この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

おかえりなさい、なかやまこうじくん♪

2024-06-26 20:41:13 | 戯言
 超久しぶりになかやまこうじくんからコメントをもらいました。
 まぁ「なかやまこうじ」と言われてもほとんどの方は知らないと思いますが。
 と言ってる自分もその存在を完全に忘れてましたが。笑。

 なかやまこうじくんとは以前映画『ガタカ』の考察について熱く議論を交わしました。
 ただ、その議論の中で彼が自分のことを受験生だって明かしたんですよ。
 それで、受験生がこんなところでコメントをしている場合じゃないと受験が終わるまで期間限定で出入り禁止にしました。
 この度無事受験が終わり、大学生となったので再び拙ブログにコメントをしに来てくれたというわけです。
 ある意味律儀な人ですよね。笑。

 では今回は特別になかやまこうじくんのコメントを全文掲載します。

 お久しぶりです。
おかげさまであの後、現役で第一志望の大学に入学することができました。新生活の準備や大学生活で忙しくこちらのことなどすっかり忘れてましたが大学の友人とこの映画の話になり思い出しました。せっかくでしたので先週末にもう一度観直してみました。以下回答です。

・「ヒステリー」という言葉に当てはまるかはこの際どうでも良いでしょう。まずあなたがヘアカラー業者なる電話口の相手のやり取りに違和感を覚えた、その根拠としてあなたが示しているのは返品がきかないなどおかしいから。これは本気かと思うくらいに、根拠に乏しいです。またあなたが違和感を持つ→血液や尿を注文している、これも根拠に乏しいです。DNAなど関係ない話と決めつける理由も不明です。

・ヴィンセントがなぜ水泳で勝てたか。これこそこの映画のテーマの1つと考えられる、遺伝子は運命を決めないからです。訓練のランニングの時に奇跡が起きていないかはなんとも言えないですが、表情を変えずに走りきり、周囲に怪しまれずにやらきっているので十分な結果は出しているかと思いますが。奇跡が都合よくおきるかは知りませんw それはなんの話でしょうか?w
水泳ですね、まず子供時代に関してですがアントンが負けるふりをする意味がわからない。30程度までの寿命の兄に同情してわざと水泳を負けたとでも?溺れるふりまでして?なんのために?
ラストの水泳のシーンですが、あなたは本当に直前のやりとりを観てますか?ヴィンセントが縁を切った家族の応援を必要としていますか?誰かに背中を押されないといけないくらい宇宙に行くことに迷っていますか?アントンが、自分が背中を押さないと、と思うような会話をしていますか?結論ありきで仮定して観ることの意味がわかりませんが、一応観てみました。そのようには一切観えません。仮定して観てください、というのはあなが他者を納得させるだけの根拠もロジックもないからです。

全体を通してですが、あなたは自分の考えがロジックに基づいていると繰り返し述べていますが、あなたの解説は少しも論理的ではありません。論理的だ、という以上は他者が納得するだけの根拠と展開が必要です。それがあなたには全くない。ただ自分で論理的な思考をしていると思い込んでいるだけです。「えみあ」さんの発言もその証左でしょう。彼もおそらく私と同様にあなたを論理的な人でないと感じているので、あなたのことを「論理的な人」などと思わずに「自分の価値観を押し付ける人」と解釈しているのです。とても同意です。その他の人のコメントも否定的な意見が多いですね。

言い忘れましたが返信は不要です。
日々忙しくて、今回はたまたま思い出しただけの暇潰しなので、おそらくこちらに返信を確認することはないです。
返信不要とお願いしているえみあさんには無視して返信してますが、私には本当に不要です。お願い申し上げます。


