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この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

過去作掲載のお知らせ、その2。

2025-04-04 22:21:17 | ショートショート
 ハワイからは昨日無事に帰国しました(正確には帰国したのは一昨日ですが)。
 ハワイ旅行記は明日からでもぼちぼちアップしようかと思っていますが、今日までは過去作掲載、及びその解説にて対応させていただきます。
 以下簡単な解説です。

 4/1『私の中の七人の私』
 ものすごく長いお話のダイジェスト版みたいなショートショートです。
 本当だったら主人公の「私」はいろんな冒険をするのですが、それについては割愛。

 4/2『テッド・ザ・フォーエバー』
 昔、見た目はテディベア、中身はオッサンの「テッド」というぬいぐるみが主人公の映画があったのですが、その映画が公開される際、「テッド」のショートストーリーを募集する企画がありました。
 この『テッド・ザ・フォーエバー』はその時応募した作品です。
 字数はきっちり守っていたし、出来も悪くはないと思うのですが、箸にも棒にも引っかからなかったですね。
 自分では面白いと思うんだけどなぁ。

 4/3『対決』
 何だかんだ言って自分のショートショートの最高傑作はこの『対決』だと思います。
 最後の一行を読んで最初から読み直すと伏線が張りまくりであることがわかるはず!
 と思うのですが、どうでしょうか?
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対決

2025-04-03 22:48:32 | ショートショート
男は私の顔を見て、ごく人のよさげな笑みを浮かべると、右手を差し出した。
「はじめまして、ジョセフ・コールといいます。お会いできて光栄です、カール・リンツ博士。いえ、リンツ教授とお呼びすべきでしょうか、それともリンツ伯爵と?」
 私の肩書きを一つならず挙げたところをみると私のことはそれなりに調べがついているようだ。
 こちらはといえば心の整理さえろくについていないというのに。
「ただ、教授と」
 それだけをいって彼の右手を握り返そうとして、もし彼が握った手を離そうとしなかったらという理不尽な恐れに囚われ、私は一瞬躊躇した。
「ご心配なく。今の私は無力な子羊にすぎませんよ」
 私の心を見透かしたようにジョセフは穏やかにいった。
 儀礼的な握手を交わしつつ、それはどうだろうかと私は訝しんだ。何しろ彼は二人目の鑑定医の耳朶を噛み千切っているのだから。
 今も彼の両脚は椅子に鎖で繋がれている。
 ジョセフ・コールは殺人者である。
 わかっているだけで十二人の人間の殺害に関与している。その中には彼の妻であるシェリーと一人娘であるリンディも含まれている。
 彼に関して厄介なのは彼には解離性同一障害、いわゆる多重人格の疑いがあるということだ。
 カルテには現在ジョセフ・コールと名乗っている人物には四つの異なる人格が存在すると記されている。
 論戦好きで極めて合理的、かつ冷淡な思考の持ち主であるジョセフ。残忍で粗野で自ら犯してきた行為を喜々としてしゃべるジェフリー。他人に対して盲目的なまでに従順なジェイミー。絶えずブツブツと呟きながら時折悪夢から覚めたように大声で喚くジョニー。
 現行法では精神を病んでいる者を裁くことは出来ない。
 そのため犯罪者が本当に病んでいるのか、それとも巧妙にそれを騙っているのか、見極めることはきわめて重要であり、かつ困難である。
 鑑定医を患者の方から指名するなど聞いたこともない話だ。
 もしそんなことが可能ならば、患者は誰だって自分が懇意にしている医者に鑑定を依頼するだろう。鑑定医の方だって自分の知己を鑑定することになれば、客観的な判断を下せるはずもない。そう、そのようなことはありえないはずだった。
 だが、ジョセフ・コールはその無理を通した。一人目の鑑定医に完璧なまでの黙秘権を行使し、二人目の耳朶を噛み千切り、三人目に私以外の人間が来ることがあれば、その鑑定医を殺すと宣言することによって。
 当局はその脅しに屈してしまったというわけだ。
