あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

悲哀の浪人革命家 ・ 西田税

2018年03月28日 09時56分02秒 | 末松太平

昭和九年暮の
十一月二十日事件は完全に捏造事件だった。
中公新書 「 二・二六事件 」 の著者も、
「 村中ら三人は、陸軍士官学校辻政信中隊長が生徒をスパイに使っての策謀と、
 陸軍省片倉衷少佐、 憲兵隊塚本誠大尉の術中に陥ったのである。
そして彼らは完全に無実であった。
戦後 田中清氏が、この日の片倉少佐の言動を私に話した内容からみても、断言できる 」 
 と いっている。
しかし 私は他人の言をかりるまでもなく、
自分自身で、これが捏造事件だったことを証明しうる。
私は別の意味で被害者だったのだから。
くわしいことは、ここでは書いてはおれない。
すでに拙著 「 私の昭和史 」 にくどいほど書いておいた。
が、つぎの叙述のつなぎに略述しなければならない。
私は 昭和九年十月、
千葉の歩兵学校に学生で派遣された。

 
   
末松太平澁川善助

派遣されるまえに澁川善助から、
この秋に東京はいよいよ蹶起するといってきていた。
私は二度と帰らないつもりで、身の廻りの整理をして青森を発った。
千葉にくると、
各地から歩兵学校にきている青年将校二十人ばかり結集して、東京の蹶起にそなえた。
が、いつまでたっても東京は蹶起する気配がなかった。
村中大尉に問いただすと
「 何かの間違いだろう 」
と いった。

私は腹立ちまぎれに
「 東京は、どうせ起つ気はないんでしょう 」
と いった。
流石温厚な村中大尉もおこって
「 起つときがくれば起つさ 」
と 私を叱りつけた。

予め たしかめなかった私も悪かった。
肝心の澁川善助は統天塾事件で収監され不在だった。
何かの間違いだろうと村中大尉にいわれ、
起つときがくれば起つさ、
といって叱られれば、
そうですか、
と ひき下がるほかはなかった。
が、私は腹の虫がおさまらなかったので、
見当違いの尻を西田税にもっていった。
「 東京の連中はだらしないですよ。
あんたも、この連中とはいい加減手をきって、
あんたは、あんた自身の才能を生かす政治の面に、
正面切って進んではどうですか 」
相手が西田税 だからいえる無警戒な、穏当を欠く いいがかりだった。
私は西田税の笑顔を予期していたが、
西田税の反応は意外に真剣で、しんみりしたものだった。

「 僕の存在が 君らの運動の邪魔になっていることは前から知っている。
できることなら 青年将校たちから、手を切った方が君らのためにもなるし、
僕自身も、君のいうとおり、僕に適した方面に進んだ方がいいと思う。
まだしたいことが沢山あるしね。
が、磯部君などが、いろいろ相談を持ちかけてくるんでね 」

もちろん正確に、この通りにいったわけではない。
が、記憶をよびおこすと、西田税は大体こんな意味の述懐をしたように思う。
自分の存在が青年将校運動の邪魔になると、
卒然といいだした西田税のことばは、
当時私にとってはショックだったし、いまだに忘れえない。
十月事件以来の西田税の心の疵に、私のことばが、まともにふれたのだと思った。
しかも私は 十月事件のときの轍をふむまいと用心して、
このとき千葉で結集した青年将校たちを、つとめて西田税に近づけまいとしていた。
西田税の、浪人であるが故の悲哀を、
私は非情に衝いたことになったと思って内心狼狽した。

「あんたが邪魔になるなんて、そんなことはありませんよ」

内心の狼狽をかくして、私は西田税の心の疵をかばおうとした。
こんなことまであったのに、
十一月二十日事件とやらいうものはデッチあげられて、
それを知ったかぶる者は、知ったかぶっている。