 まず断っておきますが、自分は普段コメントをそのままブログ本文に掲載するようなことはしません(今回で二回目かな?)。
 それが道義的に問題があると思っているわけではないですが、やっぱりされたら嫌だろうなと思うからです。
 ただ、なかやまこうじくんの場合、自分の言いたいことを言うだけ言って、相手の考えを否定し、挑発的な物言いをし、その上で「返信不要」と締めているんですよ。
 そういうのって「あり」なんですかね?
 自分はすごく不愉快ですけどね。
 自分は荒らしから「バカ」と言われても「死ね」と言われても特に何も思うことはありません。
 ふーん、って感じです。
 でも「返信不要」と言われるのはカチンと来ますね。
 申し訳ないけど、自分が返信するかどうかを貴方に制限される云われはないから。
 そんな権利は貴方にはないよ。
 自分は自分が好きなように返信させてもらうから。

 というわけでブログの本文を使って返信させてもらいました。笑。
 ただ、返信はしても反論をするつもりはありません。
 反論をするような内容でもないなと思ったのです。
 反論をしないことで論破したと思いたいなら思ってもらって結構。
 自分は別に考えの違う相手を論破したいと思っているわけではないので。
 考えを問われたから答えただけ。
 自分の言いたいことを一方的に言って「返信不要」で締める、そんな失礼極まりない輩と議論をするつもりはないです。

 でもそれとは別に、映画「ガタカ」を見て感動した人、これから見ようと思っている人に考えて欲しいことがあります。
 それは、もしあなたに生まれつき心臓に重い障害を持つ兄がいたとして、その兄から夜の海での遠泳勝負を挑まれたら、あなたはどうしますか、ということです。
 自分はアホじゃないかってぐらい『ガタカ』の考察文を書いてきて、それに伴って数え切れないぐらいコメントがつきましたが、コメントをつけた人でその単純な問いについて考えた人ってあんまりいないような気がします。
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次の更新は未定です。

2024-04-08 20:54:50 | 戯言
 土曜日に家の固定電話とパソコンが繋がらなくなったことはすでに書きました。
 ただ、日曜日には復旧したので被害はほぼゼロ、せいぜい日曜日に予定していた登山が出来なくなったことぐらいでした。
 とはいえ、被害がほぼゼロであることは最初からわかっていたことではありません。
 土曜日、パソコンがネットに繋がらず、原因がまったくわからない段階ではもう二度とブログの更新は出来ないんじゃないかと悲観していました。
 というのはさすがに大袈裟ですが、少なくともしばらくは更新出来ないだろうと思っていました。
 なので、月曜日、出社したら会社のパソコンからその旨の更新をするつもりでした。
 一応会社のパソコンからでもブログの更新は出来るんですよ。
 長文を執筆する時間はさすがにありませんが。

 自分はもう10年以上毎日記事を更新しています。
 とはいえブログの記事は毎日更新すべきだ、と言っているわけではありません。
 ブログの記事更新のペースは人それぞれで構わないと思っています。
 無理に更新ペースを上げる必要はまったくないです。
 無理は禁物です。
 ただ、いつものペースでは更新出来ない何かしらの事情が生じたのであれば、その旨きちんと報告するべきだと考えます。
 別に自身の置かれている状況を正直に書く必要はありません(正直に書いてもよい)。
 ともかく、諸事情により、次の更新は未定です、と一言断るべきです。
 だって、一定のペースで記事の更新していたブログが、ある日突然更新を止めたら、読んでる側としてはやっぱり心配してしまうじゃないですか。
 最悪、死んだんじゃないかと思うことさえあります。
 だから一言、次の更新は未定ですと断るべきだと思うのです。

 とはいえ、メンタル的な理由で記事の更新が出来なくなった場合はそこまで気が回らないかもしれません。
 そういう時は記事の更新を再開した時に、ご心配をおかけしました、と一言謝ればよいのです。
 誰かに心配をかけた時は、心配をかけてごめんなさいと謝ることは自分的にはごく当たり前のことなんですけれど。
 でもぶっちゃけ、更新を停止する時も、再開する時も、何の断りもないブログが多いですよね。
 読み手が自分一人だけの私的な日記であればそれで構わないですよ。
 でもブログって私的な日記であると同時に不特定多数の人間が読むことを前提に書かれているものですよね。
 であれば読んでくれる人たちに対してそれぐらいの気遣いを見せることは当然のマナーだと思うのですが、どうでしょうか。
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史上最大の嘘。