「どうして私に鑑定の依頼を?」
 当然ともいえる私の質問に、彼は軽口でも叩くような口調で答えた。
「教授の著述に深い感銘を受けましてね」
 ジョセフは二つ、三つ私の書いた本のタイトルを挙げた。
 私の本はお世辞にもベストセラーとはいえない。一般大衆に支持を受けるような内容ではなく、専門家には殊の外評判が悪い。
 私は苦笑しながら尋ねた。
「この道に入って、もう三十年近くになるが、私の本の愛読者に会ったのはこれが初めてだよ。教えてくれないか、どこが面白かった?」
 ジョセフは面白くもなさそうに答えた。
「面白いとはいってません。感銘を受けたと」
「ではどこに感銘を?」
「貴方の本は他の奴らの書いた似非とは違う」
「光栄だ。どう違う?」
 ジョセフはじっと目を細めて、私を見た。
「奴らはただの知ったかぶりだ。外側から眺めて、わかったふりをしているに過ぎない。読んでいて、胸が、ひどくむかつく。反吐が出る」
 一瞬彼の顔が凶悪な殺人鬼のそれに変わる。
「私は違うというのか?」
「えぇ、全然違います」
 ジョセフは打って変わってさもおかしそうに口元を歪めた。
「貴方は内側から物事を見ている。内側からだ。私にはそれがわかる」
 彼は再び針のように目を細め、真顔でこういった。
「教授、貴方は人を殺したことがあるでしょう?」
 面白くもない冗談だった。私は笑おうとして、しかし失敗した。
「何を根拠に…、そんなことを?」
「根拠などありませんよ。そんなものはいらない。なくてもわかる。同じ空気。同じ匂い。そういったものが貴方の書いた文章からはピリピリと感じられるのです。私にはわかります」
 彼の断定的な口調に私はかろうじて反論した。
「愚かな質問だ。仮に、仮にだ、私が人を殺めたことがあるとして、それを君に正直に認めるとでも思うのかね?」
 彼は表情を変えることなく、ただゆっくりと首を振った。
「いえ、教授。しかし考えてみてください、告悔するのに私以上の存在がいるでしょうか。何しろ私は精神異常者ですからね」
 ジョセフは思いがけず優しく微笑んだ。
「牧師は、迷える子羊が打ち明けた懺悔の中身を、茶飲み話のネタの一つとして妻にしゃべる。お上品な奥様は昼間旦那のいない間にベッドの上で口も頭も軽い配管工にそれを伝える。後はもう、ネズミのように噂は広まるばかりだ!誰も止められない。誰も、誰も、誰も、誰もだ!!」
 ジョセフの演説めいた台詞が狭い面会室の中でひどく響いた。私は息苦しさを覚え、ネクタイを緩めた。
「だが私は、少なくとも私には、そんな心配は無用だ。なぜなら私は精神異常者だ。私の言葉はすべて戯言であり、偽りである。誰も私の言葉に真剣に耳を傾けることはない。告悔するのにこれ以上の相手はいないでしょう。違いますか、教授?」
 いつの間にか、私は奴の言葉に聞き入っていた。
「楽になります。例え誰であったとしても、長い間、胸の中にわだかまっていたものを吐き出せば、きっと楽になる」
 ジョセフは囁くように小さな声で繰り返した。
「きっと、楽に、なる」
 ジョセフの言葉はまるで安っぽい麻薬のように心地よく、同時にひどく吐き気を催した。
 まるで悪魔の囁きだ。本当に楽になれるものなら…。だが…。
「人は、過ちを犯す。生きている限り、それこそ数え切れぬほどの。私も罪を犯した。人を殺すのと変わらぬ大罪を犯した。罪人だよ。到底償いきれるものじゃない。だが人は殺していない。嘘じゃない。本当だ」
 ジョセフは私の言葉に落胆したようだったが、不思議とその顔から笑みが消えることはなかった。
「教えてください、教授。貴方の犯した罪とは何です?」
 私はふらふらと立ち上がった。
 これ以上、この部屋にいることも、彼の相手をすることも耐えられそうになかった。
 やはりここに来るのではなかった。
「悪いが、君には言えない、ジョセフ・コール」
 ジョセフは私の言葉に気を悪くする様子もなく、視線を宙に漂わせながら、そうですか、と呟くようにいった。
 ドアのところまでたどり着いてから私は振り返った。
「ジョセフ、君ははじめましてといったが、私はどこかで君に会ったことがあるような気がしてならない。君には覚えがないかね?」
 彼はこちらの方を見ようともせず、首を横に振った。
「いえ、残念ながら」
 そうか、とだけ私はいって、面会室を後にした。

