あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

憲兵 塚本誠の陸軍士官學校事件

2018年03月09日 09時13分56秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

辻正信と士官學校事件
麻布竜土町に家を借りて大手町の憲兵司令部への通勤が始まる。
憲兵司令官は秦真次中将、
憲兵を統轄する陸軍大臣はこの年の初め荒木貞夫大将から林銑十郎大将に代わっている。
司令部の編成は総務部と警務部の二部、
私は警察務を担当する警務部の第二課で勤務することになった。
総務部長 二宮晋一大佐、警務部長 藤井慎二大佐、第二課長 平野豊次少佐 ( 25期 ) である。
第二課の業務は軍事特別高等警察務で、その中は二つに分かれ、
「 軍特 」 と略称して 主たる対象が軍人軍隊である軍事特別高等軽率務を受け持つ係と、
「 特高 」 といって 一般特別高等警察務を受け持つ係とがある。
山中平三大尉 ( 32期 ) が 「 軍特 」 の主任将校。
「 特高 」 は柴野芳三大尉 ( 30期 ) が主任将校で、私は柴野大尉の補佐で副主任である。
なお、課長の平野少佐と柴野大尉は陸軍省兵務課の兼勤であるため、午後は通常兵務課へ出向する。
兵務課というのは陸軍省兵務局の一課で軍人軍隊の軍紀、風紀といったことの課であり、
また憲兵の業務はその所管に属する。
私は司令部においては最年少の将校であり周囲は経験豊富な先輩ばかりである。
当時の司令部内では荒木前陸軍大臣の 「 皇道精神、皇軍意識 」 とか
秦司令官の 「 皇道即誠の道 」 とかいった言葉なり、考え方が少なからず影響している。
また、日々 目を通す各隊の現場報告書類は必ずといってもいいくらいに
いわゆる軍統制派、軍皇道派の二つの流れをまことしやかに書いた檄文等が添付されている。
大臣の 「 皇道精神 」 も 司令官の 「 誠の道 」 も 結構である。
しかし、軍人には軍人勅諭がある。
個人的な、しかも抽象的な精神主義や神懸かり式の発言は、
一部急進将校や民間浪人の国家改造運動に対処することは出来ないばかりか、
これらのことが却って派閥的傾向の強い政治乃至右翼浪人らをして軍内にその派閥を持ち込み、
軍の統制を乱す結果を招くものと私はひそかに心配した。
秦中将は政党政治を嫌悪するばかりでなく、自身政治的に動かれる憲兵司令官のようである。
犬養内閣が倒れ 後継内閣首班の御下問に答えるべく上京する西園寺公爵を玉川大橋に迎え、
軍の意図なるものを伝え、斎藤挙国一致内閣の実現を図ったのは同中将である。
司令官は藤井警務部長と共に岩川清士曹長らを使って政治情報を集めさせている。
また、東京憲兵隊長持永浅治少将 ( 佐賀出身 ) も 秦司令官とおなじ動きがあるように推察される。
下川晴輝准尉が隊長の鞄持ち的な役割をしていて、
とくに真崎大将 ( 佐賀出身 ) の下に使いに毎日のように行くそううであ。
政治情勢の軍の統制に及ぼす影響を見ることは憲兵徳高警察の重要な仕事ではあるが、
政治行動はあってはならない。
ある日、わたしが陸軍省の調査班室 ( 政策班ともいわれる ) に 同期の山形有光大尉を訪ねた。
その時、いわゆる政策グループの一人で
「 戦争は文化の母 」 と 題した陸軍省調査班発行のパンフレットの原文を執筆したといわれる
田中清少佐 ( 29期 )が、その自席から私に、
「 憲兵は何だ。皇道派とか何とか、真崎、荒木の走狗ではないか 」
と 彼一流の暴言をあびせたから 私は、
「 憲兵をかれこれいうより、自分の頭の蠅を追ったらどうです 」
と やり返した。
田中少佐のような感じで憲兵を見ていた人が
陸軍省 参謀本部のいわゆる政策グループの中にはあったと思う一方、
急進青年将校は真崎、荒木両大将に大なる期待を持っているように思われた。