2024-04-01 08:30:29 | 戯言
 以前にも書いたことですが、いや、書いてないかもしれませんが(どっちだ?)、史上最大の嘘って何だと思いますか?
 人それぞれ考えは違うかもしれませんが、史上最大の嘘、自分は「嘘は吐いてはいけない」だと思っています。
 「嘘は吐いてはいけない」、よく言われますが、よくよく考えるとどんな時でもそうだってことはないですよね。
 例えば、癌で入院している叔父さんの見舞いに行ったら、叔父さんの顔色が今にも死んじゃうんじゃないかと思うぐらい悪かったとします。
 そういう時、正直に「叔父さん、顔色が悪いですね。今にも死んじゃうんじゃないですか」って言っていいんでしょうか。
 言うまでもなく、ダメですよね。
 そういう時は、「叔父さん、案外元気そうですね。ホッとしました」と嘘を吐くべきではないでしょうか。
 それが人としての優しさであり、思いやりだと思うのです。

 今のは極端な例ですが、ともかく嘘を吐いていいかどうか、嘘を吐くべきなのかどうかは時と場合に寄りますよね。
 いつ如何なる時も正直であればよい、などということはないと思います。
 時にはその正直さが人をひどく傷つけることもありますから。

 思うに、大人になるということはどういう時に嘘を吐くべきなのか、その判断がつくようになることじゃないでしょうか。
 平気で人を傷つける嘘を吐く奴、逆に正論を振りかざして自分の正義を押し付けようとする奴、どちらも年齢がいくつだろうと大人とは言えないですよね。

 などと如何にも良さげなことを言ったりしてますが、自分は普段からそういうことを考えているわけではありません。
 どちらかというと考えてないことの方が多いかな…。

 普段は1000字(以上)を目途に記事を更新していますが、今日は早めに手仕舞いしたいと思います。
 昔から言うじゃないですか、嘘800(字)って。
 お後がよろしいようで。。。
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素直に「おめでとう」と言えない。

2024-03-26 21:17:07 | 戯言
 そろそろすべての大学で合否判定が出た頃ではないでしょうか。
 希望校に合格された皆さん、おめでとうございます。
 ただ、これは以前から言っていることなのですが、大学に受かったからといってバラ色の人生が約束されるわけではないし、逆に大学に落ちたからといってそれで人生が終わりということもありません。
 すべてはそれからだと思います。
 などと正論を振りかざせるのは自分にとって大学受験が遠い過去の出来事になったからかもしれません。

 甥っ子の多一郎が都内にある私大のM大学に受験し、合格、春から通うことになりました。
 ただ、いくつか問題があって。
 まず、多一郎は一浪してるんですよ。
 しかも現役の時、九州のS大に受かったのを蹴って浪人してるんです。
 M大がレベルの低い大学だと言っているのではありませんが、S大を蹴って浪人して、それで行くのがM大というのは、たぶん誰が聞いても「?」と首をかしげるのではないでしょうか。
 それなら現役でS大に行ってたらよかったのでは…。
 結局第一志望の大学に受からなかったから(滑り止めで受けた)M大学に行くことにしたみたいです。

 で、明日、多一郎の合格祝いの食事会があります。
 どんな顔をして会えばいいのかがわかりません。
 「大学合格、おめでとう!」と言っていいんですかね?
 行きたかった大学に落ちて、滑り止めで受けた大学に行くことになったのに。
 めでたくも何ともないだろうに「おめでとう」と言ってよいものかどうか。

 さらに明日は姪っ子のメイ子の再就職祝いでもあるのです。
 メイ子は以前うちから車で10分ほどの距離にある食品工場に勤め、そこの寮に住んでいました。
 二年近く働いていたのかな、24時間三交代のシフトがきつく、またパワハラなどもあったようで、この春、めでたく退社、再就職の運びとなりました。
 これまた素直に「再就職、おめでとう!」と言っていいものかどうか、悩みどころです。
 とりあえずメイ子が寮に住んでいたころは振り回されるだけ振り回されていたので(こちら)、彼女が実家に戻ると聞いてほっと一安心しています。

 「おめでとう」と祝ってよいものかどうか、と書きましたが、祝い金は渡さなくちゃいけないので、多一郎の合格祝いに3万円、メイ子の再就職祝いに1万円包みました。

   

 二人にとって良い門出になればいいのですが、さて…。
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不愉快にもほどがある!

