岸田文雄政権は3月31日、ウクライナの首都の呼称をロシア語由来の「キエフ」からウクライナ語読みの「キーウ」に変更すると発表しました。「チェルノブイリ」も「チョルノービリ」にすると。
日本のメディアはこの政府発表を受け、2日からいっせいに呼称を変更しました。政府の方針に忠実に従ったものです。ここには見過ごせない問題があります。
第1に、なぜ岸田政権は呼称変更したのでしょうか。
「国の象徴とも言える首都の呼称を変えることで、先進7カ国をはじめとする国際社会と連携し、ロシアによる侵攻が続くウクライナへの連帯を示す狙いがある」(1日付琉球新報=共同)
呼称変更は戦争の当事国であるウクライナと背後で操るアメリカはじめNATO(北大西洋条約機構)陣営との一体化を図るきわめて戦略的な狙いによるものです。
第2に、この戦略的呼称変更を主導したのが、防衛省だということです。
松野博一官房長官は3月15日の記者会見では、「ウクライナ側から問題があると申し入れを受けたわけでもない」と、呼称変更には消極的でした。
「ところが二週間後の二十九日、自民党の会合で「キーウ(キエフ)」と表した防衛省の資料が配られ、三十一日には各省庁の文書をウクライナ語読みに統一すると政府が発表した」(6日付東京新聞「こちら特報部」)。
呼称変更は防衛省が主導し、官邸がそれに続いたものです。
第3に、「ロシア語禁止」はウクライナの極右勢力の基本戦略だということです。
ウクライナは歴史的に多言語国家です。ところが、「マイダンクーデター(革命)」(2014年、写真)によって、親ロ政権を倒して権力を掌握した勢力がまずやったことの1つが、ロシア語を公用語として使えなくすることでした。
「国家権力は最高会議に移り、矢継ぎ早に重要決定が行われた。その中にはスヴォボーダが提出したロシア語を公用語から外す法案もあった。その後の東ウクライナの混乱を決定づけることになるこの愚かな法案は、すんなり可決されてしまった」(岡部芳彦・神戸学院大教授著『マイダン革命はなぜ起こったか』ドニエプル出版2016年)
「スヴォボーダ」とは、「ウクライナ語にこだわる極右政党」(岡部氏、前掲書)です。
今回の呼称変更は極右の「愚かな」ロシア語排除戦略の延長線上にあると言って過言ではないでしょう。
こうした政治的・戦略的問題を含む岸田政権による呼称変更。日本メディアはそれに唯々諾々追随し、それが日本社会に流布することになるのです。(私は、少なくともウクライナ戦争が終わるまでは、呼称変更しません)
3日夜の岸田首相会見(写真左)。最も注目されたのは、ラジオフランスの西村カリン記者の質問です(写真中)。
「ウクライナ情勢と報道の自由について質問します。現在日本政府はウクライナに対し危険情報レベル4を発出しています。どのような目的であれウクライナへの渡航をやめて下さいという意味です。報道の目的も含まれています。したがって現地の取材ができない日本のマスコミは海外の報道陣に頼ってしまいます。報道の自由の観点からも、日本人向け報道の独立性の観点からも、望ましくない状況だと思われますが、総理の意見を聴かせてください」
「危険情報4」は知っていましたが、まさかメディアの取材まで事実上禁じているとは思いませんでした。岸田首相はこう答えました。
「報道の自由の重要性は認識しているが、報道関係者も含め、目的のいかんを問わず、ウクライナへの渡航はやめていただきたいとお願いしている。同国は激しい戦闘が行われ命の危険がある緊迫した状況であり、ご理解、ご協力をお願いしたい」
メディアに対しても事実上渡航を禁じていることを認め、それを改める考えはないと答えたのです。
これはきわめて重大な問題です。いうまでもなく現場取材は報道の基本中の基本。それが危険を伴う場合は、取材の可否、方法はメディア自身が決めることです。政府がそれを規制するのは、国家権力による報道の自由の抑圧、市民の知る権利の侵害に他なりません。
さらに重大なのは、この国家権力による報道の自由の抑圧に対し、メディア側はなんの異議申し立てもせず、唯々諾々と従っていることです。これはメディアの自殺行為と言わざるをえません。
