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とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

左か?右か?

2010-08-28 23:49:23 | 日記
左か?右か?




 左前という言葉は嫌われる。死者の着物の着せ方だからと説明されている。舞台やステージの場合は向かって右側が上手である。左遷(左降)、左道、右派、左派、左褄(ひだりづま)、そして左党という言葉もある。このように生活の中に右と左の区別から発生した文化が根付いている。
 私は、年末に取り替えることにしている神棚に飾る棒状の注連縄(しめなわ)の場合、本と末のどちらが右か?左か?ということでいつも迷っている。出雲大社では左に本を持ってくる。これは他の神社とは逆だという。
そこで私は、出雲大社流でいくか?普通の飾り方でいくか?昨年末は迷った挙句、出雲大社流で飾ることにした。しかし年が明けて、神棚を拝みながらまた迷ってしまった。
 『逆説の日本史』(小学館)で井沢元彦氏は出雲大社の大注連縄の取り付け方に注目している。そして、この形式はいわゆる着物の左前と同じで、出雲大社が「死の宮殿」だということを物語っている、などと結論付けている。これはお膝元の出雲地方に住んでいるものとして気持ちのいい説明ではない。だから私は一つの学説として理解している。
 注連縄の形状は地方によって様々で、本も末もない左右対称のものもある。疫病や悪霊を入れないように村境にも張られる地方もある。「注連」は標野などの「標(しめ)」に通じているのである。だからその起源を調べると、奥深い民間信仰の源流にたどり着くことができる。
……左と右。この区別から見えてくるものはまだまだあるような気がしてならない。
(2006年投稿)

印税一円

2010-08-27 16:59:10 | 日記
印税一円



 鉛筆一本で勝負し、印税で生活する。これは私の若いころからの夢だった。しかし、齢(よわい)六十代前半になっても実現していない。
 文学賞に何度応募しただろうか? 多すぎてすぐには浮かんでこない。いいところまで行くこともあるが、最後の一歩を進めるのが至難の業である。だから自費出版をしたこともある。これは生活を苦しめるだけで、全くの収入には結びつかない。しかしそれでも書きたいという願望を抑えきれないまま今日を迎えているわけである。
 昨年ある出版社の短編小説賞に応募した。結果は見事落選。応募状況の詳細を知り、当然だと合点した。短編だからということもあるが、数千作の応募があったそうである。しかし、その出版社からアンソロジーに載せたいので、共同出版という形で参画しないかとの誘いがあった。具体的には、編集・出版・販促などに関わる費用の何割かは自己負担して欲しいということらしい。私は迷った末、ページ数も少ないし、負担金も驚くほど多額ではなかったので、その話に乗ることにした。
 見積もりの詳細を見ていて、不満なことが一つあった。私が憧れていた印税が、一冊当たり一円だと書いてある。苦情を言ったが、そこは堅くかかっているスペシャリストである。「出版したという実感を味わっていただく」ことが目的だと言う。「実感」? これは言葉として選択ミスだと思った。「実感」するにはあまりにも少額ではないか!
 先日、預金通帳を確認した妻から、M社から千八百円振り込みされていると聞いた。販売会社のサイトで確認すると、同じシリーズの中では私の作品が載っている本がランキングのトップであった。トップで千八百冊? まあいいか。初めての印税収入があったのだ。「実感」としては、まんざらでもない。(……こりゃ、救いようがないな。)(2006年投稿)

一番美しく

2010-08-27 16:26:52 | 日記
一番美しく


 黒澤明(脚本・監督)の『一番美しく』というモノクロ映画のビデオを借りて来て観た。幾度となく観ている。この映画はいわゆる国威発揚、戦意高揚のために制作されたものである。作られたのは敗戦色濃い昭和十九年。私が生まれた年である。
 女子挺身隊として平塚の精密機械の軍需工場に徴用された若い女性たちが、献身的にお国のために働く姿をドキュメンタリータッチで描いている。挺身隊が担当していたのは兵器のレンズを作る作業である。主人公渡辺つるはその隊長として信頼されている責任感の強い女性である。その主役は矢口陽子さんが演じている。のち、彼女は黒澤明氏と結婚する。
 ある日、隊長は、隊員の報告により、一枚の未点検のレンズがあることを知る。その日他の隊員と一緒に点検したレンズは夥しい枚数である。責任感を感じた隊長は工場の者が止めるのも聞き入れず、一人で再検査を始める。疲労困憊する体に鞭打って、徹夜してその一枚を探そうとするのである。
 「美しい」のは集団に支えられた一途な責任感である。一枚でも焦点の狂ったレンズが戦闘機や兵器に取り付けられれば、大切な戦闘手段を失うことになるし、兵士の命を奪うことにもなる。その一枚を探すことがお国のためになる。だから、時間との闘いだし、我が女の命を燃やし尽くす覚悟を生む。そうした熱情が観ている者の胸を打つ。
次の場面では「若葉」という唱歌を夜宿舎の前で隊員たちが斉唱する。「あざやかなみどりよ、あかるいみどりよ、鳥居をつつみ、わら屋をかくし、かおる、かおる、若葉がかおる」。我々の世代には懐かしい歌詞の歌である。
 もしかして、黒澤明氏は豊かで平和な国土への回帰の願いをこの歌に密かに託していたかもしれない。しかし、それは戦争を知らない世代に属する私の憶測にすぎない。いい作品はいつ観てもいい。(2005年投稿)