2024-03-25 22:32:56 | 戯言
 先日の記事で、当ブログは日本一長い間毎日記事を更新しているブログであり、日本一映画『ガタカ』の考察記事を掲載しているブログかもしれないと書きました。

 ついでだからもう一つ日本一を挙げておくと、当ブログは日本一荒らしに寛容であるブログかもしれません。
 何しろブログ開設以来、荒らしコメントを一度も削除したことがないですからね。
 いや、一度も削除したことがないというのは言い過ぎでした。
 一つの記事に50ぐらい荒らしコメントがついた時は一般のコメントがあまりにも後ろに追いやられるので、仕方なく重複したコメントや、意味のないコメントは削除しました。
 それぐらいかな。

 荒らしに寛容であるという言い方にも語弊がありました。
 自分は荒らしコメントに対してフツーに言い返してますからね。
 世の中には荒らしは徹底的に無視すべし、という指針のブログもあるようですが、自分は某テレビドラマよろしく荒らしコメントには三倍返しで言い返しています。
 例えば「死ね」というコメントがついた時には、「見ず知らずの人間に「死ね」というからにはあなた自身が生きる価値がある人間だと証明する必要があるかと思います。どうせあなたなんてバイトから帰ってきて他にやることもなく、ネットサーフィンをして、匿名であることをいいことに気に入らないブログに言いたいことを言っているだけでしょう?そんな人間に果たして生きる価値があると思いますか?」などとレスしています。
 やべぇ、言い過ぎた、と反省することもしばしばです。
 加減をするのが難しいです。

 ともかく自分は荒らしコメントで傷ついたり、落ち込んだり、腹が立ったりしたことがありません。
 なぜ自分が荒らしコメントを受け流せるかというと、理由は主に二つあります。
 一つは自分は言葉には正しいか正しくないかとは別に、重いか、軽いかがあると考えています。
 自分にとって荒らしの言葉は限りなく軽いのです。
 心に届かないんですよね。
 だから、荒らしの言葉に心が傷つくこともないのです。

 そしてもう一つは、荒らしの言葉がどれほど不愉快だったとしても、現実世界の不愉快さに比べたら全然大したことがないからです。
 自分は会社の倉庫の管理責任者をしています。
 管理責任者というと聞こえはいいですが、要は雑用係です。
 そして倉庫の清掃も自分の仕事の一つです。
 それでですね、倉庫でゴミをポイ捨てする奴がいるんですよ。
 自分が何度注意してもそいつは聞く耳は持ちません。
 堪忍袋の緒が切れて、そいつがポイ捨てしたゴミをそいつの商品棚と壁との隙間に捨て直すことにしました。
 最初のうちは目立たなかったゴミも次第と溜まっていき、そのうち隙間から溢れんばかりになりました。
 フツー、そこまでなったら、ポイ捨てするのを止めますよね?
 でもそいつはポイ捨てを止めないんですよ。
 正直、怖くなりました。
 最終的に上司に見つかり、どういうことなのかと質され、正直に答えました。
 自分は上司から注意されましたが、そいつも注意されました。
 そいつはポイ捨てを止めたのか。
 止めないんですよ、やっぱり。
 自分がそいつのことを不愉快に思ったら、自分の器が小さいんですかね?
 そいつの存在の不愉快さに比べたら、ネットで見ず知らずの人間から「死ね」と言われることなんて本当に全然大したことがないです。
 自分もネットの荒らしコメントに落ち込んだり、傷ついたりできるぐらいに、現実世界の不愉快さが無くなればいいなと思わずにはいられません。
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あなたのことなんて大嫌い!顔も見たくない!と言ったからといって嫌いだとは限らない。