悲哀の浪人革命家・西田税
軍隊と戦後のなかで 末松太平 著 から


幕僚の策謀 『 やった、やった、スバイを使ってやった 』

2018年03月28日 05時30分43秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

< 昭和九年十一月 >
二十日の日、私は兵要地誌班の部屋で池田純久と雑談していた。
そこに片倉が跳び込んできて 「 やった、やった、スバイを使ってやった 」 という。
二人がなにをやったのかときいたら、
「 村中、磯部をやった、これから大臣に報告にいく  」 といって部屋を出て行った。
池田は、おなじ軍隊で、スパイを使ってやったのやられたのとは全く不愉快だとつぶやいた。
私は村中と原隊はおなじ旭川の二十六聯隊で、村中が陸軍大学受験を志したとき、私が陸軍大学出というので、
個人教授 ( 教官、試験管のくせや問題について ) みたいなことを、
一週間に二日ほど村中にやったことがあるので、村中には特別の親しさをもっていた。
それに あの頃の情勢は十分わかっていたので、なにが起きたか、わかった。
二十分ぐらいして片倉がもどってきて、「 さっきの話はきかんことにしてくれ 」  というから、
「 いやだめだ、もう耳に入っている。 しかし、いわんでおいてくれというなら、いっさいいわない 」 と 答えたら 片倉は
「 それでいい 」 と いってでていった。 ・・・田中 清少佐

  
片倉衷少佐          
辻正信大尉         村中孝次大尉   磯部淺一一等主計 片岡太郎中尉 

幕僚の策謀
『 やった、やった、スバイを使ってやった 』
所謂 十一月二十日事件
昭和9年
10月23日   片岡太郎中尉、武藤、佐々木、荒川、次木候補生に襲撃計画を語る
・・陸士予科の区隊長 歩兵中尉片岡太郎 ( 四十一期 ) は、
  高知県出身者の日曜下宿土陽会で、武藤与一他三名の質問に答え、

  歩一、歩三それぞれに千葉の戦車隊が参加し、政府高官や重臣を襲撃する・・・
  ・・・
士官候補生の十一月二十日事件
  同志将校は、大蔵、安藤、村中の各大尉、磯部主計、栗原中尉・・・
  ・・・十一月二十日事件の経過

10月24日   
辻大尉、佐藤候補生、青年將校の内部偵察に関し密某す

10月28日
   佐藤候補生以下五名、磯部を訪問す
・・佐藤ハ此時、『 実行計画ハアルカ 』 『 軍刀ハ準備シアリヤ 』 『 青年將校ノ指導者ハ誰カ 』 等、質問す
10月28日   佐藤候補生他二名、
磯部と共に西田税を訪問す
・・西田宅には、大蔵榮一、安藤、野中、が在た  ・・・村中孝次 「 カイジョウロウカク みたいなものだ 」

11月3日   
佐藤、武藤候補生、村中宅を訪問す
・・佐藤は士官候補生のみにて臨時議会に直接行動を決行する決意ノアルのある事を
述べ、
  青年將校の實行計畫なるものを聞出さんと努めしも
  武藤候補生にたしなめられて質問を斷念中止して帰る

11月3日~10日 
( 辻大尉週番中 ) 佐藤の手引により、 佐々木、荒川、次木、武藤其他数名の士官候補生、辻大尉を訪問す
   辻大尉 ・・ 「 青年將校は不純分子である、青年將校は自ら蹶起するに非ずして、士官候補生を煽動利用せんとするものである 」

11月11日 (日) 
佐藤、武藤、佐々木、荒川、次木候補生、村中孝次宅を訪問 ・・村中、実行計画を語る
・・武藤ハ牧野伸顯邸ノ位置ヲ質シ、
  佐藤ハ候補生ノミニテ 輕機三挺ヲ以テ議會開會中ニ議會ヲ襲撃セント云ツテ
  實行計畫ノ開示ヲ強要シタルヲ以テ
  私ハ前述ノ如ク一先ツコノ興奮ヲ鎭壓スル爲
  青年將校ニモ決意ノアル事ヲ示サウト思ツテ
  實行計畫ナルモノヲ即席作爲シテ、兩名ニ示シタノテアリマス。
  此日武藤カ從來ノ傾向ト全ク異リ矯激ナ態度ニナツタノハ
  前項ノ辻大尉訪問ニ於テ同大尉ノ煽動示唆しさニヨリ
  私共ニ對スル一抹ノ不信頼ノ感ヲ抱イタノカ、
  或ハ 佐藤候補生カ 前回武藤ノ制止ヲ受ケタ失敗ニ鑑ミ
  武藤ヲ煽動シテ同人ノ口ヨリ計畫開示ヲ強要サセタ結果テアリマセウ。