「報道の自由の観点からも、日本人向け報道の独立性の観点からも、望ましくない」と首相の見解をただした西村さんは外国(フランス)メディアの記者です。日本の記者たちは恥ずかしくないのでしょうか。西村記者の質問と岸田首相の答弁を報じメディアもありませんでした(私が見た限り)。
西村記者は首相会見のあと、自身のツイッターにこう書いています。
「報道の自由とは何か?明らかに日本の政府やマスコミの考え方は、私やフランスマスコミの考え方と異なる」「正確な情報を得るのは国民の知る権利であり、自由だ。その報道の自由を認めない社会は、自分の知る権利を犠牲にする社会だと思う」
西村記者が指摘した「日本人向け報道の独立性」の問題もきわめて重要です。これは言い換えれば、他国(アメリカ、ウクライナ、ロシアなど)の政府やメディアに依存しないでウクライナ情勢を報じるということです。日本のメディアはそれを放棄しているのです。
注意深く見れば、NHKなどの映像は外国メディアの引き写しが多く、画面の隅に発信元が書かれています(写真右)。新聞やデジタル版の記事も、アメリカ政府の発表や「インターファクス・ウクライナ通信」などウクライナ情報の引用が目立っています。
「ウクライナ戦争」は歴史の分岐点ともいえるものです。これを現地で直接取材するのはメディアの基本的な使命です。繰り返しますが、どこで、何を、どのように取材するかはメディア自身が決めることです。決して国家権力の指示・決定に服してはなりません。
それでなくても瀕死状態の日本のメディア。今政府の規制・抑圧を跳ね返さなければ、文字通り息の根が止まってしまうでしょう。
岸田文雄内閣が4日、成立しました。メディアは自民党総裁選直後から、その顔ぶれを予想し、組閣後は「新内閣の方針」「新閣僚の抱負」などと大きく報じました(写真右は4日夜のNHK)。これはきわめて異常で滑稽なことです。なぜなら、この岸田内閣は実質わずか10日間の超超短命内閣だからです。
岸田首相は就任直後の記者会見(写真中)で、今月14日に衆院を解散し、31日に投票という総選挙日程を表明しました。すでに数日前から、「会期末の14日に衆院解散に踏み切る公算が大きくなった」(2日付中国新聞=共同)といわれていましたから、これは既定方針です。
14日に衆院が解散されれば、その時点で衆院議員は議員資格を失い、岸田内閣は事実上終了します。つまりこの内閣は「三日天下」ならぬ「10日内閣」なのです。総選挙後に次の首班指名・組閣が行われるまで、現内閣が実務面で継続することになりますが、それを考慮しても「4週間内閣」です。
にもかかわらずメディアは、派閥均衡がどう、新入閣がどうなどと内閣の顔ぶれや岸田氏の発言を細かく報道しています。実質10日の超超短命内閣をこれほど詳細に報道する意味がどこにあるでしょう。まったく無意味であり、その報道ぶりは滑稽でさえあります。
問題は、この異常な報道が、たんに無内容・滑稽なだけでなく、重大な政治的意味(意図)を持っていることです。
第1に、今回初入閣した13人(20閣僚中13人という高い割合)や再入閣の自民・公明議員は、選挙ポスターに「〇〇大臣」という肩書を記しアピールすることができます。これは総選挙においてきわめて有利です。沖縄担当相になった西銘恒三郎氏(沖縄4区)などはその典型です。
第2に、一般的に組閣直後は「御祝儀相場」という意味不明な慣習(国民性)によって、内閣の支持率は高くなります。今回の総選挙はその「御祝儀相場」の中で行われることになります。これが組閣直後の解散という日程にした最大の狙いです。この自民党戦略は以前から分かっていたことでした(9月16日のブログ参照)。
メディアは知ってか知らずか(おそらく知った上で)この自民党戦略にまんまと乗り、「10日内閣」の異常報道で「御祝儀」をつり上げているのです。
第3に、ただでさえ「御祝儀相場」があるうえに、今回のように内閣の顔ぶれ、「抱負」などを詳しく報道すれば、「せっかく新しい内閣ができて、新閣僚もやる気なんだから、すぐに辞めさせないで、すこしやらせてみよう」という、これまた日本人特有の意味不明な“温情”が広がる可能性は、けっして小さくありません。それはすなわち、総選挙において、自民党にきわめて有利だということです。
自民党総裁選から「10日内閣」に至るまで、自民党とメディアが一体となった異常報道。それが自民党の思惑通り総選挙を有利にするかどうか―。試されているのは有権者です。
