「東京がやるというのは本当かね。」
私は鶴見中尉と顔を合わすや、いきなりこう聞いた。
「こんどは本気らしいですな。」
この鶴見中尉の返辞で、私は万事了承といった気になった。
なんどか東京通いを務めたあげく、私は鶴見中尉の意見をきいた。
「どうも変だよ、そう思わないか。」
「私もそう思っているところですがね。」
「貴様、大岸大尉と このことで話し合ってきているのか。」
「いや、話していません。東京の様子によって意見をきくつもりにしていたのですが・・・」
「じゃ、大岸大尉は何も知らないのか。」
鶴見中尉は奈良という地理的関係もあって、和歌山の大岸大尉とは密接だった。
いい加減にしておくことはできなかった。
はっきりさせなければならなかった。
村中孝次
ある日 村中大尉をつかまえて私は膝づめ談判をした。
「一体やるのですか、やらないのですか。」
「いまさら、なんのことだ。」
村中大尉はけげんそうな面持ちだった。
「澁川はこの秋には東京は起つといっていたが・・・・」
「それはなんかの間違いだよ。」
私はここで欝憤をぶちまけた。
「東京の連中は、いずれにしても起つ気はもうないんでしょう。」
流石に温厚な村中大尉も憤然とした。
「やるときがくればやるさ。」
いつもは蒼白いほどの顔面を真赤にして、激しい語調で叱りつけるようにいった。
・
村中大尉を私は何も好んで問い詰めたわけではなかった。
いい加減きまりをつけないと渡り鳥には帰る時期がある。
歩兵砲学生は十一月十五日が終業式である。
その日がせまってもいたのである。
・
いよいよ鶴見中尉らの歩兵砲学生が千葉を去る時期が迫っていたころだった。
東京から歩兵砲学生の送別会を開きたいから 新宿の宝亭 に集まるようにといってきた。
当日宝亭の大広間に集まったのは相当の人数だった。
正面の席には早淵中佐、満井中佐らの先輩格も坐っていた。
歩兵学校グループはこの送別会にでることに、あまり気乗りしていなかった。
いまさら宴会でもあるまいといった気持だった。
偶然丸亀から小川中尉、江藤少尉、金沢から市川少尉が上京していて、これに出席していた。
酒がほどよくまわったところで市川少尉が立ちあがって、東京は何をぐずぐずしているか、
早く蹶起せよ、と元気のいいところをみせた。
それに呼応するかのように、満井中佐が、東京の若い将校は意気地がない。
僕がなん度蹶起する準備をしたか知れないのに、誰もついてこない、
とこれまた市川少尉に輪をかけたような元気のいいところをみせた。
これには、なに口先きだけだよと、聞こえよがしに半畳をいれるものがいた。
歩兵学校グループは一ヵ所にかたまって、ただ黙々と酒を飲み料理をつついていた。
そこだけが真空をつくっていた。
座が乱れたところで、私は真空のなかから満井中佐の前に出向いて、
さっきいったことは本気ですかと聞いた。
満井中佐は本気であることを強調し、力説しはじめた。
みなまで聞かず、其れが本気なら、そのうちお訪ねして、ゆっくりうけたまわります、
といって私は満井中佐の力説から退避した。
二三日して私は約束どおり満井中佐を自宅に訪ねた。
満井中佐は、滔々と革新を急がねばならない理由をのべたてたあと、
「実行計画なんて簡単なものだ。二時間もあれば十分だ。
起とうと思えば今日いますぐでも起てるのだが、誰も協力するものがいない。」
といった。
「何人ぐらい協力者がいりますか。」
「なあに、何人もいらないよ。」
「では すぐやりませんか。協力者はいますよ。
私の手もとに三十人ばかり、五 ・一五の二の舞でもいいからやろうといってきかない将校がいます。
千葉の歩兵学校ですから、急がないと、もうすぐ主力が帰ってしまいます。」
半分本気で半分はったりだった。
が満井中佐は急にあわてだして、
「ちょっと約束したことがあってこれから外出しなければならない。」
といって椅子から立ち上がった。
・
そのころ士官学校では生徒の本分に照らして、西田税、北一輝はいわずもがな、
村中、大蔵、磯部らと士官学校生徒が交際することを禁止していた。
五・一五の先例もあることだし、それは学校当局としては、生徒訓育上の当然の措置だった。
が 武藤、荒川、佐々木、次木らの士官候補生は外出日毎に、
西田税のうちを訪ねてたり、村中、大蔵、磯部らと会ったりしていた。
それを佐藤候補生が止めようとして、
どうしたらいいかと、所属中隊長の辻政信大尉に相談したという。
辻大尉は、
泥沼にはまったものを救い出すには、自分も泥沼にはいらなければ救えないから、
武藤らを正道にひきもどすには、自分も武藤らの仲間にはいらなければならないと教えたという。
