笑み
瀬本あきら
七階の外科病棟の六人部屋で夜中寝ていると、地の底から湧きあがるような叫び声が聞
こえてきた。二月中旬のことである。
見回りに来た看護師に、「あれはなんですか?」と尋ねた。
すると、その人は「ああ、あの音ですか。トイレのドアの具合が悪いんですよ」と事も
なげに答えた。
それにしても、重体の患者の呻き声にも似た不気味な響きであった。
私は、ここの病室に横たわるまで、幾多の試練といっては大袈裟だが、何か大きな宿業
を乗り越えてきたという思いがしていた。
一つは最初の腹切りの儀式への恐怖。二つ目は七階という高いところに閉じ込められる
という恐怖。三つ目は日常から抜け出す恐怖。こういう怖れに倒れそうな我が身を支えつ
つ、また、病院のスタッフに支えられつつ、何とか乗り越えてきたのだ。
たいした手術じゃないよ、などと言って励ましてくれた家族や同僚の言葉は、最初私に
は全く通じなかった。何しろ私は極度に「閉所」を怖がっていたのである。それは病的と
言ってもいい。
手術室に連れて行かれる同じような症状を持つ人の「手記」を読んでいたので、そのと
きの苦痛は十分予想できた。その人は泣き叫んだという。だから、もし手術中に不安発作
が起こったら命を失うことにもなりかねない。そういう予期不安が私にはあった。
……しかし、こうして、ここに、私は確かに生きている。傷口がひどく痛むのを除けば、
今までと少しも変わらない私という人間がまだここにいる。私は薄暗い病室の中を見回し
ながら、ありがたいことだ、と感じた。ここの部屋の私を除く五人は、それぞれ大手術を
経たものばかりで、見るからに気力が失せているように見えた。私は五十代半ば、他の五
人は私より十歳くらい年上に見えた。
「ギャー、ギャー」とまた何度か音が聞こえてきた。もう眠れなくなった。
夜中にトイレに立つ人の何と多いことか。私にはその音と音との間隔がほんの数分間に
思えた。
私は、ある組織の現役メンバーの一人である。そのままの形で一時その組織から抜け出
してきた。すると、その組織の他のメンバーに多大なる負担をかけることになる。そのこ
とが辛い。しかも、抜け出して一時的にでも自由になったかと思うと、そうではなく、ま
た新たな組織に組み込まれて、そこの一員としてこうしてじっと耐えねばならない。これ
は生きている限り付きまとう永遠の宿命である。しかし、私の周囲の患者は私よりずっと
重い病と闘っている。このことも私を拘束した。比較的軽いものは息を潜めてしばらくは
じっとしていなければならない。下手にもがいたりすると、解放される日は遠のくばかり
である。この病棟の人のすべてが解放されるわけではない。無事退院の日が迎えられれば、
仏神の恩を感じねばならない。私はそう思った。
「貴方は、軽くていいですねえ」
同室の患者の家族が、見舞いの帰りにそう言いながら毎日のように私のベッドの前を通
り過ぎて行った。その度に早く退院したくなった。
また、こんなこともあった。手術のあくる日、執刀した若い主治医がいないときに、代
理の中年の医者が診察に来た。その医者も手術の補助をしていた。病室に入るなり、私の
左のわき腹のガーゼを乱暴に取り除くと、まだ、完全に引っ付いていない傷口を両の親指
で力いっぱい押し始めた。私は激痛に耐えながら、この医者は気でも狂ったのかと思った。
「おい、まだ歩かないのか。こんな傷で何日も寝ていては歩かれなくなるぞ。しっかり
歩け。今すぐにでも歩け」
医者はそう言うと、さっさと出ていった。
慌てて看護師が入ってきた。
「ごめんなさいね。あの先生は少し乱暴だけど、本当はいい人なんですよ」
そう言いながら包帯を変えて丁寧に手当てをしてくれた。
私は怒りを抑えるのがやっとで、返す言葉が出て来なかった。
思い返せば、このI市の総合病院にはかれこれ三十年も何やかやで通院していた。だか
ら、産婦人科と放射線科以外はすべてお世話になっていた。私と接した医者の数は数え切
れないほどいた。その中でも忘れることの出来ない医者がいる。Mという精神科医である。
私は三十代前半のころ書痙で苦しんでいたことがあった。何しろ右手で小さい字が書けな