五月の初めだと思うが、全国の憲兵隊長会議の行われる前日の夕方、
外出先から自分の席に戻ると、
私のところの書記の机の上に 大きな白紙に図表の書かれたものがある。
何だときくと、司令官の原稿を清書したもので、
司令官が明日の会議でこの図を使って話をされるのだとのこと。
よく見ると大きな円があり、これが軍全体を示す。
その円の内に三つの円が書かれて、
一つは皇道派、一つは統制派、他の一つの円が憲兵を示している。
憲兵は皇道派でも統制派でもないということを説明するためであろうが、
司令官がこんな図を書くことは大変なことであると直感した。
かりに軍内に皇道派的、統制派てきな者が何人あるとしても、
それを派閥的に表示するなぞもってほかであるが、
かりに一歩譲って一部軍人の動きを図示して説明するためにしても、
対立的に憲兵を図示することは大変な誤りである。
この憲兵の円は絶対に削除すべきであると考える。
おりよく柴野大尉が兵務課から戻られた。
私が柴野さんに意見を述べると、柴野大尉は、
「 その通りだ。俺が司令官のところへ行って来る 」
と すぐに司令官の部屋へ行かれた。
戻って来て憲兵という円の削除を書記に命じた。

八月の定期異動、
秦司令官は第二師団長に転補、後任は、関東憲兵隊司令官 田代晥一郎中将。
警務部長藤井大佐は横浜隊長に、高級副官城倉義衛中佐は進級の上、警務部長にそれぞれ転補。
新司令官田代中将は、いわゆる支那通で知られた謹直な将軍で、
新警務部長 城倉大佐は憲兵部内きっての人格者、
憲兵司令部もこれで刷新されると私はひそかに喜んだ。
東京には二十二日会と呼ぶ同期生会がある。
当時俸給日は毎月二十二日で、陸士三十六期の在京者はその日の夕方から九段の偕行社に集まる。
会費は一円でビール一本、酒一本を飲みながら歓談することを常例としていた。
陸軍省 松下勇三、増田繁雄 等、参謀本部 辻正信、甲谷悦雄 等、常連として歩一の横田洋を初め
三品隆以、田邊新之 など三十名近くが集まる。
憲兵は私一人。
いつも楽しい会合だったが、八月の異動で辻が陸軍士官学校本科生徒隊 中隊長になった。
参謀本部 部員でしかも陸大優等卒業者が、陸士生徒隊 中隊長になったことは全く前例がない。
近く澄宮崇仁親王殿下 ( 後の三笠宮 ) が 陸士四十八期生として御入校になるので、
それに備えての人事である。
九月一日、
殿下は辻中隊長の第一中隊に配属になった。
九月の二十二日会における皆の話題は主として辻の中隊長振りに集まった。
入校時、生徒は中隊長にひとりひとり申告するが、その時辻は、殿下と次のような会話をしたそうである。
「 殿下は将来 天皇陛下のご補佐をなさるお立場になられるのでありますが、
在学中に他の生徒と成績を競うようなことは一切あってはなりません。
殿下は、運動の中で何が一番おきらいですか 」
「 機械体操であります 」
「ご卒業までに機械体操が一番お好きになられますよう!」
ある日、辻は殿下区隊の体操訓練に立ち会った。
科目は木馬の跳越だったが、殿下は踏切りを失敗して、やり直しをしようとされた。
すぐ殿下を呼んで、
「 一般生徒のまねをしてはいけません。
この科目は、殿下にとっては、障害を勇敢にのり越えるという徳目を養われるだけのもの、
躊躇なくお跳びなさい 」
と 中尉したところ、殿下は真剣そのもので見事に跳ばれたという。
「 けがでもされては、と 本当に肝を冷やした 」
と 辻は付け加えた。
「 陸大 ・軍刀 」 の中隊長は純情な生徒によほど魅力があったらしい。
辻が週番指令の時は、夜ごと生徒の来訪が絶えず、他中隊の生徒まで辻の話を聞きに来ていたという。