これだけなら一点非のうちどころのない名訓育指導であったのだが、
辻大尉はここでその佐藤をスパイに仕立て、 村中大尉らを内偵させるのである。
これがそもそもの問題の出発点である。
ともあれ、新しい、しかも有能な同志を得て、武藤らはむしろ得意になって、
佐藤を西田税や村中大尉らに紹介したらしい。
しかし佐藤の言動には、初めから変に思えば思えるふしがあったようである。
私がある日曜日、ぷらっと西田税のうちに寄ると、
私とは顔馴染みになっていた武藤候補生が、体の大きな見たことのない候補生をつれてきていた。
それが佐藤だったのだが、そのとき佐藤は泣いている最中だった。
それに向かって西田税が何かぼそぼそいっていた。
私は変なところに飛びこんだと思ったので、すぐ座を外した。
あとで聞くと、そのときが佐藤と西田税の初めての出合いだったらしい。
泣いていたわけはこうだったという。
佐藤は西田税の応接間をみて、私の知り合いに華族がいるが、
そのうちのよりここの応接間のほうがぜいたくだ。
何も職業を持たないのに、どうしてこんなにぜいたくができるのか、と問いつめたという。
それに対し西田税が、浪人ぐらしの苦衷でも述べていたらしい。
泣いていたのは西田のことばのなかに、泣くほどの共感をもよおすものがあったからだろう。
私が飛びこんで、またすぐ飛び出したのは、ちょうどこのときだったわけである。
西田税のうちの応接間を格別ぜいたくと私は思ったことはなかったが、
それにしても初めて訪問したうちがぜいたくだからといって、どうしてこんなぜいたくができるか、
と 直接本人に聞くなど無礼なはなしで、 若しそうであっても、
それはあとで武藤なりにききただして、相手がそれにどう反応するかによって、
はじめからの企図していた、武藤らを救う手がかりにでもしたらよさそうなものである。
また泣くのも異常で、それは佐藤の繊細で敏感な感受性のせいだと思うほか、思いようがない。
が 一人でも同志がふえるということはうれしいことで、とかく手放しでよろこびがちである。
武藤も学校内に新たな同志がふえたことに、なんらの疑念を抱かずよろこんだであろうし、
その武藤の紹介する佐藤に、村中大尉らも別に警戒はしなかったのだろう。
スパイといっても、そのころの士官学校ではスパイの教育などしなかった。
だから無理もないことだが、佐藤のスパイ振りは功をあせる拙劣なものだった。
少しの警戒心さえあれば簡単に見破れたにちがいない。
一つには村中大尉が陸軍大学に入る前、士官学校で区隊長をしていて、
士官学校の生徒のことを知りすぎていたことも逆に佐藤に乗じられる結果となったのかも知れない。
士官候補生がまさかスパイをしようなど、恐らく村中大尉の思考の枠内にはなかったのだろう。
それでも流石に、少しはおかしいと思ったこともあったらしい。
私があとで村中大尉に、
「どうして、あんなつまらないこといったんですか。」
と 別にとがめるわけでなく、きくと、
「うん、あまりしつこく聞くんで、おれも変だとは思ったが・・・・」
と、照れ臭そうにいつて苦笑したものだった。
・
佐藤は村中大尉に、クーデターはいつやるかときいた。
村中大尉はいまそんな計画はないといった。佐藤は将校がやらなければ士官候補生だけでやる。
青年将校は五・一五のときのように、また士官候補生を見殺しにしていいのか、と畳みかけてきいた。
士官候補生を見殺しにするとは、いい殺し文句を知っていた。
これは村中大尉だけでなくても、当時の青年将校の誰にとっても痛いことだった。
さわられるとうずく、古傷ならぬ、まだ生々した傷痕だった。
村中大尉は、この文句にだまされてしまうのだった。
武藤も銅座して佐藤の言わ真にうけた村中大尉は、士官候補生の軽挙を心配した。
近くやるから安心せよ、それまで待っておれと、その場逃れの約束をした。
これで引き下がってはスパイの任務は果たせない。
佐藤はなおもしつこく、時期はいつか、実行計画を示せと食いさがった。
村中大尉は、大体の時期と、実行計画を口述した。それを佐藤がメモしたものだろう。
・
おかしなはなしである。
第一士官候補生が計画の全貌を知る必要があるかどうか。
私なども十月事件のとき、隊長の名目こそ柴大尉に呈上したものの、
依然実質上の抜刀隊のリーダーとして、相当人数の将校を握っていたわけだが、
それでも計画の全貌を知ろうなど、考えてもみなかった。
一切を総指揮者の橋本中佐に任せ切って、命ぜられたことを実行するだけのことと、
あっさりした気持ちで待機していた。
それで今日にいたっても、全部の実行計画---なかったのかも知れないが----は知らないし、
時期も漠然と十月二十日と見当をつけていただけだった。