11月11日 (日)  塚本憲兵大尉、辻大尉宅へ

11月12日 
佐藤候補生、村中との会見内容を辻大尉に報告す

11月15日 
歩兵砲学校終業式

11月16日 
辻大尉、北野生徒隊長に報告
、片岡中尉、生徒隊長から取調を受ける
   辻大尉、片倉少佐と會見、同夜 片倉少佐宅を訪問し佐藤の報告に關し連絡す

11月17日 
新宿宝亭慰労会

11月18日 (日) 
佐藤、佐々木、荒川、次木候補生、村中孝次宅を訪問
・・佐藤、しつこく村中にくい下って時期の明示を迫る
11月18日  佐藤候補生、再度村中宅へ
 ・・佐藤ハ各種ノ口實ヲ設ケテ決行時機ヲ探索セントシ、 
   又 佐藤ハ武藤ヲ西田宅ニ到ラシメ、軍政府ノ首班ハ誰テアルカト探ラセテ居リマス。

  ( 11月18日以前に辻大尉は塚本大尉ニ内報す )
   夜  塚本大尉、辻大尉を訪問す ・・片倉少佐に會見すべき旨の勧告を受る。

11月19日 
佐藤候補生、筆記報告を辻大尉に呈出 ・・辻正信、生徒隊長 北野憲造大佐に報告す
   午前中、辻大尉、片倉少佐に連絡す
   塚本大尉、片倉少佐を訪問 ・・概要を聴取 ・・是れを城倉憲兵中佐に報告す
   城倉中佐、片倉少佐から内報を受けた後塚本大尉の報告をける
   午後四時、片倉少佐、辻大尉に連絡す・・午後4時頃  塚本憲兵大尉、参謀本部に片倉少佐を訪る 
   此日辻大尉、佐藤候補生を取調
   塚本大尉、憲兵司令官に報告す ・・午後九時~ 20日午前三時迄 憲兵司令部会議・・検挙決定す
・・片倉少佐の話によれば、辻は佐藤候補生から、
「 陸大生の村中大尉、野砲一の磯部一等主計らの急進将校は、
十二月初め、兵力をもって臨時議会を襲い、同時に重臣および政府要人を襲撃することを計画している。
急進将校は部隊、学校に所属しているが、その中心勢力は 歩一、歩三である 」
との 報告を受けた
・・・憲兵 塚本誠の陸軍士官学校事件
片倉の口から
「 いま省部では 軍務局長永田鉄山少将、軍事調査部長山下奉文少将、

 参謀本部第二部長磯谷廉介少将 の 三人で対策を協議している 」
と 聞く、驚いて憲兵司令部に帰り、司令官の田代皖一郎中将に報告した。
夜九時すぎである。

田代皖一郎中将  持永浅治大佐   橋本寅之助中将
持永浅治東京憲兵隊長は 「 こんなことはいつもの事です 」
と、あまり問題視していなかったが、田代司令官は橋本陸軍次官に相談に出かけた。

その夜更け、事件のもみ消しを恐れた辻は塚本と片倉を誘い、
寝静まった次官の私邸に塀を乗り越えて入り、
穏便に事を済まそうとしている橋本次官にハッパをかけて帰った
・・・十一月二十日事件の経過

11月20日 
午前2時   塚本大尉、辻大尉宅へ ・・共に片倉少佐宅へ ・・三名同道して陸軍次官宅へ
・・「 本事件が世間に擴まるに從い青年將校にも洩れ、準備未完了でも決行するであろう 」
  と、強調シ弾圧を進言要請す。