《 十一月二十日事件 》
十一月十一日、私は辻を鷺宮の自宅に訪ねた。
同期生某の結婚手続について、彼の援助を求めるためだった。
その頃、現役将校の婚姻には師団長、もしくはこれに準ずる所属長の許可を必要とした。
某は近く満州に派遣される予定だが、彼にはすでに内縁の妻があった。
それで彼はこのさい後顧の憂 ないように婚姻手続を完了したい、と 私に相談に来たのである。
関係上司の諒解を取り付けるには、私は辻を最適任者と思ったからである。
辻は即座に私の依頼を快諾したあとで、
「 いい時に来てくれた。これは極秘だが 」
と 前置きして、私に次のような話をした。
「 俺が週番指令をしていると、よく生徒が訪ねて来るが、
その中には五 ・一五事件に参加した士官候補生と同じような考えを持っている者がいる。
俺はそのつど説教しているが、先日、佐藤という候補生から、
『 生徒の中には、村中大尉や磯部主計のところへ、休みの日に出入りしている者がおります。
私もこれに誘われていますが、どうしたものでしょうか 』 と、相談を持ち込まれた。
俺は、生徒に、
『 人のあやまちを見てほっておくのは、正しい友情ではない。
もし友達がどろ沼にはまったら、自分もいっしょにとびこんで助けねばならん。
岸から手を差し伸べただけでは助けられない 』 と いっているのだが、
佐藤候補生に、
『 お前を誘っている候補生と一緒に行動し、その状況を俺に報告しろ、俺が指導するから 』
と いっておいた。
その後、佐藤の報告によると、
村中、磯部 らは、北、西田 らと つながりがあり、歩三、歩一、その他の急進将校の間には、
何か計画があるように思われるのだが、確たる証拠がない。
確証をつかんで、断固処分しなければ、この種の風潮は根絶できない。
三月事件、十月事件、五・一五事件に対する陸軍の不徹底な処置が、
怪文書その他 今日の不穏傾向を呼んでいるのだ。
いよいよの時には貴様に連絡するから善処してくれ。
どうも憲兵に連絡すると、すぐ真崎、荒木に筒抜けになり、徹底した処理ができなくなる。
これからは、貴様だけを憲兵の連絡先にするから、そのつもりでいてくれ。
きょうの話は、参謀本部第四課の国内班長、片倉少佐だけには話してあるから、
近いうちに一度 片倉さんに会っておいてくれ 」
話は想像の域を出ていないので、私はただ聞いただけで辻の家を辞去した。
片倉に会うこともそれほど急ぐことではないと ほっておいたが、

十一月十九日午後四時頃、参謀本部をたずねた。
片倉少佐は、私を見るやいなや、
「 いいところへ来た 」 といって、話しだした。
片倉少佐の話によれば、
《  辻は佐藤候補生から、「 陸大生の村中大尉、野砲一の磯部一等主計らの急進将校は、
十二月初め、兵力をもって臨時議会を襲い、同時に重臣および政府要人を襲撃することを計画している。
急進将校は部隊、学校に所属しているが、その中心勢力は 歩一、歩三である 」
との 報告を受けた。
辻は、今朝これを生徒隊長 北野憲造大佐に報告し、十二月初めに予定されている現地戦術の延期を進言した。
この現戦の専修員は、生徒隊長、統裁官は北野大佐だったから、予定通り実施すれば、
事件が起きた時、学校主要幹部がいないことになるからである。
なお辻は、北野大佐に情報を決して他言しないよう くれぐれね頼んでおいたが、
東京警備司令部の情報参謀が今朝警備連絡に来た時、北野大佐は不用意に辻情報を話してしまった。
東京警備司令部は、五・一五事件以後 月一回定期的に昼食時に警備会議
( 参集者は、在京官衛、学校、師団司令部などの警備担当者 ) を 開いているが、
この席で情報参謀はその朝 北野大佐から聞いた話を伝達した。
この会議に参謀本部から出席した参謀が、さきほど終ったばかりの参謀本部の班長会議で辻情報を披露しかけた。
しかし、これは自分が制止した。
いま 省、部では軍務局長 永田鉄山少将、軍事調査部長 山下奉文少将、参謀本部第二部長 磯谷廉介少将
の 三人で対策を協議している。
私は 片倉さんの話を聞いてすぐ陸軍省兵務課に回り、私の課長平野少佐に報告し、
午後六時過ぎ 連れだって憲兵司令部に帰った。
この夜、田代司令官は芝の紅葉館に内務次官初め警察首脳部を招待していた。
平野少佐は警務部長に電話し、私らは司令官の帰りを九段の司令官 官舎で待ち受けた。
軍特主任の山中大尉も駆けつけて来た。
午後九時頃、司令官、両部長らが帰って来た。
平野少佐に命ぜられて、先週 辻が私に話したこと、きょう 片倉少佐から聞いたことを、
私から直接、司令官に報告した。
司令官は、私に意見を求められたので、
「 急進将校が情報の通り決起を決意しているなら、事が漏れた以上、一刻を争って決起することもあり得る。
しかし、かれらが純真な心情から決意しているなら、誠意をこめて訓戒すれば、決意を変えさすことはできる。
本来決行する決意は全然ないのに、同志の獲得、派閥勢力の拡張、
あるいは革新運動を利用するためにこんなことをいっているなら、厳重に処断せねばならない。
いずれにせよ、憲兵は事件の突発に備えるとともに、すみやかに真相を究明し禍根を断たねばならない 」
との趣旨を述べた。
司令官は、私らを待たせておいて、陸軍次官 橋本虎之助中将のもとへ出かけた。
このあと、持永東京隊長が和服で来邸、平野少佐が一応状況を話した。
間もなく司令官は帰って来たが、すぐ持永少将に所見を求めた。
「 こんなことは、いつものことです 」
と 言外にあわてるなといった返事であった。
さすがに温厚な司令官もこの返事に ムッ とした口調で、
「 この情報の確度は高い、私は就任以来まだ日が浅いので よく補佐してくれといったのだが 」
と いいながら、
「 塚本大尉、不満かも知れぬが、この対策は明日に延ばすことに決まった 」
と 終止符を打たれた。
私は、自動車で山中大尉を四谷志雄町に送ったが、辻の身辺が気になり、そのまま鷺宮にむかった。
辻は、
「 よく来てくれた。片倉さんのところへ行こう 」
という。
二人は中野新井の片倉宅を訪ねた。
こんどは片倉少佐と辻が陸軍次官のところへ行くという。
二人を私の車に乗せて、英国大使館裏の次官官舎に送った。
私は次官に関係がないから、二人をおろしてすぐ帰りかけると、片倉少佐が、
「 次官から憲兵的立場の意見を尋ねられるかも知れぬから、君がおってくれた方がよい 」
と 引き止めた。
門があかぬので、三人は塀を乗り越えた。
玄関のベルを押すと女中が出て来て、応接間に案内した。
次官は和服に袴をつけてすぐ出て来られ、自らストーブに火をつけられた。
片倉少佐は、
「 このさい、急進将校の取調べを行い、不穏行動の根を断ち切るきっかけにせねばならぬ 」
と 協調した。
次官は、陸軍の統制について議会が非難している現在、あまり事を荒だてると、またそれが批判の種になる、
と苦衷を述べられた。
二人はこれに対し一言もない。
そこで私は、
「 そんなことでは陸軍の対議会姿勢は全く受身ではないですか。
陸軍は議会の主張を尊重して、このように軍紀の粛正に努めている。
しかし、青年将校がなぜ政治革新というような意欲に駆られるか、
その根本原因について政治家の猛省を願いたいと議会でいえませんか 」
と 私は思ったまましゃべった。
次官官舎を辞去した時、すでに夜は明けていた。
私は片倉、辻 両氏を市ヶ谷駅に送って、警務部長城倉大佐に報告のため官舎を訪ね、
朝食の供応にあずかりながら、昨夜司令官官舎を出てから今朝までの私の行動、見聞を一部始終報告した。

