで調達されたものなのか、その理由は一つしかない。単純にフライトの目的地であるロサンゼルスに血清が用意されないとお話的にちょっと困るから、である。ハワイからわざわざ血清を取り寄せていたのではさらに乗客の何人かは死んでしまう。散々すでに死にまくってはいるのだが。
 また、犯罪組織のドンや捜査官、それに操縦士など、登場人物が揃いも揃って馬鹿なのは、そっちの方が映画としてのスリルが増すから、である。このうちの一人でも常識的だったらスリルも半減する。というかお話が成り立たない。
 つまり映画『スネーク・フライト』は、常識的にいえばありえねー!の連続なのであるが、一本の映画として観るときわめて正しい作品である、そう断言してよいと思う。
 だから、クライマックスのシーンで操縦室からヘビを駆逐するために取られた手段、あれはどう考えても危険度が高すぎると思うのだが、でも映画としてはこれ以上ないっていうぐらい正しい。正しすぎる。
 一つだけ難をいえば最後のジャンボジェット機がロサンゼルス空港に着陸する際、デブの黒人がこれ以上ないというぐらい見事に機体を操って着陸させ、管制室が拍手喝采、そこでフリン捜査官が、どこでジャンボジェット機の操縦を覚えたんだ?と問い掛けて、デブがニヤリと答える、みたいな展開だとよりよかった。
 ともかく、本作は非常に馬鹿馬鹿しい作品ではあるが、その馬鹿馬鹿しさも決して手抜きのそれではなく、面白いものを作ってやろうぜ!という作り手の本気がうかがえて、個人的に好ましかった。といってもやっぱり他人様に薦められるような作品ではないのだけれど。

 次回鑑賞はジャック・ブラック主演、ジャレッド・ヘス監督、『ナチョ・リブレ 覆面の神様』の予定。
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オータム・ジャンボ、当選!!

2006-10-18 23:58:27 | 日常
 わーい、オータム・ジャンボが当選しました~!!
 と書き出しても、どうせ当選とか言っても末等の七等の三百円でしょ、と思っているそこのあなた!!違いますよ~!!
 何と今回のオータム・ジャンボは七等、六等、五等がいっぺんに当たっちゃいました。
 わーい、めでたい!
 といっても五等もたかが知れてるんだけどね。本当にありがたみがあるのは四等からかなぁ。生活そのものが変えられるのは二等から?
 ま、ともかくこれでしばらくは銀シャリが食べられそーです♪(ってどーゆー暮らしぶりだったんだ。。。)
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ステイ。

2006-10-17 23:31:59 | 新作映画
 マーク・フォースター監督、ユアン・マクレガー主演、『ステイ』、DVDにて鑑賞。

 う~ん、わ゛か゛ん゛ね゛。これが正直な感想。まぁすべては交通事故を起こしたヘンリーが事故を起こしてから亡くなるまでに見た白昼夢だったというオチはわかるんですが(ですよね?それすら違うのかな?)、でも何で死にかけの男がそんなに緻密な夢を見ることが出来るというのか、それすら夢オチなんだから何でもありで納得しなくちゃいけないのか、そこらへんがよくわからない。
 結局この映画は整合性はさておいて、ともかくシュールな体験をしてみたい、という人向けの作品なんだろう。それが目的なら成功しているのかもしれない。
 あと一番わからないのがタイトルの『ステイ』。何で“ステイ”なんだろう?アメリカ本国でのキャッチ・コピーが何でも「You Can't Stay Between the Living and the Dead」らしいんだけど、このコピー自体がかなりネタバレのような気がして、わざわざネタバレに気を使って白文字にしたのが馬鹿馬鹿しくすらなる。まぁ確かに『ステイ』というタイトルなら何となく意味ありげでどのようにも解釈できるから付けたんだろうけれど、でもだからこそ安易なタイトルだなって思ってしまう。同じサイコスリラーなら『アイデンティティー』の方がそれこそタイトルがそのまま作品を表していて秀逸だと思う。
 すべての謎を解くために二度、三度と見返す人もいるかもしれないが、正直自分は一度で充分!って思ってしまった。だって夢オチなら整合性もへったくれもないしね。(あ、白文字にするの忘れた!)
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