11月28日 
第六十六臨時議会が開催日

12月末 
末松大尉、辻正信大尉宅で会見ス ・・・辻正信大尉

昭和10年

2月7日  村中孝次、三名を代表して片倉衷と辻正信を第一師団軍法会議に誣告罪で告訴す
・・・以上七項ヲ通覧スルニ、小官談話中目的、時機等最重要ナル點を擧ケテ
悉ク作爲捏造セルモノニシテ斷シテ誤解ニアラサルハ極メテ明瞭ナリ。
而モ右佐藤ノ陳述ヲ讀ミ聞ケニナリシ後、武藤ノ陳述ヲ讀ミ聞ケラレタリ。
コレニ依ツテ考察スルニ 武藤ノ陳述ハ多少ノ誤聞ト士官學校ニ於ケル訊問ニヨリ
多少佐藤ノ説ニ引キツケラレタリト疑ハルヽ點ナキニアラサルモ、
重要部分ニ於テハ殆ント小官ノ述ヘシ所ト符節ヲ合スル如クナルニ拘ラス、
同一事項ヲ二度反復耳ニセル佐藤カ
小官ノ陳フル所ト全ク表裏ヲ異ニスル所説ヲナスハ實ニ意外トスル所ニシテ
直覚的ニ小官等ヲ排陷センカ爲ノ作爲誣罔ナルコトヲ感知セシムルモノナリ。
而シテ斯クノ如キ捏造ハ佐藤候補生一人ノ能ク爲ス所ニアラスシテ、
片倉、辻ノ作爲カ否ラスンハ辻、佐藤ノ合作ナルコトハ敢テ想像ニ難カラサル所ナリ。
以上ノ事實ヨリ推論スルニ 小官カ佐藤士官候補生ニ向ツテ談話セシコトノ内容其儘ヲ以テハ
到底軍刑法ニヨり斷罪シ得サルコト明白ナルヲ以テ
片倉、辻ハ行政的解決ヲ企圖シ夫々當局ニ向ツテ策動シタルモノナルヘク
而モ佐藤カ小官宅ニ於テ諜知シタル事項ノ類ハ十月事件以降
直接行動乃至クーデター論トシテ既ニ俚耳ニモ洽あまねク 軍部ノ上下ハ勿論
民間同志ノ間ニ於テモ日常茶飯事トシテ論議シアルコトニシテ
今更問題視スヘキコトニ属セス、
況ヤ兩人等自ラモ口ニシ企圖シアルコトナルヲ以テ是レヲ以テシテハ
到底當局ノ發動ヲ促スヘクモアラサルコト明瞭ナリ。
玆ニ於テ佐藤ノ偵知事項ヲ基礎トシ之ヲ改竄かいざん歪曲遂ニ原形を留メサルニ至リシノミナラス、
醜惡人ヲシテ嫌忌増惡ノ念ヲ起サシムル内容ニ迄捏造シ
是レヲ以テ上司ヲ誣罔シ 玆ニ軍當局ノ發動ヲ見ルニ至リシモノナリ。
而シテ彼等ハモトヨリ検察處分ニ迄發展スル欲セサリシナルベシ。
蓋シ彼等ノ作爲ハ當然昭々乎タル明鏡ノ其假面ヲ剝カルヘキハ 僞作者自ラカ最モ明確ニ意識スル所ナレハナリ。
然レトモ叙叙上ノ如キ作爲誣罔ハ
當然ノ結果トシモ司直ノ發動ナルヘク彼等ノ欲セサルトニ拘ラス、
現實ニ於テ小官等ヲ誣告シタルモノナルコトハ否ムルヘカラサルモノナリトス。
片倉、辻兩人カ三月十九日深夜
本事件ヲ携ヘテ橋本陸軍次官ヲ往訪セルコトハ小官入所前 専ラ風評セラレタル所ナリ。
何カ故ニ兩人カ陸軍次官ヲ選定シテ直接ニ誣告セルカ、
又何カ故ニ殊更十九日深更ヲ選定セルカ大イニ疑惑ノ存スル所ナリ。
佐藤カスパイトシテ小官宅ヲ來訪セルハ前論ノ如ク疑フ餘地ナク、
然ラハ 十一月十一日歸校後
或ハ欲十二日、辻ニ偵察ノ結果ヲ報告セルハ亦理ノ當然ニシテ、
十八日ニ於ケル佐藤ノ態度ヨリ察スルニ其報告ニ基キ更ニ辻ヨリ第二次ノ命令ヲ受ケ、
小官ヨリ各種ノ言質ヲ得ント焦慮セシコト推想ニ難カラサルヲ以テ、
十一日或ハ十二日ニ於テ辻ニ報告シタルモノナルコトハ明確ニ推斷シ得ヘシ。
然ルトキ 辻ハ斯カル重大事項ヲ何カ故ニ上司ニ即刻報告スルコトヲ爲サスシテ一週日ヲ空過シ
其間一士官候補生ヲ駆使シテ再偵察ヲナサシムルニ留マリシカ、