 拘置所から一歩外に出るとそこには妻のエセルがいた。
 妻はどうやって私が今日ここに来ることを知ったというのだろう。
 そのことを尋ねようとして、だが結局彼女の真摯な表情に私は言葉を飲み込んだ。
「あ、貴方…。ジェイミーは、あの子は…」
 エセルのすがるような視線に私は思わず顔を背けた。
「いや、ジェイミーには会えなかったよ」
 私は妻にそう答えた。
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テッド・ザ・フォーエバー

2025-04-02 22:48:30 | ショートショート
 いつかジョンにサヨナラを言わなくちゃいけない日が来るってわかっていたけど、こんなふうにサヨナラするなんて思ってもみなかった。
 今わの際、ジョンは息も絶え絶えになりながら俺を呼んだ。
「テッド、お前にずっと言いたかったことがあるんだ」
 俺は一言も聞き漏らすまいと片方の耳をジョンの口元に出来るだけ寄せた。
「テッド、お前よりも洗剤のCMに出てくるクマの方がずっと可愛い」
 口をあんぐりとさせた俺にジョンはニヤリと笑った。
「冗談だ」
 何だよ、冗談かよ、俺はジョンの肩を叩こうとして、ジョンが息をしていないことに気付いた。
 ジョンは死ぬまで最高の奴だった。いや、死んでも最高の奴だった。
 程なくしてジョンに続いてローリーも死んだ。時々盛大に喧嘩もしたけど、俺は彼女が大好きだった。
 やがてジョンとローリーの子供たちも死んだ。子供たちの子供たちも。みんな死んでいった。気の合う奴もいた。合わない奴も。いい奴も悪い奴も。みんな死んだ。
 最後に人間の顔を見てからどれぐらいたつだろう。よくわからない。
 こんなセンチメンタルな日に聴く音楽は決まっている。ビリー・ジョエルだ。
 誰だよ、ビリー・ジョエルなんておかまが聴く音楽だって言ってるのは!
 俺はビリー・ジョエルが大好きだ。何といっても彼の音楽を聴いているとお尻の穴の周りがムズムズしてくる。あの感覚がたまらない。
 今では音楽を聴くのも大変だ。手回し発電機を三分も回さなくっちゃならないからな。クマのぬいぐるみには重労働だ。
 昔、ローリーから、テッド、もっと静かにしてよ!ってよく叱られたっけ。
 オーケー、ローリー、地球はもう少しでこれ以上ないってぐらいに静かになるから。それまでの我慢だ。
 静かな夜にビリーの歌声だけが響いた。そして俺のお尻の穴がムズムズした。
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私の中の七人の私

2025-04-01 22:48:26 | ショートショート
 私が私の中の七人の私に気づいたのは私がまだごく幼いころのことだった。
 物心ついたときには私の中には七人の私がいて、私は私以外の六人の私と普通におしゃべりをしていた。
 だから幼いころの私は空想好きな子供と思われていた。
 他人の目には見えない誰かといつも楽しげに話をしていたからだ。
 幼稚園ではずいぶんと気味悪がれ、疎まれた。
 そんな私を私の中で一番聡明な(そして口の悪い)ツキコが諌めた。
「バカだね、ツクシって。みんなと同じようにやらないとイジメられるってことがわかんないの?」
 どうしてみんなと同じようにやらなければイジメられるのか、幼稚園児の私にはわからなかったけれど、とにかくそういうものらしかった。
 わからないことは他にもあった。
 私の中には私を含め七人の私がいるのだけれど、他の人はそうでないのだろうか?
 そのことをツキコに尋ねると、ツキコは少し考えてこう答えた。
 おそらく私みたいな人間は私だけじゃない。でもその人たちは上手くそのことを隠している。そうしないと大変なことになるから。
 大変なことってなーに?
 この質問にはツキコは黙ったまま答えてはくれなかった。
 ツキコのアドバイスに従って、それからの私は私の中に七人の私がいることを隠して暮らすようになった。
 これは結構大変なことだった。何しろ七人の私は趣味嗜好がてんでバラバラだったからだ。まとめ役の私はいつも苦労が絶えなかった。
 いつだったか、まとめ役を代わってよ、とツキコにお願いしたことがあった。
 大体ツキコは私よりはるかに頭がいい。同じ私なのに私の知らないことをいろいろ知っている。私より上手くまとめ役が出来るに違いなかった。
 けれどツキコは、そんな面倒臭いことやなこった!と舌をペロリと出して消えてしまった。
 やっぱりツキコは頭がいい。
 十代の終わり頃になると私も私なりに多重人格であることを悩んでいた。一つの身体に七つの人格が存在するのってとてもまともとはいえない。もしかしたら精神病院に行くべきなのかも?
 しかしながら当然のごとくツキコを始め六人の私はそれに猛反対した。
 精神科医なんてろくな奴らじゃない。人の心の弱みにつけこむ人間のクズだ。精神科にかかったってせいぜい検体としてモルモット扱いされるか、パンダの如く見世物にされるのがオチだ。それにお前は七人のうち六人が消されるようなことを望むのか?この人でなしめ!!
 そういわれると反論出来なかった。思い返してもツキコに口で勝った試しがなかった。
 二十代半ば私は人並みに結婚した。
 夫は超のつくお人よしで、当然のことながら私が多重人格であることにこれっぽっちも気づいている様子はなかった。
 キミって謎めいてるところが魅力的だよね、という夫の言葉に私はぎこちない笑みを返した。
 私が結婚したのはひとえに子供が欲しかったからだ。
 といっても私は特に子供好きだったというわけではない。
 生まれてからずっと一人で(七人で)抱えてきた秘密を子供と共有出来ないだろうかと考えたのだ。
 つまり子供が多重人格であることを期待したのだ。
 考えてみればひどい母親だ。
 だが、生まれてきた子供はごくごく真っ当な人間で、夫は喜び、私は落胆した。
 月日が流れ、子供は成人し、夫は亡くなった。
 ある朝病院のベッドで目覚め、いい加減私も解放されていいだろう、そう思った。
 このときはツキコもさすがに反対はしなかった。
 それどころか今までお疲れ様、と労ってさえくれた。
 午前の検診に来てくれた看護婦に私でない私が言った。
「ねぇ、わたしのお友だちのツキコはどこ?それにアカリは?ミズキは?ジュリは?カナコは?ツクシは?みんなどこに行ってしまったの?」
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風の歌を歌う