テレビやネットで中継される首相会見で司会を務める小野日子(おの・ひかりこ)広報官の、記者の質問を遮る不当な進行が目に余ると以前書きましたが(5月16日のブログ)、17日の会見でもそれが顕著に表れました(写真中の右端、写真右は日経新聞のサイトより)。
午後7時から始まった会見。菅義偉首相の冒頭発言(18分)に続いて質疑応答に入りました。はじめに幹事社の東京・中日新聞・清水記者が質問の最後に、「なお、今回も再質問に応じていただくように」と発言(確認)しました。
小野広報官の進行は、首相の答弁から間髪入れず次の質問者を指名するもので、再質問の時間をあけないようにしようとする意図がありありとうかがえます。
朝日新聞記者の「東京五輪開催」に関する質問(7人目)で、聞いていることにまともに答えない首相に対し、朝日の記者は自席から声を出して答弁を求めました。この時、小野広報官は「自席からの発言はお避けください」と記者を抑えようとしました。
さらに、中国新聞記者が「公選法違反の河井元法相夫婦へのカネの流れ」について質問した際(10人目)、やはり質問にまともに答えない菅首相に記者が自席から答弁を求めたのに対し、再び小野氏が「自席からの発言はお避けください」と発言しました。
また小野氏は、フリーランスの記者(13人目)が「G7サミット」について自身の見方とともに質問している最中に、「質問をお願いします」と途中で記者の発言を遮りました。
こうした小野氏の進行は、明らかな質問遮断・妨害であり、絶対に容認することはできません。冒頭の幹事社・清水記者の発言から分かるように、「再質問」については記者クラブと官邸広報の間で事前に了解されているはずです。だとすれば、事実上再質問を封じる小野氏の進行は、記者クラブとの申し合わせにも反します。
今回の2人の自席からの発言も、質問にまともに答えない菅首相に再度答弁を求めたにすぎません。再質問というより再確認です。事実、首相会見の中継を見たことがある人なら、菅首相が質問にまともに答えない(答えられない)ことにはイライラ感が募るはずです。こうした首相を相手にするのですから、再質問・再確認は必須です。それを封じることは、無内容な首相会見をさらに無内容にするものと言わねばなりません。
しかし、こうした不当な会見進行を小野氏が自分の判断で行っているとは考えにくいことです。小野氏は一広報官であり、高額接待で辞任した山田真貴子氏の後任として今年3月就任したばかりです。小野氏は上司の指示に従っているだけでしょう。小野氏にこうした不当な進行を指示しているのは誰なのか。杉田和博官房副長官か、加藤勝信官房長官か、菅義偉首相自身か。
もうひとつ気になるのは、小野氏が山田氏の後任に抜擢されたのが、「後任はやはり女性に」とする菅首相の意向だったと言われていることです。相次ぐ女性広報官の起用。それは「女性活躍」などではなく、質問を遮る不当な進行を女性のソフトな印象で包みたいという意図ではないでしょうか。だとすればこれもジェンダー差別の一種と言わねばなりません。
記者の自席からの発言・再質問・再確認を封じる司会進行は直ちにやめさせなければなりません。記者クラブは公式に抗議すべきです。それは「報道の自由」「市民の知る権利」への重大な侵害であり、メディアを支配しようとする独裁政権の所業にほかならないからです。
ジャーナリストの伊藤詩織さんがTBS記者(当時)の山口敬之氏から性暴力(レイプ)被害を受けた事件(2015年4月)は、山口氏に損害賠償を求めた民事訴訟で伊藤さんが勝訴しました(2019年12月18日、東京地裁、写真中)。
しかし山口氏は、「所詮、民事だ。民事でどういう判決が出ようと、私は(刑事訴訟で)不起訴になっている。それで完了している」(2019年12月18日の記者会見、写真左)と居直りました。
証拠があるにもかかわらず山口氏が刑事訴訟で「不起訴」になったことには当時から疑問があり、背景に山口氏と親しい安倍晋三首相(当時)の存在(官邸の指示あるいは忖度)があるのではないかとの疑念がもたれていましたが、山口氏自身がそれを示唆するような菅義偉官房長官(当時、現首相)との関係を、最新の雑誌で吐露しています。
