昭和九年暮の
十一月二十日事件は完全に捏造事件だった。
中公新書 「 二・二六事件 」 の著者も、
「 村中ら三人は、陸軍士官学校辻政信中隊長が生徒をスパイに使っての策謀と、
陸軍省片倉衷少佐、 憲兵隊塚本誠大尉の術中に陥ったのである。
そして彼らは完全に無実であった。
戦後 田中清氏が、この日の片倉少佐の言動を私に話した内容からみても、断言できる 」
と いっている。
しかし 私は他人の言をかりるまでもなく、
自分自身で、これが捏造事件だったことを証明しうる。
私は別の意味で被害者だったのだから。
くわしいことは、ここでは書いてはおれない。
すでに拙著 「 私の昭和史 」 にくどいほど書いておいた。
が、つぎの叙述のつなぎに略述しなければならない。
私は 昭和九年十月、
千葉の歩兵学校に学生で派遣された。
派遣されるまえに澁川善助から、
この秋に東京はいよいよ蹶起するといってきていた。
私は二度と帰らないつもりで、身の廻りの整理をして青森を発った。
千葉にくると、
各地から歩兵学校にきている青年将校二十人ばかり結集して、東京の蹶起にそなえた。
が、いつまでたっても東京は蹶起する気配がなかった。
村中大尉に問いただすと
「 何かの間違いだろう 」
と いった。
私は腹立ちまぎれに
「 東京は、どうせ起つ気はないんでしょう 」
と いった。
流石温厚な村中大尉もおこって
「 起つときがくれば起つさ 」
と 私を叱りつけた。
予め たしかめなかった私も悪かった。
肝心の澁川善助は統天塾事件で収監され不在だった。
何かの間違いだろうと村中大尉にいわれ、
起つときがくれば起つさ、
といって叱られれば、
そうですか、
と ひき下がるほかはなかった。
が、私は腹の虫がおさまらなかったので、
見当違いの尻を西田税にもっていった。
「 東京の連中はだらしないですよ。
あんたも、この連中とはいい加減手をきって、
あんたは、あんた自身の才能を生かす政治の面に、
正面切って進んではどうですか 」
相手が西田税 だからいえる無警戒な、穏当を欠く いいがかりだった。
私は西田税の笑顔を予期していたが、
西田税の反応は意外に真剣で、しんみりしたものだった。
「 僕の存在が 君らの運動の邪魔になっていることは前から知っている。
できることなら 青年将校たちから、手を切った方が君らのためにもなるし、
僕自身も、君のいうとおり、僕に適した方面に進んだ方がいいと思う。
まだしたいことが沢山あるしね。
が、磯部君などが、いろいろ相談を持ちかけてくるんでね 」
もちろん正確に、この通りにいったわけではない。
が、記憶をよびおこすと、西田税は大体こんな意味の述懐をしたように思う。
自分の存在が青年将校運動の邪魔になると、
卒然といいだした西田税のことばは、
当時私にとってはショックだったし、いまだに忘れえない。
十月事件以来の西田税の心の疵に、私のことばが、まともにふれたのだと思った。
しかも私は 十月事件のときの轍をふむまいと用心して、
このとき千葉で結集した青年将校たちを、つとめて西田税に近づけまいとしていた。
西田税の、浪人であるが故の悲哀を、
私は非情に衝いたことになったと思って内心狼狽した。
「あんたが邪魔になるなんて、そんなことはありませんよ」
内心の狼狽をかくして、私は西田税の心の疵をかばおうとした。
こんなことまであったのに、
十一月二十日事件とやらいうものはデッチあげられて、
それを知ったかぶる者は、知ったかぶっている。
悲哀の浪人革命家・西田税
軍隊と戦後のなかで 末松太平 著 から