<性的被害 社会運動でも 「ほとんど泣き寝入り」 被害女性、構造的改革訴え>
9月28日の琉球新報社会面トップに、こういう見出しの衝撃的な記事が載りました(写真)。
記事の要点は、①2018年1月、沖縄県内の「社会運動を行う団体のメンバー」から女性が、「運動団体の宿泊施設広間」で性的嫌がらせを受けた②女性は団体に謝罪と対応を何度も強く求めた③団体は同年3月に「勉強会」をもち、同4月に「謝罪文」を掲示、同7月「セクハラ防止ガイドライン」を策定④被害女性は「これまで見過ごされてきた社会運動の場での性差別や性暴力への対応は急務」と訴える。
ジャーナリストの乗松聡子さんは3日付の琉球新報(不定期コラム「乗松聡子の眼」)で、この問題を取り上げています。
乗松さんは、「日本の新聞は性暴力報道に及び腰」の中、「琉球新報があえて運動の中の性暴力・セクハラを報じたことは画期的なこと」と指摘。昨年9月のツイッターアカウント(「すべての馬鹿げた革命に抗して」)によれば、社会運動に参加したことがある女性の9割以上が運動内でセクハラを体験・目撃しているというアンケート結果があることを紹介し、この問題の根深さに警鐘を鳴らしています。
そして被害者が声を上げようとすると、「運動を割る」「権力側を利する」などの口実で「隠蔽圧力が掛かる」ことで、「被害者はますます孤立感を味わう」と指摘します。
「人権を重んじ差別に反対する「社会運動」でセクハラや性暴力が起きる」のはなぜか。
乗松さんは、「これらの世界でもいまだに圧倒的な男性支配の構造が続いているからである。ジェンダーギャップが国際的にも最悪レベルと言われる日本では、保革を問わず性差別がまん延しており、社会運動だけに真空状態が存在するはずもない」と指摘。
「被害者の言葉を受け取る者たちの責務は、彼女らを孤立させないことだ」と強調しています。
(この論稿は乗松さんのブログに転載されています。http://peacephilosophy.blogspot.com/2021/10/by-sexual-violence-within-social.html)
これは人権、ジェンダー差別の問題であるだけでなく、社会・市民運動の根幹にかかわるきわめて重大な問題です。琉球新報が大きく取り上げたことは確かに画期的ですが、それに3年かかっているところにも、問題の根深さがあります。
「民主主義」や「人権」を標榜する運動体でなぜセクハラ・性暴力がなくならないのか。
乗松さんの指摘は重要です。運動体内だけでなく、外では「熱心な活動家」が、家庭では「亭主関白」という話は少なくありません。被害者に対し「権力側を利する」といって隠ぺい圧力をかけるのも、運動体特有の詭弁です。社会運動だけが「真空状態」であろうはずがありません。
同時に、「社会運動の中のセクハラ・性暴力」には、他にも考えるべき原因・問題があるのではないかと思います。ここでは問題意識の一端だけ書きます。
それは、「社会運動の中の性暴力」と「戦争・軍隊における性差別・性暴力」との親和性です。
戦中・戦後、日本の「民主・平和運動」は、過酷な国家権力との「たたかい」を標榜してきました。その運動者は「たたかう者」であり、自らを「闘士」とし、団体は「たたかう組織」とされてきました。
その結果、「たたかう組織」の中で、女性が「たたかう男」を支えるというジェンダー差別、男尊女卑が当たり前とされてきました。戦中・敗戦直後の「共産主義運動」、60年代後半の「学生運動」などにその傾向は顕著でした。
それは、男尊女卑の権化である天皇制の国家権力が、男を戦場に送り出し、女を「銃後」として「内助の功」を強調したことと、合わせ鏡ではなかったでしょうか。
そうした戦中・戦後の「民主・平和運動」の誤りが、十分検証され、教訓化されることなく、今日の「社会運動」「運動体」に残滓として継承されているのではないでしょうか。
ただ、そうだとしても、社会運動内のセクハラ・性暴力が、当時の運動の実態や歴史は知らないであろう若者たちの間にもまん延しているのはなぜか、という問題は残ります。
引き続き考えていきたい、考えねばならない問題と思います。