アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

朝鮮学校の差別・窮状はひとごとではない

2018年01月23日 | 朝鮮半島・在日コリアン差別と日本

     

  先週の17日、神奈川県の朝鮮学校に通う265人の児童・生徒の保護者118人が、神奈川県(黒岩祐治知事)が「教科書に拉致問題が記載されていない」ことを理由に朝鮮学校だけ学費補助金を打ち切った(2016年度から)のは「不当な差別で人権侵害にあたる」として、神奈川県弁護士会に人権救済を申し立てました。

  生徒や保護者は報道陣に、「私たちは民族の言葉や文化を学びたいだけなのに」「存在を認めてほしいだけなのに」と訴えました。(18日付神奈川新聞)

 また昨年末、「財政難 朝鮮学校廃校へ 大阪 高校無償化対象外響く」の見出しで、こんな記事がありました。

  「在日コリアンの多い大阪府の朝鮮学校で生徒数最多の東大阪朝鮮中級学校(大阪市生野区)が来年(2018年)3月末で移転し…事実上廃校になる見通しとなった。…高校無償化制度の対象外となった影響や府の補助金不支給による財政難が要因」(2017年12月29日付中国新聞=共同配信)
 「朝鮮学校は近年、生徒の減少や統廃合が全国的に進む。文部科学省によると、2008年度以降の10年で学校数は77校から66校となり、生徒数は約8800人から約3千人減の約5800人に」(同)

  児童・生徒にはなんの関係もない「拉致問題」などの政治問題を口実に、朝鮮学校だけを無償化制度から除外したり補助金をカットする。安倍政権や神奈川県、大阪府などの所業が、憲法に反し、人権を蹂躙していることは明白です。生徒数の減少も、費用負担やヘイトスピーチなどの差別が影響していることは明らかです。(写真は高校無償化からの排除に抗議する朝鮮学校の生徒ら)

  ここで考えたいのは、こうした差別で朝鮮学校が存亡の危機に立たされていることを、私たち日本人はひとごとのように傍観してはいないだろうか、ということです。

  朝鮮学校の差別・窮状に対し、私たち日本人には、憲法違反の差別・人権侵害を許してはいけないという一般論にとどまらない重大な責任があります。

  そもそも、朝鮮学校とは何でしょうか。

  「朝鮮学校とは、朝鮮語を授業用語として、在日朝鮮人の子どもたちを対象とする、在日朝鮮人によって運営されている学校のこと」(朴三石氏『知っていますか、朝鮮学校』岩波ブックレット)です。

 そして、「在日朝鮮人とは、日本による朝鮮への植民地支配の結果、日本で暮らすようになった朝鮮半島にルーツをもつ人びととその子孫の総称」(同)です。

  すべての根源は、帝国日本による朝鮮侵略・植民地支配にあります。

 日本は植民地支配で朝鮮人から言語・文化を奪い(同化政策)、名前を奪い(「創氏改名」)、土地を奪い、直接間接に強制的に日本に連行しました。その結果、日本に在住しているのが在日朝鮮人です。

 その朝鮮の人びとが、日本(人)に奪われた言語・文化・民族のアイデンティティを取り戻そうとするのは当然すぎるほどの権利です。その場所が朝鮮学校にほかなりません。

 したがって朝鮮学校を差別し廃校に追い込むことは絶対に許されることではありません。いいえ、本来、被害を与えた日本(人)の方から朝鮮学校を整備し教育条件を整えるべきです。それが植民地支配の罪に対するせめてもの償いではないでしょうか。

 敗戦後、在日の人たちは真っ先に朝鮮学校(当初は民家を使っての寺子屋)をつくり子どもたちへの教育に力を注ぎました。しかし、日本政府は度重なる文部省通達などでこれを妨害しました。

 そんな中、5年間(1950~55年)朝鮮学校に勤務し、その前進に尽力した日本人教師がいました。梶井陟(のぼる)さんです(1988年没)。梶井さんは朝鮮学校での生活を振り返ってこう述べています。

 「『日本の子どもたちが、ゆたかな日本人として育てられなければならないのと同じように、朝鮮人の子どもも、やはりゆたかな朝鮮人に育てられなければならない。しかもそれは過去の償いとして、日本人自身が積極的に認めなければならないことだ』という、こんな単純明快な論理が、わたしの五年間にわたる朝鮮人学校生活を支えていた」(梶井陟著『都立朝鮮人学校の日本人教師』岩波現代文庫)

 この「単純明快な論理」を心に刻み込みたいものです。

     

 

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