2024-03-23 20:23:15 | 戯言
 ここだけの話、当ブログは10年以上毎日記事を更新しています。
 もしかしたら日本一長く毎日記事を更新しているブログかもしれない、なんて思うこともあります。
 まぁ世の中には「ふっふっふ、ワシは50年以上毎日ブログを更新しているがのう」なんていう妖怪じみたブロガーさんもいるかもしれませんが。笑。

 それとは別にまず間違いなく日本一だろうと思っているのが映画『ガタカ』の考察記事数の多さです。
 どれぐらいあるのか、書いた本人もわからないぐらいです。
 なぜそんなに『ガタカ』の考察記事数が多いのか?
 理由は簡単、自分の考察を支持してくれる、もしくは認めてくれる人がいないからです。
 だからあれこれ手を変え、品を変え、考察しているというわけですね。

 世の中の多くの人は『ガタカ』という映画を「翼を持たぬ主人公が努力の末に翼を得て、本来翼を持つ者しか立つことを許される高みから飛び立ち、大空を自由に飛び回るお話」だと捉えている節があります。
 それだとなぜ主人公を送り出した友人が焼身自殺をしたのか、理由がわかりません。
 焼身自殺をしたのはDNAを採取されないようにするためだとまことしやかに言っている人がいますが、まず焼身自殺をしたからといって必ずしもDNAが採取されないわけではありません。
 焼死体からDNAが採取されることはままあります。
 それを目的として自殺するのであれば、より適した方法がいくらでもあるはずです。
 何より誰に対してDNAを採取されないようにしたというんでしょうか。
 主人公が地球から去った時点で主人公と友人の関係を追及する者は誰もいません。
 存在しない追及者の手から逃れるために命を絶ったとすればこんな馬鹿な話はありません。

 自分は『ガタカ』のことを「翼を持たぬ主人公が翼を持つ者しか立つことを許されぬ高みから飛び立った話」だと思っています。
 翼を持たぬ者が高みから飛び立てばどうなるか、自明ですよね。
 友人が命を絶ったのは、生涯たった一人の親友を死地に送り出したから、そして親友に二度と会うことがないということを知っていたからです。
 自殺の動機としてはお釣りが出るほど充分じゃないでしょうか。

 自分は自分の考察に間違いはないと確信しています。
 支持してくれる人は皆無なのですが…。

 先日久しぶりに『ガタカ』の考察記事の一つにコメントがつきました。
 要約すると「主人公の弟が主人公に対して「不適正者に自分が負けるわけがない」的なことを言っているのだからあなたの考察は間違っているのではないか」というものでした。
 自分はそのコメントを読んで、う~~~んと唸ってしまいました。
 鋭いところを突かれた、と思ったのではありません。
 そこから説明しなくちゃいけないのかと思ったのです。
 確かに主人公の弟は主人公に対してそのような発言をしています。
 自分にとってそのことは主人公の弟がそういった発言をしたというだけであって、それ以上でもそれ以下でもありません。
 しかしコメントされた方は主人公の弟はそういう発言をしたのだから、そう思っているのだ、と捉えているようです。
 いや、それは違うんじゃないかなぁ。
 自分の考察が正しいかどうかはさておき、『ガタカ』に限らず、登場人物がそう言っているのだから、そう思っているのだ、という捉え方はしない方がいいと思います。
 なぜなら言葉と思いは必ずしもイコールではないからです(イコールの場合ももちろんあります)。
 ヒロインが主人公に対して「あなたのことなんて大嫌い!顔も見たくない!」と言ったからといってヒロインが主人公のことを嫌いだとは限らないですよね(『ガタカ』のことではないです)。
 自分にとっては当たり前のことですが、世の中すべての人がそういうわけじゃないということを改めて知らされました。

 今自分が述べたことはこちらのネット記事の方がわかりやすいかもしれません(こちら)。
 わかりやすいのと同時に辛辣な口調で書かれていますが…。
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なぜ自殺をしてはいけないのか?