何カ故ニ一刻モ速ヤカニ司直ノ手ニ移シテ捜査ヲ開始セシムルコトヲ爲サスシテ十九日ヲ待チ
而カモ深更突然橋本次官ヲ往訪セシヤ、實ニ一大怪事ト謂ハサルヘカラス、
小官ノ推測ヲ以テスレハ
是レ畢竟國家改造運動ノ内面事情ニ全ク不案内ナル橋本次官ヲ特ニ選定シ
臨時議會開催ノ直前ナル十九日而モ深更ヲ利用シテ、不意ニ橋本次官ヲ訪ヒ、是ヲ驚倒駭目セシメ、
如何ニモ一大陰謀カ目睫ノ間ナル臨時議會ヲ目標ニ著々準備セラレアリト信憑セシメシモノナランカ、
彼等ノ作戰ハ明カニ成功セルコトハ、
其後橋本次官カ周章シテ本問題解決ニ著手セルニ照ラシテ論證シ得ル所ナリ。
抑々本問題ノ如キ、若シ佐藤ノ述フル如クンハ到底士官學校単獨ニ處理シ得ルモノニアラス。
當然極秘梩ニ 且 最モ迅速ニ上申シ、司直ノ發動を待ツヘキモノナリ。
何ヲ求メテ 辻一個人カ職責上何等ノ関係ナキ片倉ノ許ニ走リ、
更ニ陸軍次官ヲ深夜衝動セシムルノ理アランヤ、
辻大尉トシテハ十九日夜ハ、當然徹宵校内ニアリテ取調ヘニ從事シ、
順序ヲ經、校長ヲ通シテ所要ノ捜査、処置ヲ行フタメ 一歩モ校門ヨリ出テ得サル狀態ナルヲ至當トス、
而シテ順序ヲ經ルイトマナキ焦眉ノ急ヲ要スル問題ナリト辯解スルナラハ
何カ故ニ 十一日或ハ十二日佐藤ヨリ報告ヲ受ケシ時、
直チニ上司ニ報告セサリシカ、小官ハ玆ニ於テ論斷セン。
片倉、辻兩人ハ密某ノ結果、殊更計畫的ニ発表時期ヲ留保シ置キ唐突ニ軍當局ヲ衝動シ、
當局ノ感受スル錯覚幻影ヲ大ナラシメ、決然一網打盡ノ掃滅ヲ小官等上ニ加ヘシメント欲セシモノニシテ、
彼等本来ノ目的ハ行政処分ニヨリ
陸軍ヨリ小官等ヲ駆逐スルノ決意ヲ当局ニトラシメント欲セシモノナルモ、
其誣罔捏造ノ結果カ當然司直ノ發動ニ至リシモノニシテ、
何レニセヨ小官等ヲ誣告スルノ結果ニ立チ至リシハ覆フヘカラサル事実ナルヲ斷言シテ憚ラサルナリ。
以上ヲ要約スルニ、片倉、辻兩人ハ從來ヨリ小官等ニ對シ敵意ヲ表シアリシカ、
辻ノ志願達成シテ士官學校中隊長トナルヤ、忽たちまチ腹臣トナルヘキ生徒ヲツクリ、
コレヲ密偵ニ仕立テ小官等ノ内部ヲ偵察セシメ 特ニ直接行動實行計畫ノ有無ヲ探索セシメタリ。
偶々小官カ即成架空ノモノヲ呈示スルヤ、得タリ賢シトナし、
尚重ネテ偵察ヲ命スルト共ニ其偵知内容ヲ改竄シ 當局ヲシテ決意發動シ得ル如キ程度ニ作爲捏造シ
機ヲ見テ軍首脳部ニ迫ツテ當局ヲ衝動セシメ 速ヤカニ處斷セシメント策動セシコト明瞭ニシテ
遂ニ司直ノ發動トナリシモノニナルヲ斷定シテ疑ハサルナリ。
而シテ單ニ小官等末輩ニ對シ刃を向クルハ所期ノ大目的ニアラススシテ
必スヤ林、荒木、眞崎 及其他ノ諸將軍ニ迄波及セシメント欲セシハ疑フ餘地ナシ、
而モ此目的ノ爲單ニ片倉、辻兩人カ策動セシニ止マラス、
陰邪醜惡ノ徒之レニ附和シ雷同シテ嫉視排擠ノ爲ニ馳駆奔走セルモノ多キハ
入所中風評ノ耳ヲ椋メルモノ鮮シト雖モ 彼等從來ノ動向ニ鑑ミ尚推想感知セシムルモノアリ。
斯クノ如キ皇軍内部ニ低迷暗流スル不快ナル空氣ノ一掃ハ本事件ヲ契機トシテ斷乎決行セサル可カラサル所、
此機會ニ於テ片倉、辻兩人ノ行動ヲ判然タラシメ 其背後ノ密雲妖氣ヲモ照出セラレンコトヲ切切願望ニ堪ヘサル所ナリ。
是レ小官カ敢テ片倉、辻兩人ヲ小官ニ對スル誣告ノ故ヲ以テ告訴スル所以ナリ。・・・粛軍に関する意見書 (5)