2025-03-30 21:07:00 | ショートショート
 気がつくとぼくは人の心が読めるようになっていた。具体的にいつ頃からだったのかは忘れてしまったけれど、ぼくがもっと小さかった頃から、そう、うんと小さい頃からだったと思う。
 でもぼくみたいな存在が人の心を読めたからといって、そのことに特別意味があるとは思えなかった。
 何か気の利いたことを口に出来るわけでもないし、一緒になって涙を流せるわけでもないしね。
 ぼくに出来ることといえばせいぜいそばに寄り添っていてあげられることだけ、あとは、そうだな、風の歌を歌ってあげることぐらいだった。
 そんなぼくだったけれど、なぜだかいつも絶えず誰かがぼくの元を訪れた。
 彼らがぼくのところにきて何をするかといえば、それはもう人それぞれだった。何か聞き取れない声でぶつぶつとつぶやいたり、大の大人なのに声をあげて泣いたり、中にはぼくのことを殴ったり、唾を吐きかけたりする人までいた。
 チズナはそんな人たちの一人で、彼女は何をしゃべるでもなく、ぼくに背を預けたまま、ずっと沈む夕陽を眺めていた。
 彼女の心に巣食っていたのは他者への深い不信で、彼女は誰のことも、両親のことさえも信じていなかった。ぼくの知る限り友達も特にいないようだった。
 時々ぼくのところにやってきて、そして夕陽を眺めては帰っていった。
 彼女に対してぼくが出来ることといえば、やっぱり歌を歌ってあげることぐらいだったけれど、彼女にとってはそれもただの風のざわめきでしかないのかなとその時は思っていた。
 そんな彼女がある日のこと、ぼくに向かって、あいつなら信じられるよね?とつぶやくようにいった。
 あいつってのが誰のことか、ぼくが知ってるはずもなく、だけど彼女は一人で納得したように、今度あいつを連れてくるね、といって帰ってしまった。
 一週間後、彼女は約束通り一人の男性をぼくの元へ連れてきた。
 男はチズナよりも十歳以上も年齢が離れて見え、さえない風貌をしていたけれど、チズナを見る目つきはとても優しかった。
「この樹が君のいっていた、例の“歌う樹”なのかい?」
「あ、今わたしのことを馬鹿にしたでしょう?」
 チズナは男に向かって怒ったような口調でいったけれど、その顔には笑みを浮かべていた。初めて見る、年相応の、子供っぽい笑いだった。
「馬鹿になんかしてないけれど、君にも子供っぽいところがあったんだなぁと思ってさ」
「子供っぽいところがあったって、それ、どういう意味?」
 今度こそ本気ですねたようにしてチズナは男に背を向けたけれど、顔はやっぱり笑っていた。
 男があわてたようにチズナのことを必死になだめる様子は傍から見ていてとても微笑ましかった。
 二人が互いを想う心に偽りは見えなかったからだ。
 二人は晴れた週末の昼間をぼくと共に過ごすようになった。
 そして穏やかな日々が過ぎていった。


 男たちがやってきたのは雨上がりの、ある秋の日の朝のことだった。
 男たちは手に手に杭や槌を持ち、陰鬱な表情を浮かべたまま、あっという間にぼくの周りに柵を張り巡らせ、誰も近づけないようにしてしまった。
 あぁとうとうこの日がやってきたのか、とぼくは思った。
 近くにいたぼくの仲間たちは次々と切り倒され、引き抜かれ、ぼくの周りから消え去っていたから、ぼくがそうなるのも遠いことではないだろうと思っていたのだ。
 チズナがやってきたのはその日の夕方になってからだった。そばにはいつものように彼がいた。
 チズナはぼくの周りの柵を見て呆然としていた。
 そして気丈にも素手で杭を引き抜こうとしたけれど、それは人の手で引き抜けるようなものではなかった。
 やがて彼女は彼の胸に顔をうずめて泣き始めた。
 その日は陽が暮れても二人は立ち去ろうとしなかった。
 夜になって、どこから聞きつけたのか、人が集まり始めた。中にはぼくを蹴ったり、唾を吐きかけたりした人の顔もあった。
 なんだかとても不思議な気分だった。
 ぼくは集まってくれた人たちのために精一杯風の歌を歌った。
「ほら、木々がこすれる音が歌に聞こえるでしょう?」
 そうチズナが目を閉じたままささやくようにいうと、彼は今度は素直に、本当だね、とうなずいた。
 それがぼくが生まれ育った丘で風の歌を歌った最後の夜だった。


 そして今ぼくはチズナのアパートのベランダで、小さなプランターに挿し木になっている。
 穏やかな日差しを浴びてとても気持ちがいいけれど、以前のように歌うことはできない。でもいつかまた、誰かのために風の歌を歌えたらいいと思っている。
 それはずっと先のことになるだろうけれど。
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バッティングセンター