2024-02-17 23:04:53 | 戯言
 昨日の記事の続き、セットのようなものです。

 実は、ってほどのことではないですが、当ブログでは過去にも「なぜ自殺をしてはいけないのか?」をテーマに記事を書いたことがあります(こちら)。
 その時書いたことと重複しますが、自殺をしてはいけない理由なんてものは個人レベルではないんですよ(あれば教えて!)。
 なぜなら、私たちは未だに「死」を定義することが出来ていないからです。
 それが永遠の別れなのか、別れは一時的なものなのか、救済なのか、断罪なのか、まったくわかっていません。
 また死後の世界が存在するかどうかもわかってないですよね。
 もしかしたら死後の世界は自殺をした人が「もっと早く死んでおけばよかった!」と思うような、文字通り「パラダイス」みたいな場所かもしれません。
 死後の世界が「パラダイス」だとしたら、「自殺をしてはいけない」というのは明らかにおかしいですよね。

 断っておきますが、自分がそう考えているわけではないですよ。
 自分は物事を悲観的に考えるたちなので、生きている間思うがままにならなかったのであれば、それは死後の世界においても同様であろう、死後の世界がパラダイスであるわけがない、そう考えています。
 でもそれは自分がそう考えているだけであって、死後の世界はパラダイスに違いないと思い込んでいる人に、そんなことはありえないと否定するほどの根拠を持ち合わせてはいるわけではありません〈おそらく誰もそんなものは持っていない)。
 特に根拠があるわけでもないのに、他人の行動や思想を否定していいのか、そう考えてしまいます。

 先ほど、自殺をしてはいけない理由なんてものは個人レベルではないと述べました。
 ただし、個人レベルではなくても、社会レベルではあります。
 自殺者が多い社会は当然生産性が低いですし、そもそも自殺者が多い社会は維持していくこと自体が困難です。
 ですから、自殺をしてはいけない理由を強いて挙げるとすれば、自殺者が多いと社会を維持していくことが困難だから、ということになります。
 
 為政者は社会を維持し、発展させるために、自殺者を減らす、つまり、人々が希望を持って生きていける社会を作る義務があります。
 それに成功すれば自殺者は減り、失敗すれば増える、それだけの話なのです。
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とりあえず山に登れ!

2024-02-16 21:26:11 | 戯言
 著名人の方が自殺すると、そのことを取り扱った記事では記事の最後に【命の電話】が紹介されていることが多いですね。
 【命の電話】、「死にたい」と思うことも最近はないので(最近?)かけたことはありませんが、その電話でどんな話をするのか、カウンセラーの方がどんな言葉をかけてくれるのかは興味があります。
 やっぱり、「生きてさえいればいいことがある」的な言葉ですかね?
 「生きてさえいればいいことがある」というのは無責任で中身のない言葉だと思います。
 経験上言わせてもらうと、生きているだけで、つまり、部屋に引きこもって誰とも会うことなく、ひたすらパソコンのキーボードを叩いているだけでは「いいこと」が向こうから転がり込んでくるなんてこと、ありえないですから。
 相手のことを心から心配し、徹底的に面倒を見る覚悟があれば話は別ですが、その場しのぎに「生きてさえいればいいことがある」というのはどうかって思いますね。
 それとも「残された人が悲しむからじ死んではいけない」的な言葉でしょうか。
 申し訳ないですけど、この言葉が一番腹が立ちますね。
 「残された人が悲しむから死んではいけない」というのは、言い換えれば「悲しむ人がいない人は死んでも構わない」ってことじゃないですか(自分にはそう聞こえます)。
 見ず知らずの人に「死ね」と言われても特に思うことはありませんが、誰かが「残された人が貸しむから死んではいけない」と言っているのを聞くたびに、そうか、自分は生きていても仕方のない人間なのだなと気持ちがどんよりして生きる気力が削られます。
 
 自分がもし「死にたい」という人に出会ったとしても自殺を止めるようなことはしないと思います。
 その人も理由もなく死にたいわけではないでしょうからね。
 ただ、その人の「死にたい」が本当の「死にたい」なのか、それとも一時的な気の迷いなのか、それを見極める必要はあるかと思っています。
 ビルから飛び降りたはいいが、やべっ、ほんとに死にたいわけじゃなかった!と気づいても後の祭りですから。