一山

2010-08-26 22:58:49 | 日記
一山



 今月二日のことである。職場で私は出雲市出身の俳人原石鼎にちなんだ「俳句大会・俳画展」の作品募集のパンフレットを見ていて、石鼎の代表作の一句をふと思い出した。
 蔓踏んで一山の露動きけり
 「一山!」。私は思わず呟いた。そして、その言葉に関わるある出来事を思い出し、動揺しだしたのである。
 二十日くらい前に、職場に信州から不思議な人物が訪れた。画家、文士と名乗る初老の男性であった。事務室に通すと、お茶を一杯すすり、茶菓子を美味そうに食べた。そして、やおら、「紙と筆記用具を準備してください」と言った。私は言われるまま筆ペンと三色のソフトペンとA4の用紙を差し出した。「おっしゃるものを何でも描きます」とその人は言った。
「信州なんですから、山を描いてください」と私は頼んだ。すると、その人は、用紙に筆で「一山」と書いた。私は不満に思い、「実際の山をお願いします」とまた頼んだ。「そうですか。では……」と言い、今度は一筆書きの山と鳥を描いた。私はまだ不満だった。画家としての才能を疑っていた。だから、「今度は色を使って、この机の上の蝋梅(ろうばい)を描いてください」と重ねて頼んだ。すると、「そりゃ面白い」と言って、暫らく思案していたが、ペンを執ると、こすりつけるように動かして、黄色い蕾をことさら大きく描いた抽象的な構図の鮮やかな絵を仕上げた。私はやっとその人の腕を信用した。
職場を去っていくその人の後ろ姿を見送っていて、私はその自由な生き方に憧れた……。
 「こりゃ大変だ!」と私は言いながらパンフレットを机に置くと、「一山」の文字と一筆書きの山の絵をもう一度出して見直したのである。何と、石鼎の句の大胆な発想と相通じるものが感じられるではないか! 
 ……不明なり。私はその放浪の芸術家の持つ世界の奥行きを感じ取る力に欠けていた。
                     (2006年投稿)

伊丹堂異聞

2010-08-26 22:53:19 | 日記
伊丹堂異聞



 一畑電鉄大寺駅の近くの斐伊川堤防に「伊丹(いたん)堂」という小さなお堂が建てられている。その由来について次のような二つの話がある。
 私は以前こう理解していた。
 十三歳のお定は近村切っての器量よしという評判であったが、眼の不自由な母と二人暮らしだった。お定は毎朝斐伊川の土手を下って平田まで通って板箕(いたみ)を売り、家計を支えていた。ところが、ある朝土手に掘った大きな穴の中に落ちて、埋められてしまう。お定が知らないうちに、朝一番に通りかかった者を人柱に立てるということになっていたのである。その後、お定の霊を慰めるためにお堂が建てられ、「板箕堂」(「伊丹堂」の元の名か?)と土地の人は呼んだ。
 しかし、現在、現地に行くと、「伊丹堂」の由来を書いた立て札があり、概略次のように書いてあった。
 松江藩主松平直政が、斐伊川堤防づくりに力を注いでいた頃のある日、河原で鷹狩りをしたとき、かわいがっていた鷹が行方不明になってしまい、悲しんだ直政は、渡橋の観音様に「お礼にお堂を建ててさしあげますから」と祈願した。鷹は間もなく帰ってきたが、直政は祈願したことを忘れてそのまま江戸に参勤交代に出てしまった。ある夜直政の夢の中に、観音様のお使いとして地蔵様が出てこられ「お堂を建ててください」と言った。そこで直政は、慶安元年に渡橋の観音堂の改築を行い、続いて、完成した斐伊川の堤防に瓦葺のお堂を建て、堤防を守る仏として堤防下にあった地蔵様を移してまつった。
 さて、どちらが正統の伝説であろうか。私は、今、伝説の迷路をさまよっている。
                                 (2006年投稿)