とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

演歌

2010-08-29 14:32:26 | 日記
演歌



「歌い手には一生に何度か、ごく一時期だけ歌の背後から血がしたたり落ちるような迫力が感じられることがあるものだ」
 この言葉は五木寛之の『ゴキブリの歌』(毎日新聞社・昭和四十六年刊)からの引用である。タイトルは「艶歌と援歌と怨歌」。ここで取り上げられている「歌い手」は藤圭子である。藤圭子? 今更どうして? いや、急に懐かしくなって思い出したんです。父は浪曲師、母は三味線弾き。東京の裏町を母と流して歩いていた。後、石坂まさをに見出され「新宿の女」を出し、大ブレイクする。この頃学生運動は激しさを増し、若者は深い挫折感を抱いていた。「下層からはいあがってきた人間の、凝縮した怨念が、一挙に燃焼した一瞬の燃焼」だと五木は感じ、「口先だけの援歌よりこの怨歌の息苦しさが好きなのだ」と結んでいる。
 私は若い頃カラオケで藤圭子の歌ばかり歌っていた。何が私を歌わせたか。考えてみると、あの引きずるような暗い歌いかたと歌詞と影を宿した表情が私の当時の心象と共鳴したからかも知れない。歌い出すと「またかやー」と言われた。でも、歌い続けた。しかし、今、私はあまりカラオケで歌わない。歌いたい歌がないからだろう。いいメロディーの歌いやすいものはいくつかあるが、何か胸の奥にズンと響いてくるものがないのである。
 現在は「演歌」と表記されている歌を五木のように三種類に分類すると、「怨歌」が姿を消したような感じがする。こう思うのは私だけであろうか。私は、今の時代こそ「怨念が、一挙に燃焼した」ような歌が登場してもいいのではないのかと思っている。(文中敬称略)
                            (2006年投稿)

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