 自分がもし「死にたい」という人に出会ったら、「とりあえず山に登れ!」って言いますね。
 山に登って頂上まで行け、と言います。
 自分は「生きる」というのは単に「生きている」だけではダメだと思っています。
 明日はこうしよう、将来はこうありたい、そういった希望を抱いて生きることが本当の「生きる」だと思うのです。
 美味しいものを食べて美味しいと思い、本を読んだり、映画を観たりして感動する、涙を流し、喜び、時に怒り、悲しむ、それが「生きる」ってことなんじゃないでしょうか。
 心が死んでいたら、生きていても仕方がないって思いますね。
 だから前述の「山に登れ」は「本を読め」でも「映画を観ろ」でも構わないのですが、本や映画って駄作である確率も低くはないので(というか高い)、「死にたい」という人に薦めるのはちょっと怖いです。

 その点登山は、頂上まで登って、遠くの景色を眺めたら、(高確率で)心が揺り動かされると思うのです。
 もし心が揺り動かされるようであったら、その人の「死にたい」は本当の「死にたい」じゃない。
 だったら生きればいいのに、って思います。

 ちなみに自分は先日黒髪山に登った時、山頂ではあまりにきつすぎて、「きつい」しか感想はなかったですけどね。
 自分も存外心が死んでいるのかもしれません。笑。
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奴らを高く吊るせ!

2024-02-15 20:56:23 | 戯言
 Amazonマーケットプレイスに注文していたトレッキングポールが本日無事到着しました。

   

 何やかやありましたが、届いた品物はすごく良さげです(実際の登山ではまだ使用してないので最終的な判断は下せませんが)。
 3月17日に大分の「高平山」と「猫ヶ岩山」に登る予定なので、その時が実戦デビューですね。
 今から楽しみです。

 話はころっと変わりますが、原作者の自殺という最悪の結果を招いた『セクシー田中さん』の脚本トラブル問題はまだ尾を引きそうですね。
 自分はこちらこちらで意見を述べているので、もういいかと思っていたのですが、気になることがあるのでもう少しだけ自分の考えを述べたいと思います。

 これまで述べたことを改めて書くと、まず脚本家の相沢友子氏に非はないということです。
 『セクシー田中さん』のように、1話目から8話目までの脚本を担当し、残り2話に関してはノータッチというような、特殊なかかわり方をした場合、その作品が絶賛であれ、酷評であれ、どのような評価をされたとしても、自分がどのようなかかわり方をしたのか、自らのの立ち位置をはっきりさせておきたいと思うことは、クリエーターとして、それ以前に人として、当然のことだと思います。
 ドラマのプロデューサーはある程度責任があるでしょうね。
 彼は原作者の芦原さんの出した「必ず漫画に忠実に」といった条件を安請け合いしてしまった。
 結果から言えばそうするべきではなかった。
 ただ、プロデューサーを擁護するわけではないですが、彼をそこまで責めることは出来ないと思います。
 プロデューサーにしても、別に原作にまったく忠実でないドラマを作ろうとしたわけではないと思うのです。
 忠実の度合いが原作者と大きく異なっていたというだけで。
 結局、原作に忠実であるかどうかといった、個人によって判断が異なることを条件に出した芦原さんにも落ち度があったと自分は考えます。
 今後、原作者が自作の実写化に際して条件を出す場合、抽象的で曖昧な表現は避け、具体的でわかりやすいものにする必要があるでしょう。

 今回の件が切っ掛けになって、原作者とドラマの制作者が対等な関係になり、より良い実写化作品が生み出されたらいいなと自分は考えます。
 特定の個人が必要以上に責められるようなことがあってはならない、そう思います。