2025-03-29 20:59:41 | ショートショート
 会社の帰り、最新の設備が整っているというバッティング・センターに寄ってみた。
 最近どうもろくなことがないので、とにかく憂さ晴らしをしたかったのだ。
 今朝も一雨来そうだからと傘を持って家を出れば途端に空はからりと晴れるし、通勤電車の中では女子高生から痴漢に間違われるし、仕事の方はといえばあと少しで正式な発注という段階になって大口注文のキャンセルを喰らうし、細かいことを上げれば切りがないが一事が万事その調子で何もかもが上手くいってなかった。
「最新の設備って今までのとはどう違うの?」
 受付にいた女性の従業員に聞いてみる。
「えぇ、お客様、当センターの自慢は何といってもバーチャルな点です」
「バーチャル?ってことはプロ野球の投手が投げているような映像が映し出されたりするってこと? そんなの、よく聞く話じゃないか」
「いえいえ、当センターではすべてがバーチャルなのでございます。ボールまでも」
 その従業員はにっこりと営業スマイルを浮かべて言った。
 すべてがバーチャル?ボールまでも?
 しかしボールが立体映像だったら打つ時の手応えはどうなるのだ?
 そんなので本当に憂さ晴らしになるのだろうか?
 いくつも疑問は湧いたが、とにかく一度お試しください、という彼女の言葉に従い、渡されたバットを手にしてゲージの中に入った。
 するとどこからともなく、ボールをお選びください、という無機質な声が聞こえた。
 ボールを選べってどういう意味だ?
 私の戸惑いも無視してその声は続けてこう言った。
「男性にしますか?女性にしますか?」
 意味不明の質問だったが、とりあえず「女性」と答える。
 さらに髪の長さは?目鼻立ちは?などといった質問が続き、私も馬鹿正直にそれにつきあった。
 ようやくすべての質問が終わると、スクリーンに出来損ないのモンタージュみたいな女性の顔が映し出された。
 それは私が心の中に思い描いた顔とは違ったが、それでもどこか特徴を捉えていた。
「それでは第一球です」
 え?と思う間もなく、スクリーンの女性の顔がぎゅ~んと縮まり、生首のようにばっと私に向かって飛び出してきた。
 思わず私は持っていたバットをぶん!と大きく振り回す。
 だがまるで手応えがなく、どうやら空振りをしたと判定されたようだ。
 ストラ~イク!!という声とともに、キャハハハ…という女の奇声がゲージの中に響いた。
「第二球です」
 今度は私もバットを短く持って慎重に構え、バッターボックスに立つ。
 喰らえ!渾身の力を込めてバットを振った。
 カキーン!という快音と確かな手応えを残し、ひぇ~という叫び声をあげて、生首は遥か場外へと消えていった。
 ホ~ムラン!!
 どうだ、思い知ったか!私は内心ガッツポーズを取った。
 私はそれから小一時間そのバッティングセンターで汗を流し続けた。
 うん、バーチャルもなかなか悪くないじゃないか、と思いながら最後の一球をセンター前にはじき返す。
 額の汗をハンカチで拭いながらゲージの出口をくぐった私は丁度隣りのゲージから出てきた女性と鉢合わせになった。
 その女性は髪は振り乱し、化粧は汗で流れ落ち、眼はやたらとギラギラと光らせ、どうやら私以上に熱心にバットを振り回してきたようだった。
 他でもない、それは妻だった。
 二人は無言のまましばらくの間向き合った。
「こんなところで何してる?」
 ようやく私がそう問うと、
「ここでバットを振る事以外に何かすることあるの?」
 そう妻は険のある言い方で答えた。
 やっぱりバーチャルじゃダメだな、バットのグリップを強く握り締めながら、私はそう思った。
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赤い外套の少女

2025-03-28 21:08:47 | ショートショート
少女は森の中、帰途を急いでいた。
 もうこんな時間ではとうてい日が暮れるまでに森を抜けることは出来ないよ、という街道で出会った猟師の言葉を思い出した。
 一人暮らしだから遠慮する必要はない、悪いことは言わないからうちに泊まっていきなさい、そう猟師は少女の身を案じて優しい言葉を掛けてくれた。
 だが少女は、家でおばあさんがあたしの帰りを待っているのです、と猟師の誘いを丁寧に断った。
 年をとり、すっかり体が弱ってしまったおばあさんをいつまでも家に一人きりにしているのが心配でならなかったのだ。
 そうか、それなら仕方ない、くれぐれも用心しなさい、最近は何かと物騒だから、そう言ってくれた猟師に別れを告げ、少女は一人森へと続く道を選んだ。
 街では年端もいかない女の子達が何人も行方知れずになっているという噂を耳にした。
 彼女たちはどうしたというのだろう?
 もしかしたら道に迷ってこの森の中を彷徨っているのかもしれない・・・。
 そんな埒もないことを考えていると本当に誰かに見られているような気さえしてくる。
 はぁはぁ、先を急ぐあまり少女の息が荒くなっていく。
 少女のまとっている赤い外套が、暗い森の中で誘蛾灯のように揺れる。
 その時ガサリと行く手の草むらが音を立てた。
 少女は一瞬息を飲むが音の正体を知ってほっとする。
 森の入り口で別れたはずの猟師がそこに立っていたのだ。
「まぁ、おじさん、私のことを心配して追いかけてきてくれたの?」
 そう言いながら少女は自分の言葉をいぶかしんだ。
 猟師は少女の行く手から現れたではないか…。
「そうだよ、お嬢ちゃん。おじさんはどうしてもお嬢ちゃんのことが心配になってね。森の中は本当に物騒なんだ。盗賊や人さらいだけじゃない、人外の化け物だって出るのだから。でももう安心だ。おじさんの家はほんのすぐそこなんだ。さぁ、一緒に行こうじゃないか」
 そう言って猟師は少女の手首を掴んだ。
 痛い、少女は顔をしかめたが、猟師は特に気に留めることもなく、少女の手を半ば強引に引っぱっていく。
 しばらく森の中を連れ立って歩いてから少女がぽつりと言った。
「本当はね」
 少女の言葉に先を行く猟師が振り向いた。
「誰かが現れてくれないかなぁって思っていたのよ」
 少女は無邪気な笑みを猟師に向けた。
「だってお腹がペコペコだったんですもの…」

