アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日曜日記229・今年の漢字は「死」

2022年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム
   今年の「日曜日記」はこれが最後になる。日本漢字能力検定協会が発表した「今年の漢字」は「戦」だった。予想通りだ。私は迷わず「死」をあげる。

 統一教会問題をあらためてクローズアップした安倍晋三元首相の銃撃死も、大きな出来事だったが、なんといっても「ウクライナ戦争」だ。今年の、いや、今後の日本と世界にとって比類ない重大事件だ。

 しかし、メディアのその報道は、プーチン、ゼレンスキー、バイデンら「政治家」の言動、「国家」間の動向に偏り、各国の市民への視点はきわめて弱い。とりわけ視野に入ってこないのは、両国兵士を含む市民の「死」だ。「ロシア軍の犠牲は数万人か」というニュースが、まるで戦果を誇示するかのように流される。「数万人の犠牲」とは、「数万人の死」ということだ。

 「死」がマスの数で表示・認識され、人間1人ひとりの最期、その家族・友人らの悲しみとして伝わってこない。それは戦争報道の最大の弊害だ。停戦・和平協議が最優先課題とされないことは、それと無関係ではない。

 戦争を1人ひとりの「死」、1人ひとりの人間に対する「殺人」と捉え直すことが、今、なによりも必要ではないだろうか。

 「ウクライナ戦争」だけではない。アフガニスタンにも、ミャンマーにも、難民キャンプにも、暴力や飢餓による何千、何万の「死」がある。
 そして、コロナ禍。永年の医療体制軽視政策の中で、日本で5万人以上が死亡している。

 今年見た映画で、印象に残っているのは、「PLAN75」と「ある男」。いずれも「死」がテーマだ。国家権力が仕掛ける「安楽死」。主人公の死の背景にある死刑(国家による殺人)。

 個人的には、母に「死」が訪れた年だった。
 グループホームのスタッフのみなさん、訪問診療の先生の誠意に包まれて見送ることができたのは、何より幸いだった。

 悲しみと安堵の交錯。次は自分の番だ、という思いが強まる。

 大腸がん手術から1年3カ月。抗がん剤を止めてから1年。体調はきわめて良好だが、いつ急変してもおかしくない。「死」が脳裏から去ることはない。

 しかし、それはけっして悪いことではない。「死を考えることは、生を考えること」とよく言うが、本当にそうだと思う。
 いつ訪れるか分からない「死」を思えば、これからの人生、何にどう使うか、真剣に向き合うことになる。

 「死」は怖い。怖いからこそ、誰の「死」もおろそかしてはならないと思う。
 世の中から「不幸な死」を少しでも減らすために、残りの「生」をどう使うか、死ぬまで考え続けたい。


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