いのである。最初は整形外科で色々な検査をして貰ったが何にも異常はないとの診断だっ
た。それで、精神的なものだろうということになって、M医師にカウンセリングやロール
シャッハ・テストなどの心理検査をして貰った。しかし、取り立てて異常はないとのこと。
そこで、私は尋ねた。
「先生、治るでしょうか? 字が書けなかったら、仕事できないんです」
すると、M医師は答えて言った。
「左手がありますよ。訓練してみてください。一ヶ月くらいで書けるようになります。私
が知っているお方で、Yさんという人がおられるんですが、この方は両手が痙攣して、手
では書けなくなりました。色々治療しましたが、だめでした。するとYさんは右足の小股
に鉛筆を挟んで書こうとなさいました。二ヶ月くらいたつと足で書けるようになりました。
書けるようになると、不思議なことに右手が動き出したんですね。これには私も驚きまし
た」
私は、その話を聞いているうちに、その医師の顔が輝いて見えた。そうだ、まだ私には
左手がある。そう心の中で呟くと、急に今までの苦労がすっと軽くなったような思いがし
た。言われた通り一ヶ月練習すると、何とか読める字が書けるようになった。都合原稿用
紙百枚くらい書いたころであった。そうして五、六年左手で書いていると、次第に右手を
使いたくなった。ある日、右手を使ってみると、なんと、書けるではないか。私は、M医
師に感謝した。
歳を取るに従って、職場の人間関係からくる葛藤が心の奥に溜まって淀んでいた。その
ことだけが原因ではないかもしれないが、あるとき急に狭心症のような発作を起こした。
車での通勤途上だったので、危うく車もろとも数メートル下の田んぼに落ちそうになった。
運良く同僚が通りかかったので、近くの病院に連れていってくれた。医師は狭心症の疑い
あり、と診断した。そして、I市の総合病院に移された。内科での検査入院の結果は「異
常なし」。そこで、私はふとM医師のことを思い出した。
「M先生はまだこの病院におられますか?」
私が看護師に尋ねると、まだ勤務しておられます、という返事。私は嬉しくなって、早
速診察のお願いをした。
「車の運転も出来なくなったのですね。それから、一人でいると不安に襲われる……」
M医師は、カルテに記しながらときどき私を優しい眼差しで見つめた。半白の頭と額の
皺に二十年間という長い時間を感じさせた。
「じゃ、三ヶ月ほどゆっくり休んでください。仕事のことが気にかかるでしょうが、こ
れは、天が与えた休暇です。ありがたいことです」
「えっ、三ヶ月もですか」
「そうです。でもね、あっと言う間に経ちますよ」
私は、三ヶ月という時間が長すぎると思いながらも、内心はこの診断に感謝していた。
天が与えた休暇なのだから。
……あれから、また十数年たって、またここへ舞い戻った。私は、生得病院というとこ
ろと縁が切れないようだ。そう思いながら、またうとうととしていた。あの不気味な音は、
朝方しばらく途絶えていた。
明くる朝、例のトイレのドアを開けてみた。ぐわっ、という間の抜けたような音が響い
た。「なんだ、油切れじゃないか」。私は確認してほっとした。朝日の中でぐわっと鳴る
ドアの響きはすこぶる滑稽でもあった。
食事が終わってから、窓の下の庭園を恐々覗いてみた。すると、二十年近い前に内科に
入院していたときにスケッチした六角形の藤棚が、まだそのままの姿でどっしりと居座っ
ていた。藤の幹はずいぶん太くなっていた。私は退院するまでに、またスケッチしようと
思った。こういうときに、こういう場所で、新たな仕事が生まれたことが私にある力を与
えた。
「おはようございます。よく眠れましたか? 検温ですよ」
昨夜の看護師の明るい声が部屋中に響いた。とともに、別の看護師が慌てて駆け込んで
きた。
「――さんの容態がおかしくなったわ。早く来てください!」
部屋の他の五人はその声を聞いて、誰も起き上がった。
二人の看護師は廊下へ飛び出して行った。
「――さん、とうとう駄目か」。誰かがそう言うと、急に静まり返った。しかし、部屋
を出て様子を見ようという者はいなかった。妙な静けさが部屋中に染み渡り、私は息苦し
くなった。
私が部屋を出て廊下を見渡すと、突き当たりの個室に医師や看護師が出たり、入ったり
