アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日曜日記227・アイヌに学ぶ「国籍」のない世界

2022年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム
   琉球新報の文化面に「落ち穂」というリレーコラム欄がある。執筆者の一人、関根摩耶さん(アイヌ語、アイヌ文化発信者)の文章には教えられることが多い。

言語にはその世界観がまっすぐ籠っている」として、いくつかのアイヌ語を紹介してくれた。たとえば、「自分で自分の心を揺らす」と言って「考える=ヤイコシラㇺスイェ」、「互いに目をつなぐ」と言って「恋=ウオシㇰコテ」、「人間を持つ」と言って「尊敬=アイヌコㇿ」を表現するのだそうだ(11月17日付)。なるほど、と唸る。

 最新の「落ち穂」(3日付)で関根さんは、「日本人とは何か」と書き始め、こう続けている。

「日本の国籍を有する人か、日本語を話す人なのか、他者から容姿が日本人らしいと捉えられる人のことであるのか…それは立場や見ている側面によって変わるもので正解はないだろう。しかし、自分を表すカテゴライズの名称は自由であっていいはずだ。そして大切なことは、他者を表すときにはどうしても自分の都合が入ってしまうことを忘れずに、当事者がどう感じるかを想像し続けることだと思う」

「私にとっての心地のいい「アイヌ」という言葉は、国籍や容姿を問わずに「人間」を指していて、それもただの人ではなく、人として尊敬されたり、慕われ求められる人のことを意味している

 ますます唸るばかりだ。

 カタールから帰った森保監督は岸田首相を表敬訪問し、「日本人であることの喜び誇り幸せにつつまれた」と述べた(8日)。この時に限らず、同氏はインタビューなどでしばしば「日本」「わが国」を口にした。おそらくそれは特別な思想ではなく、「日本代表監督」という立場が普通に言わせるのだろう。

 しかし、非常に気になる。「スポーツとナショナリズム」の関係が問われている時だけになおさら気になる。「日本人であることの誇り」とは何なんだ。

 関根さんはこう書いている。

「これからの時代、個人として世界とつながる機会が増えていく中で、自分を構成する要素は広がっていくと思う。ある意味国籍や、自然などという概念を明確に持たない(自然と一体化しているという意味だと思う―私)、アイヌ語のような世界観に近づいていくかもしれない

 近づいていくといいな。「アイヌ語の世界観」からもっと学びたい。
 でも、何もしないで「近づいていく」とは残念ながら思えない。「自然という概念」はともかく、「国籍という概念」のない世界には近づけたい。どうすれば近づけることができるだろうか?



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