アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
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「関東大震災大虐殺」の真因は流言飛語か

2023年09月01日 | 侵略戦争・植民地支配の加害責任
   

 100年前の関東大震災時(その後の波及も含め)に発生した朝鮮人らに対する大虐殺は、流言飛語のデマによるものだった、というのが通説(俗説)ですが、これは正確な捉え方でしょうか?

 流言飛語が引き金だったとしても、その背景・根底にはより重大な問題があり、そこにこそ着目しなければならないのではないでしょうか。

 外村大・東京大大学院教授は、大震災4年前の朝鮮の「三・一独立運動」に対する帝国日本の武力鎮圧(写真中・右)、その翌年(1920)の朝鮮居住地での住民虐殺に触れ、こう指摘します。

忠君愛国のイデオロギーの強化と、対外膨張の戦争の繰り返しと植民地領有、反抗する者への弾圧という日本帝国の施策が、震災時の朝鮮人虐殺の原因を作った。1923年の虐殺は明治以来の日本帝国の帰結である」(「世界」10月号)

 愼蒼宇(シン・チャンウ)法政大教員は、同様の視点から、さらに具体的にこう詳述しています。

<これまでの研究は、虐殺の背景に日本による苛酷な朝鮮植民地支配と日本の官憲・民衆双方のなかで育まれた朝鮮人蔑視が虐殺に影響したことを指摘してきた。しかし、両者が具体的にどのように虐殺に作用していったのか、植民地支配に関する関心が薄い日本史研究のなかから重要な方向性が提起されることはなかった。

 朝鮮史研究者・姜徳相は、流言の発生は民族独立運動を展開する朝鮮人を敵視する官憲グループ(軍隊と警察)にあると指摘した。日本軍隊、警察、在郷軍人の朝鮮民族運動への弾圧経験が関東大震災時に戒厳令のもとで発揮されたことを指摘し、当時の臨時震災救護事務局警備部の中枢は植民地戦争の第一線にいた日本帝国主義の先兵であることを明らかにした。

 ここでいう植民地戦争とは、甲午農民戦争(1894-95)、日露戦争と義兵戦争(1904-1915)、三・一運動(1919)、シベリアの独立戦争(1918-22)、間島虐殺(1920)のことであり、姜徳相は震災時の虐殺(1923)をこの植民地戦争の延長線上に位置づけたのである。

 当時の日本官民の多くは、たとえ朝鮮人虐殺に直接加担していなくても、朝鮮での植民地戦争を郷土部隊の朝鮮駐屯という形で経験し、郷土新聞などを通じて、朝鮮人=「反日暴徒」「不逞鮮人」という、植民地主義的な朝鮮人像を内面化していた。

 重要なのは、朝鮮人虐殺を震災という非常時の混乱のなかで起こった、一部の人間による、一過性の出来事としてのみ考えるべきではないということである。関東大震災時の朝鮮人虐殺の本質に迫るには、関東大震災だけを見ていてはならない。朝鮮での苛酷な植民地支配と、軍事的には植民地戦争の延長線上にあり、植民地戦争の国家犯罪すべてとの関連で捉えることが重要である。>(愼蒼宇氏「関東大震災時の朝鮮人虐殺の歴史的背景-日本軍隊の植民地戦争経験から」、在日本朝鮮人人権協会発行「人権と生活」6月号所収)

 姜徳相(カン・ドクサン、1932~2021)は著書『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社2003年)で、さらにこうも書いています。

「この集団虐殺は、大規模災害による民衆の怒りが場合によっては皇室や治安当局に向かわないかと心配した官憲首脳部の術策(である)」(8月30日付ハンギョレ新聞より)

 関東大震災時の大虐殺は、流言飛語による一部の日本人の一過性の犯罪ではない。それは天皇制国家の植民地支配、植民地戦争の延長線上の、官民一体の国家犯罪だった―瞠目すべき指摘です。

 だからこそ、日本政府は今日に至るまで一貫してその実態調査すらしようとせず、小池百合子都知事ら右翼歴史修正主義者らと一体となって真相の隠ぺいを図っているのです。

 「デマによる集団心理」の危険性を指摘する場合も、この本質に迫らなければ、不十分なだけでなく逆に問題の核心を逃がしてしまうことになるでしょう。
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