「ただいま、おばあさん」
 少女の帰りが遅いのを心配して寝ずに待っていた老婆は少女の姿を見てほっと安堵の息を漏らした。
「どうしたっていうんだい、ずいぶん遅かったじゃないか」
「ごめんなさいね、おばあさん。森の中で急に食事をすることになったものだから」
「おやまぁこの子ったら!けれど仕方のないことなのかもしれないね。お前たちの年頃なら、すぐにお腹は減るものだからね。でもちゃんと言いつけは守っただろうね」
 少女はにっこりと笑ってみせた。
「もちろんよ、おばあさん。誰にも見られなかったし、それに食事が終わってからの後始末も忘れなかったわ」
「そうかい、そうかい、お前はいい子だね…」
 そう言いながら老婆は皺ばんだ手で少女の頭を撫でた。
 少女の外套が赤い理由を、少女と老婆以外誰も知らない。
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切り裂きジャックの正体!

2021-12-23 21:01:32 | ショートショート
 久しぶりのショートショートです。
 ショートショートの掲載は4年ぶりになるのかな。
 といっても4年ぶりに新作を書いた、というわけではありません。
 物置きを片づけていて、その物置きに兄貴の私物がダンボール箱10箱分ぐらいあることは書きました(こちら)。
 当然兄貴の私物しかないわけではないんですよ。
 お袋の昔の趣味だった刺繍糸もあれば、自分の小学校の頃の文集などもありました。
 他には高校の頃に書いたショートショートが掲載された文芸誌も…。
 ネタもないことだし、今日はそのショートショートを転載します。
 タイトルは『切り裂きジャックの正体!』です。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 これは19世紀末のロンドンのお話である。

 男はスランプに陥っていた。
 彼は元々医者であったのだが、ある日暇つぶしに自分の一番嫌いなタイプの人間が主人公の探偵小説を書き、出版社に送った。
 その作品はあえなくボツになり、やがて彼の記憶からも消えていった。
 数年後、どういった経緯によるのか、その作品が大衆向けの雑誌に掲載され、評判を呼んだ。
 彼は意外なことの成り行きに内心驚いていたが、自身の経営する診療所の経営不振などを理由に医者をやめ、専業作家となった。
 その後彼は数編の短編小説を書き、そのいずれもが高い評価を得た。
 次々と舞い込んでくる原稿の依頼に彼は締め切りに追われた。
 しかしこの主人公は本来、彼の最も嫌いなタイプの人間だったのだ。そうそう上手く書けるはずもない。
 彼は次第にノイローゼとなっていった。

 ようやく作品を書き上げ、彼は大きく息を吐いた。
 窓の外を見やると、ロンドンは白い霧に包まれていた。
(久しぶりにやるか…。)
 警察はしばらく北の方を重点的にパトロールすると言っていた。
(今日は西の方に行ってみよう…)
 彼は警察の捜査方法についてかなり詳しく知っていた。小説が売れ始めてしばらくたった頃、彼は地元の警察署を訪れ、小説の参考にするから警察の捜査方法などについて教えて欲しいと頼んだ。
 するとそこの警部補が聞くこと聞かないこと、ペラペラとしゃべってくれたのだ。
 彼の小説に出てくる無能で役立たずな警部はこの男をモデルにしていた。

 彼は黒いコートを羽織り、白い手袋をはめると、診察室から昔使っていたメスを持ってきた。
 そして彼は霧のロンドンを歩き始めた。
 標的となる女たちを探す。
 自分の小説の主人公の次に嫌いな女たちを…。

 彼はイーストエンドの公園に足を踏み入れた。
 辺りを見回しても誰もいる気配はない。それも当然だった。殺されても商売をしようという女はいない。
 だが彼は女たちがこの仕事をしなければ生きていけないことも知っていた。
 必ずこの公園のどこかに獲物となる女はいるはずだった。

 30分ほど深い霧の中をさまよい続け、彼は不意に目の前に派手なドレスを着た女がいることに気づいた。
 懐からメスを取り出すと、彼は女の背後に音もなく忍び寄り…。

 “切り裂きジャック、再び現る!”
 新聞には娼婦ばかりを狙う殺人者のことが書かれていた。
(どうやらまた傑作をものに出来そうだ…)
 新聞を見るともなしに眺めながら男はほくそ笑んだ。