その雑誌は、安倍政権擁護の御用雑誌として知られる「月刊Hanada」11月号(写真右)。「ありがとう!安倍晋三総理」なる特集を組み、その中で山口氏が「「菅総理誕生」影の立役者は麻生太郎」と題する一文を寄せています。
そこで山口氏は、かつて菅氏に総理になることを進言したことがあるとして、こう書いています。
<二〇一六年、私は菅氏と二人で食事をする機会があった。…そこで私は菅氏に、こう水を向けた。
「憲法改正という安倍政権の最重要課題は、総裁任期中に結実しない可能性がある。しかし、ポスト安倍で名前が挙がる石破氏らが政治生命をかけて憲法改正に取り組むようには見えない。それならば、あなたが総理となって安倍政治を継承すべきではないか」>
安倍政治を継承して「憲法改正」を結実させるべきではないかと進言したことを得意げに書いていることにはあらためてあきれますが、ここでは2016年に菅氏と「二人で食事」をしたということに注目します。
伊藤さんが被害に遭った事件の事後経過はこうでした。
2015年4月3日 都内のホテルで被害
4月30日 被害届と告訴状を提出
2015年8月26日 検察へ書類送検
2016年1月 検察が山口氏を聴取
5月30日 山口氏、TBS退社
7月22日 不起訴
2016年とは山口氏が「不起訴」になった年です。現役記者が官房長官と「2人で食事」することは通常考えられません(それが行われたとすればそれはそれで問題)。おそらくこれはTBS退職後、すなわち2016年6~12月のことでしょう。それはまさに、山口氏が「不起訴」になった前後だったわけです。
菅氏とのサシの会食で山口氏が「不起訴」を懇願したか、あるいは「不起訴」の礼を言ったか。それはもちろん明らかにされていませんが、山口氏の「不起訴」と安倍政権(官邸)、そして菅現首相との関係の疑惑はさらに深まったと言わねばなりません。
河井克行前法相・愛里参院議員の逮捕、イージス・アショアの挫折、先の見えないコロナ対策、「モリ・カケ・桜・黒川」問題、「支持率」急落など、満身創痍の安倍晋三首相が苦境に立つはずだった記者会見(18日)。
しかし会見は、安倍氏の言いたい放題、独演会の場となりました。あきれるやら、腹が立つやら。しかしやがて、それは戦慄に代わりました。この日の会見は無内容な居直り会見と片付けることができない重大な意味を持っていると思うようになったからです。それは、日本がいま重大な地点・岐路に立っていることを暗示する会見でした。
18日の安倍会見の特徴を、会見の順に沿って挙げてみましょう。
① 政権の腐敗への居直り… 安倍氏は河井夫婦の逮捕について、「遺憾」「責任がある」と言いながら何ら責任をとろうとせず、「すべての国会議員は襟を正す必要がある」と責任転嫁しました。どんな違法・腐敗が発覚しようと、まったく責任を取ろうとしない。それが日本の国家権力であることをあらためて見せつけました。
② 翼賛野党への「感謝」… 立憲民主、国民民主などは今国会(17日閉会)で安倍政権の緊急事態宣言の根拠となった特措法「改正」案、第1次、第2に補正予算案にことごとく賛成しました(日本共産党は第2次補正のみ反対)。そのことについて安倍氏は会見冒頭で、「協力いただいたすべての野党に心から感謝する」と述べました。
③ 「新しい国家像」 新型コロナウイルスに関連して安倍氏は、「ポストコロナ」の「新しい国家像」を打ち出す必要がある強調しました。
④ 憲法「改正」への異常な意欲… 「新しい国家像」の流れで安倍氏が強調したのが「憲法改正」。「任期中(来年9月)に改正する決意はまったく変わらない」「国会議員の力量が試されている」と文字通り拳を握りしめました。
⑤ 新たな軍事体制方針… 抽象的でつかみどころのない「コロナ対策」とは対照的に、安倍氏が具体的に示したのが、「新たな安全保障体制のあり方をこの夏に打ち出す」こと。イージス・アショア停止問題で対米従属の軍備拡張に反省が求められている中、それとは真逆に、新たな軍事体制方針を打ち出すと断言しました。何度も口にしたのは「抑止力とは何か」。米軍と一体となってさらに攻撃的な体制へ向かう危険性が濃厚です。