このときの千葉で将校を集めた場合でもそうだった。
東京の計画など一度も知ろうと思ったことはなかった。
東京の計画どおり動くつもりで待機していただけだった。
・
集った将校のなかにも、一人として計画について私に質問するものはなかった。
時期をきく奴はニセ者だと、むかし大岸大尉がいったことがある。
これで対馬中尉と大岸大尉の間がまずくなり、
私は間に立ってどうにも恰好がつかなくなって困ったことがある。
「郷詩会」の会合などのある前のことだった。
まだ仙台の教導学校にいた大岸中尉が、青森にでてきたので一緒に、
任官して間のない対馬少尉に会うため弘前にいった。
対馬は私たち二人を下宿につれていってもてなした。
酒はあったが新任少尉に肴といったもののありようはなかった。
対馬は、津軽味噌を焼いてそれを肴にしようとした。
かいがいしく接待につとめながら、
にこにこして大岸中尉に 「時期はいつになりますかね」 と蹶起の時期をなにげなく聞いた。
対馬のことばが終わるか終らぬうちに、大岸中尉は 「貴様ニセ者だ」 ときめつけた。
「どうしてですか」 と対馬が反問すると
「昔から時期を聞くものに本物はいないといわれている。
意気地がないから、ついに時期を聴きたくなるのだ。
時期が気になるくらいなら、いっそのこと止めたがいいよ」
といった。
対馬も腹を立ててしまった。
「止めるよ」 といったきり動かなくなった。
味噌はじりじり焦げて炭になっていった。
もちろんあとで、これは仲なおりできたけれど、
私からやるのかやらないのかと詰問されて、困惑を満面にあらわして、
やらない、といわざるを得なかった村中大尉が、佐藤に時期は、実行計画はと追求されて、
それを一々口述してメモすることまで許したのだから、これ以上の皮肉なことはない。
・
もともと革新計画などというものは、作戦計画と同様極秘であるべきものである。
それを口述することすらかりそめにすべきでないのに、
みすみすメモするのも見逃すなど軍人の常識上ありえない。
またそうまでしなければ信頼できないとすれば、それに相許した同志ではないのだから、
起つなら起つで勝手にさすがいい。
その辺の呼吸のわからない村中大尉はではなかったはずである。
が 蹶起するといったことも、相手をしずめる一時の方便の嘘だったのだし、
実行計画といったものも、その場かぎりの思いつきだったので手を抜いたのだろう。
事実それはいい加減なものだった。
計画のなかの参加将校、歩兵学校の部では、
十五日に学校を去った歩兵砲学生の名前だけ口述されている。
佐藤らが村中大尉にあった最後は十一月十八日である。
十八日は日曜日で士官候補生の外出日だった。
佐藤候補生が辻大尉に報告した計画の歩兵学校からの参加将校は、
鶴見、北村、赤座、池田、鈴木、高橋、天野の七名だけで、すべて歩兵砲学生である。
まだ残っている通信、機関砲学生は私をはじめ、一人も報告されていない。
近く実行される計画に、まだ残っている将校の名前を一人もあげないで、
送別会までしてやった千葉にもういない将校の名前を、わざわざあげる馬鹿はない。
この報告を、十九日中に辻大尉は受取ったのだが、
辻大尉はこれで村中らの叛乱陰謀の確証を握ったと早合点して上司に報告するのである。
宝亭の会合の模様も偵知していて、これも一連のものと思ったのだろう。
丸亀、金沢から、小川、江藤、市川なが上京していたことも偶然とは受取らなかっただろう。
われわれの千葉における動きも、あるいは知っていたかも知れない。
これらを総合し、陰謀の確証を握ったと自信たっぷり上司に報告したことだろう。
それに基づき、翌二十日に村中大尉はらが拘引されるのであるが、
後にこの事件を十一月二十日事件というのはこの日を記念しているわけである。
・
西田は冗談に
「君は奇妙な男だよ。十月事件のときもそうだったが、こんども事件の元凶でありながら、
なんともないんだからな。 君は無風帯にいるんだな」
といって笑った。
冗談にもそういわれてみると、村中大尉らが拘留されているのに、
自分がのうのうと娑婆にいることはすまないような気がした。
が 村中大尉らと肩替りするために自首する理由もなかった。
東京が起つというから、あてにして人寄せをしていたのが、
それが嘘だったので、もとにかえしだけだった。
具体的計画は何一つしたわけではなかった。
ただ千葉の動きが外に伝わって、佐藤候補生をスパイにつかう動機となり、
架空な叛乱陰謀をデッチあげることになったとすると、私は西田税のいうように、
冗談ではなく、正しく元凶ということになる。
末松太平 著 私の昭和史
十一月二十日事件 から