                                   end
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 切り裂きジャックは医学の心得があったのではないかという推測とコナン・ドイルが元医者だった事実から着想を得て書きました。
 自己評価すると、高校生が書いた作品なら悪い出来ではないけど、才能のきらめきのようなものは感じられない、ってところですかね。
 よかったら感想を聞かせてください。
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美食家、その4。

2017-12-08 22:41:15 | ショートショート
 うつらうつらと眠りに落ちていたダドリーは階段を降りてくる足音で目を覚ました。
「叔父さん、お早うございます」
 ダドリーは内心驚いていた。目の見えない状況では、ずいぶん時間の流れるのが速い。
「ご機嫌いかがですか、叔父さん」
「ああ、しごく良好だとも、クリスフォード・ケイン」
 実際ダドリーは目も見えず、手足もろくに動かせないというのに、近ごろでは覚えがないほど気分が上々だった。
「そ、それは良かった。何よりです」
 クリスはダドリーの返答に多少意表を突かれたようだった。
「それで何のようだ、クリス」
「朝食をご用意しました」
「フフ、まさか、昨日と同じメニューではあるまいな」
 前回の食事との違いはクッキーの枚数が一枚増えたことだけだった。もっともそのことでダドリーは文句をつけようとは思わなかった。一歩も動けない自分が満腹であっても意味はない。
 だが用を足さざるをえない時の屈辱感といったらなかった。足を椅子に固定されたまま、上半身を起こし、ズボンのファスナーを下ろされ、箸のようなもので(いや箸に間違いない)彼の性器をつまみ出され、目標を定めることもなく放尿する。特製の便器とはすなわち金属製のバケツであり、しかもそこから少なからずこぼれる始末だった。
「頼む、今だけでいい、手錠を外してくれ!」
 ダドリーの必死の懇願もクリスは非情にも拒否した。
「駄目です、それだけは聞き届けるわけにはいきません」
「くそっ、クリス、頼む…」
 やがてダドリーの尿意が収まった。
「クリス、許さんぞ…」
「申しわけありません、叔父さん。初めてだから上手くいかなかっただけで、次はきっと大丈夫ですよ」
 ズボンの汚れを拭かれ、再びダドリーは椅子に座らされた。
 それからダドリーは数度の食事と(結局セサミクッキーとミルク以外のメニューはなかった)、その間に何度か放尿をした。クリスの予言通り二度目からはうまく的に収まるようになった。
「三日目の、朝です」
 いつの間にか寝入っていたダドリーの耳元でクリスが囁いた。
「長い間、お疲れさまでした」
 ダドリーは、クリスがいると思われるほうへ顔を上げた。
「クリス、お前に、言っておかなければならないことがある」
「何ですか、叔父さん」
 ダドリーは少しばかり迷っていたが、やがて言った。
「こんな状況で言っても、お前は信じてはくれないかもしれないが、私はお前のことを、愛していた」
 クリスはダドリーの言葉に少し間を置いてからこう答えた。
「叔父さん…。こんな状況では、とても信じてはくれないでしょうけど、僕も、叔父さんのことを心から愛していますよ…」
 人に聞かれたら馬鹿馬鹿しいと笑われるだろう。だがダドリーは、クリスのその言葉を信じた。
「人はいつか、死ぬ。愛するお前の手にかかって死を迎えられるのであれば、考えてみれば、それも幸福な 死に方かもしれないな…」
 ダドリーのその問いに対して、クリスは何も答えようとはしなかった。その代わりにダドリーの口に匙を当てた。
「これが、最後の晩餐です。お口に合うといいのですが」
 ダドリーはその匙を口に含んだ。タドリーの口の中に芳醇で素朴な味がゆっくりと広がっていった。およそダドリーが今まで口にしたことのない、シンプルだが、それでいて何かに例えようのないほどの広がりを持つ味だった。
「これは、何だね?」
 ダドリーは思わず尋ねた。
「粥です。中華粥です」
 クリスの答えにダドリーはゆっくりと息を吐いた。美食を極めた自分の最後の食事が粥とは…。そう思いながらもダドリーの目隠しされた両眼の奥から涙が一筋流れた。
「もう、思い残すことはない…」
 その言葉を待っていたかのように、クリスがダドリーの足の戒めを解いた。そして次に両手の手錠を外し、最後に目隠しを取った。
「叔父さん…」
 ダドリーは二度、三度目を瞬かせた。そしてアッと短く叫んだ。目の前に執事のロバートと主治医のハーロンが立っていたのだ。
「お、お前たちもグルだったのか!?」 
 ダドリーがそう叫ぶと、慌てたようにクリスが言った。
「違うんです、叔父さん、二人には僕が無理を言って協力してもらったんです」
「どういうことだ、クリス…」
 そこでダドリーは気づいた。その地下室はどこでもない、彼自身の屋敷の地下室だったのだ(とは言っても彼が地下室に下りたのはもう五、六年も前のことだが)。
「僕が一芝居打つのに、二人に、この一日協力してもらってたんです」
「一日?三日じゃないのか?」
「いえ、一日です。正確には一日と四時間です」
 確かにやけに時間の流れが速く感じられたことをダドリーは思い出した。だが、それですべてを納得したというわけでもなかった。
「だが、どうしてこんな芝居をしなければいけなかったというんだ?」
 ダドリーの当然とも言える問いに、クリスは申しわけなさそうに首をすくめた。
「叔父さんに、この中華粥を食べてほしかったんです」
 二人の会話にハーロンが割って入った。
「ダドリー、お前さん、今のままの食生活を続けていれば、肝臓がパンパンに膨れ上がって、せいぜい半年の命じゃったんだぞ」
 ダドリーは二人に向かって、余計な真似を、と怒号を浴びせようとした。だがその瞬間さっき口にした粥の味が思い出され、なぜだか怒りは陽光に雪が解けるように消えてしまった。
「叔父さん、この中華粥を作ってくれたシェフを紹介するよ。彼女はロキシー・スェン」
 そう言ってクリスは男たちの間に隠れるように立っていた一人の女性を紹介した。年齢はクリスと同じぐらいだろうか、決して派手な美人というわけではないが、穏やかな表情をした、豊かな黒髪を後ろに束ねた東洋系の女性が、ダドリーの前に進み出た。
「お味は、いかがだったでしょうか、ミスター・オブライエン」
 ダドリーは、ロキシーに精一杯の仏頂面を向けてこう言った。
「今まで食ったものの中で一、二を争う不味さだ。だが猛烈に腹が減っていて今にも死にそうだ。急いでもう一杯おかわりを持ってきてくれ、ミス・スェン」