していた。その人はどんな人か私にはわからなかったが、突然、一目見たいという気持ち
が湧き起こり、足だけが別の生きもののように動き出した。
部屋の前まで行くと、その個室には面会謝絶の表示がしてあり、ドアが固く閉まってい
た。私はドアに耳を寄せて声を聞いた。中にはもう家族や親戚の人が幾人か来ているらし
かった。何か分からないが、ひそひそ話しているのが聞こえてきた。
いきなりドアが開いて、看護師が顔を出した。私がいるのを咎めるような目つきをしな
がらドアを閉めた。その瞬間、その患者の横顔が見えた。たくさんのドレーンで繋がれた
体からは生きものとしての実感は湧かなかった。修理中のロボットのような気がした。し
かし、私には、その人の横顔が心なし微笑んでいるように見えた。安息の時間を迎えよう
とする喜びを最後の力で表現しているのだ、と思った。
父も母も祖母も弟も笑みなど浮かべなかった。私は家族が死んでいったときの表情を思
い出していた。私はどういう顔をして最期のときを迎えるだろうか。せめてこの患者のよ
うに笑みを浮かべていたいものだ。そう思った。そして、私は自分の部屋にゆっくりと歩
いて行った。
ベッドの横の物入れから盆と鉛筆と紙を取り出してコートを羽織ると私は部屋を出た。
そして、非常階段を一段一段降り始めた。エレベーターは禁物。中に一人でいると気分が
悪くなることがあった。
外に出ると、寒さが体の芯まで染み込んできた。私は、藤棚の下のベンチに腰掛けた。
そして、盆を膝の上に乗せ、その上に紙を置き、デッサンを始めた。葉っぱのない藤の蔓
は虚空を掴み取るように空へ伸びているような感じがした。寒い、寒い、と心の中で呟き
ながら線を引いていった。どうしてこんなことをするのか。そういう反問も芽生えてきた。
仕事。仕事。今日の仕事。一人でそれに答えながら描き続けた。
ふと、また、あの人の笑みが浮かんできた。あの人の笑みは、私の心の投影だったかも
しれないと思った。すると、どこからか藤の枯れ葉が一枚飛んできて、紙の上に描いた蔓
の上に止まった。 (了)
瀬本あきら
七階の外科病棟の六人部屋で夜中寝ていると、地の底から湧きあがるような叫び声が聞
こえてきた。二月中旬のことである。
見回りに来た看護師に、「あれはなんですか?」と尋ねた。
すると、その人は「ああ、あの音ですか。トイレのドアの具合が悪いんですよ」と事も
なげに答えた。
それにしても、重体の患者の呻き声にも似た不気味な響きであった。
私は、ここの病室に横たわるまで、幾多の試練といっては大袈裟だが、何か大きな宿業
を乗り越えてきたという思いがしていた。
一つは最初の腹切りの儀式への恐怖。二つ目は七階という高いところに閉じ込められる
という恐怖。三つ目は日常から抜け出す恐怖。こういう怖れに倒れそうな我が身を支えつ
つ、また、病院のスタッフに支えられつつ、何とか乗り越えてきたのだ。
たいした手術じゃないよ、などと言って励ましてくれた家族や同僚の言葉は、最初私に
は全く通じなかった。何しろ私は極度に「閉所」を怖がっていたのである。それは病的と
言ってもいい。
手術室に連れて行かれる同じような症状を持つ人の「手記」を読んでいたので、そのと
きの苦痛は十分予想できた。その人は泣き叫んだという。だから、もし手術中に不安発作
が起こったら命を失うことにもなりかねない。そういう予期不安が私にはあった。
……しかし、こうして、ここに、私は確かに生きている。傷口がひどく痛むのを除けば、
今までと少しも変わらない私という人間がまだここにいる。私は薄暗い病室の中を見回し
ながら、ありがたいことだ、と感じた。ここの部屋の私を除く五人は、それぞれ大手術を
経たものばかりで、見るからに気力が失せているように見えた。私は五十代半ば、他の五
人は私より十歳くらい年上に見えた。
「ギャー、ギャー」とまた何度か音が聞こえてきた。もう眠れなくなった。
夜中にトイレに立つ人の何と多いことか。私にはその音と音との間隔がほんの数分間に
思えた。
私は、ある組織の現役メンバーの一人である。そのままの形で一時その組織から抜け出
してきた。すると、その組織の他のメンバーに多大なる負担をかけることになる。そのこ