⑥ メディアの迎合… 質問した記者は10人。「幹事社」(フジテレビと産経新聞)の質問項目は、「河井問題」「東京五輪」「解散・総選挙」「憲法改正」(この産経記者は質問というより督促)。その他の記者から、「拉致問題」「宇宙防衛」「海外との通商」「総裁任期」「ポスト安倍」「防衛新方針」「財政不安」「海外邦人救出」。「河井問題」「財政不安」を除けば、すべて安倍首相にとって痛くもかゆくもない、いやむしろ持論を吹聴したいテーマばかり。会見が安倍独演会となったのは、こうしたメディアの“助力”があったればこそです。
重要な局面で市民が聞きたいことは聞かず、政権に迎合する質問ばかり。メディアの退廃・腐敗も来るところまで来た感があります。
以上の安倍会見の全体から見えてくる日本の立脚点は―。
「コロナ禍」を逆手にとって「新しい国家像」を打ち出して国家主義を強める。そのために「憲法改正」は必須(自民改憲草案の第1条は「天皇元首」化)。その柱は「安全保障体制」=軍事体制の新たな方針・強化。そうした政権の暴走に歯止めをかける責務がある国会は、すでに主要な法案に賛成する翼賛国会と化している。市民に代わって国家権力を監視すべきメディアは退廃・腐敗を極め、政権に迎合し国家権力と一体化―。
まるで戦前の日本の再現ではないでしょうか。
戦前と違うのは、いま私たちの手にあるのが「天皇主権」の帝国憲法ではなく、「主権在民」の憲法だということ。しかし、その憲法も主権者が行使しなければ絵に描いた餅です。
黒川弘務東京高検検事長の「賭けマージャン・辞任」は、懲戒処分でもない「訓告」でお茶を濁し、6000万円の退職金までつけて身を引かせようとするもので、市民を愚弄するにもほどがあります。責任があげて安倍晋三首相にあることは明白で、安倍内閣は即刻総辞職すべきです。
同時に、今回の「賭けマージャン」問題がもつ重大な意味は、それだけではありません。
新聞などメディアが今回のことで共通して問題にしているのは、①検察幹部が賭博という犯罪を犯していた②コロナ緊急事態宣言で政府が外出自粛を求めている最中だった③国会で検察庁法改正案を審議中だった―の3点です。マージャンの相手だった産経新聞の記者(次長と司法担当記者)、朝日新聞社員(元司法担当記者)の責任を問う声も、この3点が理由でしょう。
上記3点が問題であることは言うまでもありません。しかし、問題はそれだけでしょうか。外出自粛要請中でなく法案審議中でもなく賭けマージャンでなければ、問題はないのでしょうか。「識者」らのコメントはそうなっています。
たとえば、ジャーナリストの大谷昭宏氏は、「相手の懐に入って情報を取るのはメディアの常とう手段。きれい事では済まない。マージャンもゴルフも付き合いの中で必然的に出てくる」としてうえで、「懐に入るのと癒着は違う」と述べています(22日付共同配信各紙)。
山田健太専修大教授(言論法)も、「取材対象に食い込むため、さまざまな方法で信頼関係を築く必要性に言及し『食事やマージャンは許されないことではない。…全て禁止されたら記者は困るだろうし、知る権利が損なわれる』」(同)としています。
こうした考えはおそらくメディア関係者に共通するものでしょう。市民もそれを是としているように思われます。しかし、この考えこそが、権力とメディアの癒着を生み、メディアを劣化・退廃させている元凶ではないでしょうか。
大谷氏や山田氏に代表される上記の主張には、解決不能な危険性と、根本的な問題の取り違えいがあります。
解決不能な危険性とは、「懐に入る」ことと「癒着」の区別は不可能だということです。
大谷氏はその「違い」として、「この記者たちは黒川氏に厳しいことも書けるのか」と問いかけていますが、きくまでもなく「厳しいこと」など書けるわけがありません。書くつもりもないでしょう。書かないからこそその関係が3年も続いてきたのです。
マージャンや食事をしながら「厳しいこと」、相手の痛いところを記事にすることは不可能です。書いた時点で「懐に入る」関係は遮断されます。「懐に入る」ことと「癒着」は同義と言って過言ではありません。
根本的な問題の取り違えとは、取材対象(国家をはじめとする諸権力)の「懐に入る」「食い込む」「信頼関係を築く」ことを記者としての取材の一環だとしていることです。
取材対象(権力)とのマージャンや食事は取材などではありません。権力とのマージャンや食事でつくられるとする「信頼関係」とはいったいどんな「信頼関係」なのでしょうか。