3月27日 
不起訴処分 ・・・法務官 島田朋三郎 「 不起訴処分の命令相成然と思料す 」

4月2日 
磯部が、片倉、辻、塚本の三人を告訴す・・・粛軍に関する意見書 (9)


4月5日 
停職処分 ( 行政処分 ) に
軍の内規によると、身分を保証せられた将校は恩給がつくまで行政処分できないが、
これを裁判にもかけずに断行したのです・・荒木貞夫・・・荒木貞夫が観た十一月二十日事件

4月24日
  村中の名前で二月に提出した告訴の追加を提出す
以上ノ如ク辻大尉、片倉少佐等ハ、
私カ士官候補生ニ話シタ實行計畫ナルモノニ信ヲ置イテヰナカツタト事ハ明瞭テアリ
コノ自ラ信シ得ナイモノヲ以テ 上司ヲ信セシメ 彈壓ノ決行ヲ促ス爲メニハ各種ノ方策ヲ必要トシ之ガ爲
『 計畫ナルモノ 』 ヲ 惡意的ニ作為捏造シ或ハ 統帥系統ヲ紊ツテ唐突ニ陸軍次官ヲ訪問強請シ
又ハ 『 青年將校ハ未然ニ發覚シタ事ヲ知ツテ準備未完了テアルカ切羽詰ツテヤルタラウ 』
トイフ詭弁的進言ヲナシ彈壓を要請シタリシタノテアリマセウ。
以上縷術ろうじゅつシマシタ事カラ歸納シテ 彼等カ虚僞ノ申告ヲシタト云フ事ハ極メテ明白ナ事実テアリマス。
『・・・佐藤候補生カ青年將校ノ煽動ヨリ諸君ノ脱離セシメンコトヲ期シ 身ヲ挺シテ其ノ渦中ニ入リ
 諸君ヨリ裏切者トシテ斬ラルル事ヲ覚悟シテ立チシ行動ヲ容認シタルハ我ナリ。
諸君ヲシテ臺上ヨリ去ラシムルカ如キ狀ジョウ到ランカ・・・我正ニ死ヲ以テ諸君ニ謝セン、
諸君ノ手ニヨリテ瞑目スルヲ得ハ望外ノ幸ナリ・・・ 三月十三日 』
要スルニ佐藤候補生ハ辻大尉ノ掌頭ニ躍ラサレテ私共ノ情況ヲ探索シタモノテアル事ハ明カテアリマス。
人各々思想ト信念トヲ有シ、其異ナルニ從ツテ正々堂々ノ論争ヲ爲ス事ハ必然的現象テアリ、
社會進化ノ爲絶對的必要ノ事テアツテ、同シク 大元帥陛下ノ股肱テアツテモ、
軍人全部ニ機械的劃一ヲ望ミ得ナイノハ勿論 各々其ノ信スル所ニ向ツテ邁進スルノハ當然テアリマスマイカ。
同シク 陛下ノ股肱テアル軍人同士ニ於テ私利私黨的観念カラ スパイ行動ヲ敢ヘテシテ迄モ
排擠ニ是レ務メルニ至ツテハ斷シテ許スヘカラサル統帥大權ノ冒瀆テアリ、
國軍内部ノ攪亂テアリ、皇軍ノ破壊行爲テアルト申サナケレハナリマセヌ。 ・・・粛軍に関する意見書 (8) ・・(  西田が執筆して、大蔵栄一が清書 )