とが辛い。しかも、抜け出して一時的にでも自由になったかと思うと、そうではなく、ま
た新たな組織に組み込まれて、そこの一員としてこうしてじっと耐えねばならない。これ
は生きている限り付きまとう永遠の宿命である。しかし、私の周囲の患者は私よりずっと
重い病と闘っている。このことも私を拘束した。比較的軽いものは息を潜めてしばらくは
じっとしていなければならない。下手にもがいたりすると、解放される日は遠のくばかり
である。この病棟の人のすべてが解放されるわけではない。無事退院の日が迎えられれば、
仏神の恩を感じねばならない。私はそう思った。
「貴方は、軽くていいですねえ」
同室の患者の家族が、見舞いの帰りにそう言いながら毎日のように私のベッドの前を通
り過ぎて行った。その度に早く退院したくなった。
また、こんなこともあった。手術のあくる日、執刀した若い主治医がいないときに、代
理の中年の医者が診察に来た。その医者も手術の補助をしていた。病室に入るなり、私の
左のわき腹のガーゼを乱暴に取り除くと、まだ、完全に引っ付いていない傷口を両の親指
で力いっぱい押し始めた。私は激痛に耐えながら、この医者は気でも狂ったのかと思った。
「おい、まだ歩かないのか。こんな傷で何日も寝ていては歩かれなくなるぞ。しっかり
歩け。今すぐにでも歩け」
医者はそう言うと、さっさと出ていった。
慌てて看護師が入ってきた。
「ごめんなさいね。あの先生は少し乱暴だけど、本当はいい人なんですよ」
そう言いながら包帯を変えて丁寧に手当てをしてくれた。
私は怒りを抑えるのがやっとで、返す言葉が出て来なかった。
思い返せば、このI市の総合病院にはかれこれ三十年も何やかやで通院していた。だか
ら、産婦人科と放射線科以外はすべてお世話になっていた。私と接した医者の数は数え切
れないほどいた。その中でも忘れることの出来ない医者がいる。Mという精神科医である。
私は三十代前半のころ書痙で苦しんでいたことがあった。何しろ右手で小さい字が書けな
いのである。最初は整形外科で色々な検査をして貰ったが何にも異常はないとの診断だっ
た。それで、精神的なものだろうということになって、M医師にカウンセリングやロール
シャッハ・テストなどの心理検査をして貰った。しかし、取り立てて異常はないとのこと。
そこで、私は尋ねた。
「先生、治るでしょうか? 字が書けなかったら、仕事できないんです」
すると、M医師は答えて言った。
「左手がありますよ。訓練してみてください。一ヶ月くらいで書けるようになります。私
が知っているお方で、Yさんという人がおられるんですが、この方は両手が痙攣して、手
では書けなくなりました。色々治療しましたが、だめでした。するとYさんは右足の小股
に鉛筆を挟んで書こうとなさいました。二ヶ月くらいたつと足で書けるようになりました。
書けるようになると、不思議なことに右手が動き出したんですね。これには私も驚きまし
た」
私は、その話を聞いているうちに、その医師の顔が輝いて見えた。そうだ、まだ私には
左手がある。そう心の中で呟くと、急に今までの苦労がすっと軽くなったような思いがし
た。言われた通り一ヶ月練習すると、何とか読める字が書けるようになった。都合原稿用
紙百枚くらい書いたころであった。そうして五、六年左手で書いていると、次第に右手を
使いたくなった。ある日、右手を使ってみると、なんと、書けるではないか。私は、M医
師に感謝した。
歳を取るに従って、職場の人間関係からくる葛藤が心の奥に溜まって淀んでいた。その
ことだけが原因ではないかもしれないが、あるとき急に狭心症のような発作を起こした。
車での通勤途上だったので、危うく車もろとも数メートル下の田んぼに落ちそうになった。
運良く同僚が通りかかったので、近くの病院に連れていってくれた。医師は狭心症の疑い
あり、と診断した。そして、I市の総合病院に移された。内科での検査入院の結果は「異
常なし」。そこで、私はふとM医師のことを思い出した。
「M先生はまだこの病院におられますか?」
私が看護師に尋ねると、まだ勤務しておられます、という返事。私は嬉しくなって、早
速診察のお願いをした。