 しかし、そう考えるのはごく少数派のようで、今も脚本家とプロデューサーに対する激しいバッシングがネットでは見受けられます。
 まるで、奴らを高く吊るせ、とでも言っているかのようです。
 彼らをバッシングしている人たちに問いたいのですが、もし脚本家の相沢氏が今回の件で絶望し、芦原さんに続いて自らの命を絶ったとしたら、どうしますか?
 ざまーみろ、と快哉を叫びますか?
 それとも(バッシングすることで)まさか命を絶つとは思わなかったと言い訳をするつもりですか?
 もし、まさか命を絶つとは思わなかったという言い訳で免責されるのであれば、相沢氏やプロデューサーだって自分たちの行動や発言でまさか原作者が自殺するとは思ってなかったでしょうから、同様に免責されるべきではないでしょうか。

 原作者とドラマの制作者が対等な関係になればいいなとは思いますが、そのために誰かが犠牲になる必要はない、そう思うのです。
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実写化作品は原作に忠実であるべし。

2024-02-03 20:17:54 | 戯言
 漫画家の芦原妃名子さんが自殺された件はまだ尾を引きそうですね。
 それだけ根が深い問題だということでしょう。

 芦原さんは『セクシー田中さん』ドラマ化に際し、「必ず漫画に忠実に」という条件を出したそうです。
 正直、自分はそれってどうなのかって思いますね。
 まず、二次元の作品を三次元に起こすとすればどうしたって忠実でない部分が生じるはずです。
 現在公開中の映画『ゴールデンカムイ』は世評もよく、自分も面白いと思いましたが、100%原作に忠実化というとそういうわけでもないようです。
 ヒロインの少女アシㇼパは原作では10代前半という設定ですが、映画では23歳の山田杏奈が演じています。
 もし実写化作品は原作に忠実でなければいけないというなら、アシㇼパはもっと若い女優が演じなければいけないはずです。
 三次元に起こすときに忠実でない部分が生じる件は置いておくとしても、忠実であるかどうかの判断は誰がするのでしょうか。
 100人が見て、そのうち50人以上が原作に忠実だと判断すれば、その実写化作品は原作に忠実だと言えるのか。 
 もしくは100人のうち99人が忠実でないと判断しても原作者一人が忠実であると認めたら、その実写化作品は原作に忠実なのか。
 原作に忠実であるかどうかの基準はあまりに曖昧です。
 実写化作品においては原作、及び原作者へのリスペクトが不可欠だ、といった事柄も同様に基準は曖昧です。
 リスペクトしているかどうかは誰が、どこで判断すればよいのでしょうか。
 読心術でもない限り、リスペクトしているかどうかなんて誰にもわからないことだと思いますが。

 断っておきますが、自分は何も実写化作品は原作に忠実である必要はないと言っているわけではありません。
 また、原作、及び原作者へのリスペクトは不要だとも言っていません。
 自分はドラマ化の契約に際し、基準が曖昧なものは避け、具体的でわかりやすいものでないといけないと言っているのです。

 芦原さんはドラマ制作のスタート後、「性被害未遂・アフターピル・男性の生きづらさ」など作品の核となる部分がドラマで描かれていない理由についてプロデューサーに訊ねたが、納得のいく返事はもらえなかったそうです。
 自分が作品で訴えたいことが描かれていなかったら、その理由を尋ねたいと思うのは当然です。
 ただそれは、ドラマ制作がスタートする前に訊くべきことだったのではないでしょうか。
 ドラマの中でアフターピルのエピソードがきちんと描かれるのか、事前に訊いていたら、このように問題がこじれることはなかったと思います。

 漫画が実写化される際、原作者の権利は非常に弱いと聞きます。
 でもそれはおかしな話です。
 どのような漫画であれ、原作者がゴーサインを出さなければ実写化はされないはずですから。
 原作者は自作の実写化においてもっと強い態度で臨んでよいと思います。
 そのためにはきちんとした契約書が必要ですよね。
 その契約書には曖昧な基準、曖昧な表現は避け、出来るだけ具体的に、こと細かく条件を提示するべきでしょう。
 そうすることで原作者と制作サイドが対等な関係になり、より良い作品が生み出せるものと自分は信じています。
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