仮にマージャンや食事が「取材」だとすれば、それは相手が公式の場(会見など)では言わない(言えない)ことを、ふと漏らすことを期待することでしょう。それをリークと言います。リークで記者は他の記者が知らない情報を得た(場合によっては特ダネを得た)つもりになるかもしれませんが、それは相手(権力)から言わせれば、情報操作です。本来公表すべき情報を隠し、小出しにして記者を手玉に取っているのです。
記者の本来の取材とは、相手(権力)が絶対に漏らすことのない核心的事実を地道な取材で調べ上げること、すなわち調査報道です。ロッキード事件もリクルート事件もそうでした。調査報道にマージャンや食事は必要ありません。
マージャンや食事で「懐に入る」ことを「常とう手段」として肯定するのは、本来行うべき調査報道を行わないメディアの劣化の自己弁護にほかなりません。
今回の「黒川賭けマージャン」問題で改めて教訓にすべきは(これまで何度もその機会はありましたが)、「常とう手段」「常識」として肯定されている権力の「懐に入る」関係、癒着の構造に今度こそメスを入れ、真の権力の監視者として調査報道を抜本的に強化し、メディアの再生を図ることではないでしょうか。
NHK朝ドラ「エール」は20%台の高視聴率のようです。主人公のモデルは、作曲家の古関裕而(1909~1989、写真左)。朝ドラが取り上げたことにより、古関に関する新刊本もいくつか発行され、新聞でも取り上げられ、ちょっとした「古関ブーム」の様相があります。
なぜいま古関裕而なのでしょうか。昨年が生誕110年だっただけではないでしょう。古関裕而とはいかなる作曲家だったのか。4つのキーワードでみてみましょう
第1に、「東京五輪」です。
古関の代表曲の1つは、1964年10月10日の東京五輪開会式で流された「オリンピックマーチ」です。朝ドラの初回放送が東京五輪のシーン(写真中)から始まったことからも、古関を取り上げた意図に「東京五輪」への協賛があったことは間違いないでしょう。
朝ドラと並ぶNHKのもう1つの看板番組である大河ドラマも、前回は東京五輪をテーマにした「いだてん」でした。しかし「いだてん」は大河史上最低の視聴率に沈み、「エール」は放送が始まる直前に「東京五輪1年延期」が決定しました。
第2は、「軍歌(戦時歌謡)」です。
古関の作曲した曲は約5000曲といわれていますが、その中の多くは軍歌です。「満州征旅の歌」(1931年)を皮切りに、「露営の歌」(37年)、「南京陥落」(同)、「麦と兵隊」(38年)、「暁に祈る」(40年)、「『戦陣訓』の歌」(41年)、「若鷲の歌」(43年)など、代表的な軍歌は軒並み古関の作曲です。
「エール」の風俗考証も担当している刑部芳則氏(日大准教授)は、「日中戦争が起きなければ、古関は古賀政男や服部良一と肩を並べて、昭和の三大作曲家になることはできなかっただろう。…戦時中(は)古関メロディーの独壇場となったのである」(『古関裕而』中公新書2019年)と述べています。
時代の潮流に迎合して軍歌を量産した古関の戦争責任は軽視できません。
「一連の“飛行機もの”というべき軍歌は…予科練への憧れをかきたてた。なかでも映画『決戦の大空へ』の挿入歌『若鷲の歌』は大ヒットし、多くの少年を予科練志望へと駆り立てた。…戦争末期になると、予科練生は満足な訓練を受けることなく、その多くは特攻隊員となって戦死している。軍歌が若者を死地へといざなった顕著な例だったといえる」(小村公次著『徹底検証 日本の軍歌』学習の友社2011年)
第3は、「自衛隊」です。
東京五輪開会式(64年)で古関の「オリンピックマーチ」を演奏した中心は陸・海・空の自衛隊音楽隊でした。
1961年、自衛隊は「創立10周年」(警察予備隊から数えて)を記念して、陸上自衛隊歌「この国は」「君のその手で」を、さらに71年には「創立20周年」を記念して陸自歌「栄光の旗の下に」、海自歌「海を行く」をつくりましたが、作曲はすべて古関です。このほかにも古関は「自衛隊関連の歌をいくつも作曲している」(刑部氏、前掲書)のです。
戦争責任の自覚もなく、敗戦後も軍歌(自衛隊歌)をつくりつづけてきたのが古関裕而です。
第4は、「天皇(制)」です。
1928年11月10日、天皇裕仁の即位式が行われました。それに先立ち、古関は「御大典奉祝行進曲」なる曲を作曲しています。まだ19歳、銀行に勤務していた時です。
