♯プロローグ:中学2年の頃の私は本当にどうしようもなく莫迦だった。
*
中学2年の頃の私は本当にどうしようもなく莫迦だった。
通知表には1と2の数字が並び、学期テストの成績は学年最下位が定位置で、授業中教師に当てられることもほとんどなく、稀にあったとしても私はそれをへらへらと笑ってやり過ごした。
私が莫迦なのは、自分が莫迦であることを家が貧乏であるせいにしていたことだ。周りの同級生は塾に通っているのが当たり前で、家庭教師を雇っている者も珍しくなかった。だから、家が貧乏で塾に通うことが出来ない自分が莫迦なのは仕方がない、そんなふうに考えていた。
本当に莫迦としか言いようがない。
家が貧乏で、頭は恐ろしく悪くて、大して可愛いというわけでもなく、これといった特技もない、そんな私はイジメの対象となったとしても何ら不思議はなかったのだけれど、そうならずに済んだのは偏に「イジメなんてくだらないことをする奴は僕が許さないからな!」というオーラを発した男の子がクラスにいたからだった。
彼の名前は武上一樹といった。
武上君は、容姿端麗、成績優秀、運動神経は抜群、おまけに性格もよくて、私みたいな莫迦な子も他の子と同様に何ら分け隔てなく接してくれた。
そんな武上君はクラスのリーダー的存在で、かつ学年一の人気者でもあった。
武上君に憧れる女の子は多く、彼の周りにはいつも取り巻きの子たちが絶えなかった。私はただ遠くから眺めているだけだった。
ある日の放課後のこと、教室の窓際の席に腰かけ一人頬杖をついている武上君を見つけた。
私から話しかけたのか、武上君から話しかけてくれたのかは覚えていない。私にそんな勇気があるとも思えないから、きっと彼から話しかけてくれたんだろうと思う。
彼は話も巧かった。私の言葉におだやかな笑みを浮かべ、相槌を打ってくれた。どんな話をしたのか、舞い上がっていたのでよく覚えていない。神様、ありがとう!私は生まれて初めて神様に感謝をした。この時間が永遠に続けはいいのに、そんなふうに思ったりもした。
その言葉に深い意味はなかった。当時の私にとって口癖のようなものだったから、深く考えることもなく、その言葉を口にした。
私って莫迦だから。
深い意味なんてなかった。太陽が東から昇って西に沈むのと同様、私が莫迦であることは私にとって永遠の真理だった。そのことを疑ったこともなかった。
だが、その言葉を耳にして、武上君の顔から笑みが消えた。
「あのさ」
武上君が改まって言った。
「早宮さんのことを他の人が何て言ってるか、そんなことは知らないよ。でも、自分で自分のことを莫迦だなんて言って、それでどうするの?何か変わるの?」
彼は椅子から立ち上がり、私の傍を離れ、教室のドアのところまで行って一度だけ振り返った。
「ろくに努力もしないくせに自分のことを莫迦だなんて言ってる人、僕は嫌いだな。早宮さんも少しは勉強したら?そしたら世界も変わるんじゃない?」
夕暮れの教室に私は一人取り残された。
翌日、学校に行くのが怖かった。
あの武上君に嫌われてしまったのだ。これまでどうにか平穏無事に学校生活を過ごせたのは武上君の加護があったおかげだ。それが無くなる以上、これからは想像を絶するようなイジメに合うに違いない、そんなふうに思っていた。
朝のホームルームの時間に、担任の教師が思いがけぬことを言った。
「このクラスの武上一樹君がお父さんの仕事の関係で今度引っ越すことになりました」
教師に前に呼ばれ、武上君がお別れの挨拶をした。
これまでこのクラスで過ごせて本当に楽しかったです。いつまでも僕のことを忘れないでください…。
クラスの女の子のほとんどは泣いていたと思う。でも私は泣かなかった。泣いている場合じゃなかった。
彼の昨日の言葉を思い出す。
自分で自分のことを莫迦だなんて言って、それでどうするの?何か変わるの?早宮さんも少しは勉強したら?そしたら世界も変わるんじゃない?