5月8日 
磯部淺一、第一師団軍法会議に出頭し、告訴理由を説明す

5月11日 
村中孝次、陸軍大臣と第一師団軍法会議あてに上申書を提出す
・・私共一部ノ青年將校ハ今日ニ至ル迄 上下一貫、左右一體ヲ標語トシテ軍ノ鞏固ナル維新的結束ニ努力シ
コレヲ以テ維新御奉公ノ主要事項トシテ終始シ來レルモノニシテ
私共ヲ目シテ直接行動ヲ企圖スル不穏分子トスルハ 寧ロ軍内一部ノ士カ軍事費捻出等ノ苦肉策トシテ
青年將校ノ不穏行動勃發ヲ頻りニ喧傳シテ 政界財界ヲ脅威恫喝スルヲ常套手段トセル結果ニヨルモノニシテ
私共ハ其他各種ノ中傷讒誣さんぶヤ彈壓ヲ甘受シ隠忍シテ 敢テ縅黙ヲ守リ只管擧軍一體ノ御維新翼賛ヘト努力シ來レリ。
膽然ルニ十一月廿日事件ナル虚構事實ニ驚駭目セシメラレ 且 本事件ト表裏ノ關係ニアル誣告ノ告訴ハ審理進展セス
加フルニ最近ニ於テハ一部青年將校 ( 恐ラクハ十一月廿日事件ノ證人關係 ) ノ昭和六年以降ノ行動ヲ數ヘ擧ゲ 是レヲ罪惡視シテ嚴重ニ處分スヘキ旨
陸軍當局ヨリ全軍ニ令達セラレタルヤノ風聞アリテ人心正ニ沸騰ノ徴アリ、
昭和六年以降ニ於ケル三月事件、十月事件其ノ他ノ國體破壊行動ヲ不問ニ附シ
國家ヲ思フカ故ノ純情熱意ノ下ニ奔走不休日夜ヲ辯ヘサルモノヲ、
青年將校ナルカ故ニ 階級ノ卑シキ者ナルカ故ニ無道ニ彈壓スルカ如クンハ
皇軍ノ紀綱ハ全ク崩壊シテ遂ニ救フ能ハサル結果ニ堕スルハ火ヲ睹ルヨリ明カナリ
私儀  深ク之ヲ憂フルカ故ニ自己一身ニ關係スルコトナルヲ憚ラス
敢テ私見ヲ具申スルモノナリ  幸ニ微衷ヲ諒トセラレンコトヲ  ・・・粛軍に関する意見書 (2) 上申書

5月13日 
磯部淺一、第一師団軍法会議に出頭し、告訴理由を説明す

7月11日 
肅軍に關する意見書 」 印刷、配布す

7月13日 
栗原、坂井、齋藤瀏宅へ  ・・・栗原中尉と斎藤瀏少将 「 愈々 正面衝突になりました 」

7月16日 
眞崎敎育總監更迭

8月2日 
村中孝次、磯部淺一、免官

8月12日 
相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


いうところのクーデター計画は、
片倉のところで整理され、彼によって新たに加筆されたのである。
・・・この摘発はデッチ上げによるものだった。
だから村中は、刑務所に収容中、辻、片倉を誣告罪で告訴し、
磯部も刑務所から開放されると、片倉、辻、塚本の三人を誣告罪で訴えた。
村中は再三再四、誣告罪による取調べを開始するよう当局に要請したが、何の反応もなかった。
彼等は四月出所と同時に行政処分としては再局限の停職処分をうけた。
停職になると六ケ月は復職はできないし、そのまま一年たてば自然に予備役に入ることになっていた。
彼等は停職中の五月頃、三長官に対し、粛軍に関する意見書を出し、その中で、誣告罪の取調開始を訴えた。
だが、これも梨の礫だった。
とうとう村中、磯部は、七月上旬、「 粛軍に関する意見書 」 と 題する小冊子を印刷して全軍にばらまいた。
いかった軍当局は、彼等を免官にしてしまった。
虎を野に放ってしまったのである。
だが、十一月事件および これに伴う陸軍の処置は拙劣だった。
なぜ、誣告罪の審理をやらなかったのか。
軍法会議が証拠不十分ならずとして不起訴処分にした以上、誣告罪の疑も十分の筈、
皇道派の弾圧に急して、統制派の不純策動を不問にしたのは、どのような理由があったにしても、軍の粛軍態度ではなかった。
この事件を契機として陸軍は大揺れに揺れて、二・二六の破局に至るのであるが、その原動力は、村中と磯部であった。
野に放たれた虎は青年将校を駆って、暴れに暴れた。
相澤事件後、陸相の任についた川島大将は、彼等の懐柔策として、村中、磯部の外国留学を考え、
山下少将その他の民間人を使って、彼等を打診したと伝えられていたが、時はすでに遅かった。
すでに彼等は錚々たる革命の闘志となっていたのである。
林陸相の下、明智をうたわれた永田軍務局長にして、この過失があったことは、くれぐれも残念なことと思われる。
・・・ 十一月二十日事件をデッチあげたは誰か