1940年9月、皇族の北白川宮永久が中国侵略戦争に従軍して事故死したさい、「嗚呼北白川宮殿下」なる歌がつくられました。作曲を指名されたのは古関でした。
前述の「オリンピックマーチ」について、古関はこの曲に「隠し味」を入れたと自ら述べています。それは、「曲の最後に君が代の後半のメロディーを入れた」(「サンデー毎日」1964年11月1日号、刑部氏前掲書より)ことです。開会式に名誉総裁として臨席する天皇裕仁を意識していたことは間違いないでしょう。
「東京五輪」「軍歌」「自衛隊」「天皇(制)」―この4つが結合した作曲家が古関裕而だったと言えます。その古関をNHKが今年の朝ドラのモデルに取り上げたのは、安倍政権下の現在の政治情勢と決して無縁ではないでしょう。
安倍政権による日常的な報道圧力・メディア攻撃に、新型コロナウイルスの危険が相乗し、「報道の自由」が重大な危機に瀕しています。
新聞労連や民放労連などでつくる「日本マスコミ文化情報労組会議」(MIC)は4月21日、コロナ禍における「報道の自由」に関するアンケート調査の結果を公表しました(調査対象は新聞社や放送局の社員やフリーランスなど報道関係者、有効回答214人。アンケート実施時期は2月下旬から。調査方法はオンラインアンケート)。主な結果は次の通りです(MICのHPより)。
▶現在の報道現場で「報道の自由」が守られていると思うか。
守られている …15・9%
守られていない …57・9%
どちらともいえない…26・2%
▶現在の報道現場で「報道の自由」を阻害している要因は?(複数選択可)
1、報道機関幹部の姿勢 …82・7%
2、政権の姿勢 …68・7%
3、報道機関中間管理職の姿勢…60・3%
4、不安定な雇用形態 …21・0%
▶現在の報道現場で感じている「危機」について(自由記述、以下ピックアップ)。
・記者勉強会で政府側から「医療崩壊と書かないでほしい」という要請が行われている。「感染防止」を理由に対面取材も難しくなっており、当局の発信に報道が流されていく恐れがある。
・政府や自治体の長がいうことを検証もせずに垂れ流してしまっている。現場の声よりも政治家の声を優先して伝えてしまっていることに危機感を持っている。お上のお墨付きがないと、今がどういう状態なのか、判断できない。
・コロナとの関連で会見がかなり制約され、入ることさえできなくなった者もある。不都合な質問を受けて、できるだけ答えを出したくないという意図も感じる。
・テレワーク推進後、現場に入る記者が減り発表原稿が増えた。コロナとバッシングの怖さから現場を見ていなくてもやむを得ない雰囲気がある。
・外出自粛が求められているなか、会社が明確な取材ルールを示していない。現場の判断に丸投げ。
・権力側がコロナ以外の重要事案をケムに巻いていないか。そちらを追及しようとすれば、世論からも「今なのか」と批判にもさらされる。その批判が権力の暴走を許しかねないのに、目先を追うことに精一杯になっている。
・他国では報道されているコロナ治療の最前線の医療現場さえ、日本では報道されていないことに危機感を覚える。
・社が社員に渡せるマスクをほとんど用意できていない。記者の安全は社が考えるのではなく社員が個々人でなんとかやっている状態。情けない。
こうしたアンケート結果を受け、MICは、「感染防止を理由に対面取材が難しくなったり取材制限が始まったりしているが、大本営発表の過ちを繰り返してはならない。批判すべきは批判することが大切だ」(4月24日付共同配信)とコメントしています。
まさに危機的状況です。自らの感染の恐怖ともたたかいながら、安倍政権による取材制限・圧力にさらされ、会社幹部の無知・無能の下、現場記者の悲痛な声が響いています(「報道の自由」を阻害している要因として「政権の姿勢」よりも「幹部の姿勢」をあげている記者が多数なのは驚くべき実態です)。
このアンケートは安倍政権が緊急事態宣言を発する前のもので、その後、事態はさらに深刻になっていると推測されます。
「報道の自由」は言うまでもなく、「市民の知る権利」と表裏一体です。「報道の自由」を守るたたかいの最前線にいる現場の記者たちには頑張ってほしい。その“たたかう記者たち”を応援するのが私たちの責任です。