「車の運転も出来なくなったのですね。それから、一人でいると不安に襲われる……」
M医師は、カルテに記しながらときどき私を優しい眼差しで見つめた。半白の頭と額の
皺に二十年間という長い時間を感じさせた。
「じゃ、三ヶ月ほどゆっくり休んでください。仕事のことが気にかかるでしょうが、こ
れは、天が与えた休暇です。ありがたいことです」
「えっ、三ヶ月もですか」
「そうです。でもね、あっと言う間に経ちますよ」
私は、三ヶ月という時間が長すぎると思いながらも、内心はこの診断に感謝していた。
天が与えた休暇なのだから。
……あれから、また十数年たって、またここへ舞い戻った。私は、生得病院というとこ
ろと縁が切れないようだ。そう思いながら、またうとうととしていた。あの不気味な音は、
朝方しばらく途絶えていた。
明くる朝、例のトイレのドアを開けてみた。ぐわっ、という間の抜けたような音が響い
た。「なんだ、油切れじゃないか」。私は確認してほっとした。朝日の中でぐわっと鳴る
ドアの響きはすこぶる滑稽でもあった。
食事が終わってから、窓の下の庭園を恐々覗いてみた。すると、二十年近い前に内科に
入院していたときにスケッチした六角形の藤棚が、まだそのままの姿でどっしりと居座っ
ていた。藤の幹はずいぶん太くなっていた。私は退院するまでに、またスケッチしようと
思った。こういうときに、こういう場所で、新たな仕事が生まれたことが私にある力を与
えた。
「おはようございます。よく眠れましたか? 検温ですよ」
昨夜の看護師の明るい声が部屋中に響いた。とともに、別の看護師が慌てて駆け込んで
きた。
「――さんの容態がおかしくなったわ。早く来てください!」
部屋の他の五人はその声を聞いて、誰も起き上がった。
二人の看護師は廊下へ飛び出して行った。
「――さん、とうとう駄目か」。誰かがそう言うと、急に静まり返った。しかし、部屋
を出て様子を見ようという者はいなかった。妙な静けさが部屋中に染み渡り、私は息苦し
くなった。
私が部屋を出て廊下を見渡すと、突き当たりの個室に医師や看護師が出たり、入ったり
していた。その人はどんな人か私にはわからなかったが、突然、一目見たいという気持ち
が湧き起こり、足だけが別の生きもののように動き出した。
部屋の前まで行くと、その個室には面会謝絶の表示がしてあり、ドアが固く閉まってい
た。私はドアに耳を寄せて声を聞いた。中にはもう家族や親戚の人が幾人か来ているらし
かった。何か分からないが、ひそひそ話しているのが聞こえてきた。
いきなりドアが開いて、看護師が顔を出した。私がいるのを咎めるような目つきをしな
がらドアを閉めた。その瞬間、その患者の横顔が見えた。たくさんのドレーンで繋がれた
体からは生きものとしての実感は湧かなかった。修理中のロボットのような気がした。し
かし、私には、その人の横顔が心なし微笑んでいるように見えた。安息の時間を迎えよう
とする喜びを最後の力で表現しているのだ、と思った。
父も母も祖母も弟も笑みなど浮かべなかった。私は家族が死んでいったときの表情を思
い出していた。私はどういう顔をして最期のときを迎えるだろうか。せめてこの患者のよ
うに笑みを浮かべていたいものだ。そう思った。そして、私は自分の部屋にゆっくりと歩
いて行った。
ベッドの横の物入れから盆と鉛筆と紙を取り出してコートを羽織ると私は部屋を出た。
そして、非常階段を一段一段降り始めた。エレベーターは禁物。中に一人でいると気分が
悪くなることがあった。
外に出ると、寒さが体の芯まで染み込んできた。私は、藤棚の下のベンチに腰掛けた。
そして、盆を膝の上に乗せ、その上に紙を置き、デッサンを始めた。葉っぱのない藤の蔓
は虚空を掴み取るように空へ伸びているような感じがした。寒い、寒い、と心の中で呟き
ながら線を引いていった。どうしてこんなことをするのか。そういう反問も芽生えてきた。
仕事。仕事。今日の仕事。一人でそれに答えながら描き続けた。
ふと、また、あの人の笑みが浮かんできた。あの人の笑みは、私の心の投影だったかも
しれないと思った。すると、どこからか藤の枯れ葉が一枚飛んできて、紙の上に描いた蔓
の上に止まった。 (了)