そのときになってようやくわかった。
彼は私をいじめようと思ってあんな言葉を吐いたんじゃない。彼は私のために本気で腹を立ててくれたのだ。母親からは何一つ期待されず、教師は匙を投げ、私自身すべてを諦めていたというのに、彼だけが唯一、そんな私を見て歯痒く思い、腹を立ててくれた。
彼にいじめられるかもしれない、そんなふうに思った自分を私は恥じた。
次の日から私は勉強を始めた。
最初の頃は何もかもがわからなかった。九九も満足に言えず、漢字は右と左のどちらが右を指し、どちらが左を指すのかすらわからなかった。
突然勉強を始めた私はクラスメイトの嘲笑の的となった。イジメにも合った。ひどいことも言われた。
けれどそれも当然だった。何しろ学年で最も莫迦な生徒が何を血迷ったのか、突然勉強を始めたのだから、物笑いの種になったとしても仕方がない。
だが私はそれを気にしなかった。
私が莫迦だと思われたくない相手は世界で唯一人しかいなかった。
勉強を始めたころは何もかもわからなかった。だが、やがて何がわからないのかがわかるようになった。少しずつ、ほんの少しずつ、一日ごとにわかることが増えていった。
彼の言う通りだった。
勉強を始めて、世界は少しずつ変わっていった。世界は驚きと喜びに満ちていた。昔の私はそのことに気づこうとしなかったのだ。
学期テストの成績も少しずつ上がっていった。通知表に1と2が並ぶこともなくなった。授業中当てられても臆することもなくなった。
すべては武上君のおかげだった。
いつか彼に会えたらありがとうって感謝の気持ちを伝えたい。
第一話には続きません。
*
中学2年の頃の私は本当にどうしようもなく莫迦だった。
通知表には1と2の数字が並び、学期テストの成績は学年最下位が定位置で、授業中教師に当てられることもほとんどなく、稀にあったとしても私はそれをへらへらと笑ってやり過ごした。
私が莫迦なのは、自分が莫迦であることを家が貧乏であるせいにしていたことだ。周りの同級生は塾に通っているのが当たり前で、家庭教師を雇っている者も珍しくなかった。だから、家が貧乏で塾に通うことが出来ない自分が莫迦なのは仕方がない、そんなふうに考えていた。
本当に莫迦としか言いようがない。
家が貧乏で、頭は恐ろしく悪くて、大して可愛いというわけでもなく、これといった特技もない、そんな私はイジメの対象となったとしても何ら不思議はなかったのだけれど、そうならずに済んだのは偏に「イジメなんてくだらないことをする奴は僕が許さないからな!」というオーラを発した男の子がクラスにいたからだった。
彼の名前は武上一樹といった。
武上君は、容姿端麗、成績優秀、運動神経は抜群、おまけに性格もよくて、私みたいな莫迦な子も他の子と同様に何ら分け隔てなく接してくれた。
そんな武上君はクラスのリーダー的存在で、かつ学年一の人気者でもあった。
武上君に憧れる女の子は多く、彼の周りにはいつも取り巻きの子たちが絶えなかった。私はただ遠くから眺めているだけだった。
ある日の放課後のこと、教室の窓際の席に腰かけ一人頬杖をついている武上君を見つけた。
私から話しかけたのか、武上君から話しかけてくれたのかは覚えていない。私にそんな勇気があるとも思えないから、きっと彼から話しかけてくれたんだろうと思う。
彼は話も巧かった。私の言葉におだやかな笑みを浮かべ、相槌を打ってくれた。どんな話をしたのか、舞い上がっていたのでよく覚えていない。神様、ありがとう!私は生まれて初めて神様に感謝をした。この時間が永遠に続けはいいのに、そんなふうに思ったりもした。
その言葉に深い意味はなかった。当時の私にとって口癖のようなものだったから、深く考えることもなく、その言葉を口にした。
私って莫迦だから。
深い意味なんてなかった。太陽が東から昇って西に沈むのと同様、私が莫迦であることは私にとって永遠の真理だった。そのことを疑ったこともなかった。
だが、その言葉を耳にして、武上君の顔から笑みが消えた。
「あのさ」
武上君が改まって言った。
「早宮さんのことを他の人が何て言ってるか、そんなことは知らないよ。でも、自分で自分のことを莫迦だなんて言って、それでどうするの?何か変わるの?」
彼は椅子から立ち上がり、私の傍を離れ、教室のドアのところまで行って一度だけ振り返った。
「ろくに努力もしないくせに自分のことを莫迦だなんて言ってる人、僕は嫌いだな。早宮さんも少しは勉強したら?そしたら世界も変わるんじゃない?」
夕暮れの教室に私は一人取り残された。
翌日、学校に行くのが怖かった。
あの武上君に嫌われてしまったのだ。これまでどうにか平穏無事に学校生活を過ごせたのは武上君の加護があったおかげだ。それが無くなる以上、これからは想像を絶するようなイジメに合うに違いない、そんなふうに思っていた。
朝のホームルームの時間に、担任の教師が思いがけぬことを言った。
「このクラスの武上一樹君がお父さんの仕事の関係で今度引っ越すことになりました」
教師に前に呼ばれ、武上君がお別れの挨拶をした。
これまでこのクラスで過ごせて本当に楽しかったです。いつまでも僕のことを忘れないでください…。
クラスの女の子のほとんどは泣いていたと思う。でも私は泣かなかった。泣いている場合じゃなかった。
彼の昨日の言葉を思い出す。
自分で自分のことを莫迦だなんて言って、それでどうするの?何か変わるの?早宮さんも少しは勉強したら?そしたら世界も変わるんじゃない?
そのときになってようやくわかった。
彼は私をいじめようと思ってあんな言葉を吐いたんじゃない。彼は私のために本気で腹を立ててくれたのだ。母親からは何一つ期待されず、教師は匙を投げ、私自身すべてを諦めていたというのに、彼だけが唯一、そんな私を見て歯痒く思い、腹を立ててくれた。
彼にいじめられるかもしれない、そんなふうに思った自分を私は恥じた。
次の日から私は勉強を始めた。
最初の頃は何もかもがわからなかった。九九も満足に言えず、漢字は右と左のどちらが右を指し、どちらが左を指すのかすらわからなかった。
突然勉強を始めた私はクラスメイトの嘲笑の的となった。イジメにも合った。ひどいことも言われた。
けれどそれも当然だった。何しろ学年で最も莫迦な生徒が何を血迷ったのか、突然勉強を始めたのだから、物笑いの種になったとしても仕方がない。
だが私はそれを気にしなかった。
私が莫迦だと思われたくない相手は世界で唯一人しかいなかった。
勉強を始めたころは何もかもわからなかった。だが、やがて何がわからないのかがわかるようになった。少しずつ、ほんの少しずつ、一日ごとにわかることが増えていった。
彼の言う通りだった。
勉強を始めて、世界は少しずつ変わっていった。世界は驚きと喜びに満ちていた。昔の私はそのことに気づこうとしなかったのだ。
学期テストの成績も少しずつ上がっていった。通知表に1と2が並ぶこともなくなった。授業中当てられても臆することもなくなった。
すべては武上君のおかげだった。
いつか彼に会えたらありがとうって感謝の気持ちを伝えたい。
第一話には続きません。