                                          了
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美食家、その3。

2017-12-07 22:30:30 | ショートショート
 闇は人から時間の流れの速さを計る感覚を奪う。ダドリーにはそれが光が進むように速くも、また亀の歩みのように遅くも感じられた。いつの間に眠ってしまったのか、ダドリーは肩を揺すられ目を覚ました。
「叔父さん、夕食を持ってきましたよ」
 クリスがそう言うと、ダドリーの唇に何かが触れた。ダドリーが口を開くと、それがさっと押し込まれた。胡麻の香りが香ばしいセサミクッキーだった。どうやら声の位置からして、ダドリーの口にクッキーを押し込んだのは、クリスではなくサムらしかった。いっそこのサムという男の指を噛み千切ってやるか、と一瞬ダドリーは思ったが、そのことまで頭に入れて自らが食事を与えようとしないのであればクリスの手に乗るのも癪だと思い直した。
 三枚目のクッキーがダドリーの口の中に消えた時点でクリスが、これで終わりです、と言った。
「こ、これだけか?」
 ダドリーは聞き間違えたのかと思い、問い返した。午前中はいつも食欲がなく、今朝も朝食をほとんど口にしておらず、そのためこの時はきわめて空腹であったのだ。
「ええ、そうですよ」
「しかし、これは、これだけじゃ…」
「叔父さん、何を贅沢言っているんです?自分の立場というのをわきまえてくださいよ」
 クリスが皮肉に満ちた口調で言った。
「せ、せめて何か飲み物を…」
「もちろん用意してますよ」
 ダドリーの唇にストローが当てられ、彼はむせ返りながらも人肌に温められたミルクを吸い込んだ。
「叔父さん、いっぺんに飲むと喉を詰まらせますよ」
 クリスの忠告に構わず、ダドリーは、カップ一杯のミルクを一気に飲み干した。それほど喉が乾いていたのだ。
「それでは叔父さん、明日の朝を楽しみにしておいてください」
 そう言い残してクリスは階上に去って行った。再び地下室にはダドリーともう一人、おそらくサムと呼ばれる唖の男が残された。だがそれもダドリーが息を潜め、精神を集中してようやくその気配をわずかに感じられるかどうかだった。
 ここにはお前一人なのだと言われれば、ダドリーはそれを鵜呑みにしたであろう。
 暗闇の中、ダドリーは思い出していた。クリスと初めて顔を合わせたのはもうかれこれ七年も前のことになる。ずいぶん軟弱そうな若者だと思ったものだが、なぜだか拒絶する気にはなれなかった。父が死んでからも一切エレンたちのことを顧みなかったことに罪悪感を覚えたのか、それともただ年を取ったことで人恋しかっただけなのかもしれない。
 自分でも説明がつけられないことだった。とにかく初めて会う甥の、人好きのする笑顔が偏屈な老人を捕らえて離さなかったことだけは事実だった。
 それ以来、ただひたすらダドリーの死を待ち続けたのだとすれば、他にどれほど欠点があるにしろ、クリスフォード・ケインという男ははずいぶんと辛抱強い性格だと言える。そして役者でもある。
 ダドリーは卑屈な笑みを浮かべた。出来ることならもっと長く、そう、自分が死を迎えるまで演じ続けてほしかったものだ…。
 そしてダドリーは息を大きく吐き出しながら決意した。クリスは、長くて三日と言った。たとえその時が来たとしても、見苦しく命乞いをするような真似だけはするまいと。


                                    美食家、その4に続く
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