この日 十一月二十日、
陸軍上層部合議の結果、容疑将校らに対する捜査は、第一師団軍法会議検察官の担当となった。
村中、磯部らはこの日 検挙、翌年三月四日まで東京陸軍刑務所に拘禁され、
検察官、予審官の取調べを受けた。
私も軍法会議に呼ばれ、取調べを受けた。
質問の重点は、十一月十九日、二十日 両日の私の行動に向けられたが、
法務官の話を聞いていると、私の行動を知らぬはずの村中、磯部が私の行動を詳しく法務官に申したてていることは、
全く意外だった。
尋問の最後に法務官は念を押すように、
「 あなたは職務として、行動されたのですか 」
と たずねた。
「 そうです 」
「 上司にご報告になりましたか 」
「 一部始終、詳しく報告しました 」
「 よくわかりました 」
これで法務官の尋問は終わった。
私はすかさず法務官に反問した。
「 拘禁されている連中が、どうして十一月十九日の私の行動まで細大もらさず知っているのでしょう 」
「 私にもわかりません 」
十一月十九日、二十日の私の行動は 片倉少佐、辻といえども断片的にしか知らない。
総合的に知っているのは、憲兵部内の極少数の特定者だけ、私は法務官の取調べを受けて、
この少数特定人のだれかが、被拘禁者と直接、間接に密接不可分の関係にあるように思えた。
二月七日、村中は片倉少佐と辻を誣告罪で告訴した。
その告訴状には関係者として私の名も出ていた。
三月十日頃、突然総務部長 二宮大佐に呼ばれた。
「 君は、近く大阪憲兵隊付に発令されるが、いま上海にいる川村大尉と交代し、
支那における国際共産党の活動を見てもらうことになろう。
細部は訓令で示される。
しばらくほとぼりをさまして来なさい 」
と 転任を内示された。
三月十五日、大阪憲兵隊付に補され、四月十九日、
「 在上海憲兵大尉 河村愛三と交代のため上海へ出張を命ず 」
と 発令された。
また大臣の訓令受領までは東京、大阪におって出発を準備せよと指示があった。
これより先、
村中、磯部らは三月四日責付となり 三月二十九日 不起訴に決定、
四月二日 停職となった。
この日、磯部が片倉少佐、辻、私の三名を誣告罪で告訴した。
しかし、私に対しては その後なんらの取調べもなかった。

塚本 誠 著

ある情報将校の記録  から
 
塚本誠 (  S15当時 )


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