あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

士官候補生の十一月二十日事件

2018年03月05日 05時32分41秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

ここに一言、
十一月二十日事件に於いて触れなければならないと思う。
本科二年生の時、
同期生の荒川、次木及び佐々木の三名と一年下の武藤候補生が革新の意欲に燃えて、
日曜外出の際、村中大尉、磯部一等主計、西田税などを訪ねていたが、
それを当時士官学校の中隊長をしていた辻正信大尉が察知して、
自分の訓育中隊の佐藤という候補生をスパイに使って内情を調査し、
クーデター計画があると判断して検挙した事件である。

この事件は調査の結果、
証拠となるべきものがなく不起訴となり、村中大尉、磯部主計は停職、
候補生は退校処分となった。
そして辻大尉も左遷されたのである。

村中さんや磯部さんは、時期が来れば蹶起しようという意志はあったし、
その計画も考えていたことと思う。
しかし 考えていたことと実際の計画とは別である。
村中大尉や磯部主計が佐藤候補生に話した計画は、
スパイ佐藤の
「 将校がやらなければ候補生だけでやる」 との 殺し文句にほだされて、
なだめるための方便であったのだ。
これは、私が当時の次木君から聞いた話で判然としている。
辻大尉は事件後、候補生等に詫びたとの事実をもってしても、
この事件は全く事実無根だったのである。
・・・
十一月二十日事件の候補生次木一君が私を訪ねてきたのはこの頃 ( 昭和47年 ) であったと思う。
彼は私の社長四元義隆氏にも所用があって訪ねてきたのである。
彼は候補生時代の端麗な顔が消えて、
幾多の困難を克服した後の老成した達人のような相貌をもって現れたので、
一瞬はとまどった。
しかし、話してゆくうちに四十年の歳月は消えて、
同じ運命を辿った同期生として隔意なく話すことが出来た。
・ ・
私は次木君の中に亡くなった林八郎その他若い同志の魂を見出したように感じている。
しばらく経ったから彼は小さなパンフレットを発行した。
その中に十一月事件のことが詳細に書かれており、
これは二・二六事件と最も関係深い大事な文章なので、
次木君のお許しを得て一部ここに掲載させてもらった。

《 田中哲夫---- 十一月事件 》
私は田中哲夫----陸軍士官学校四十六期生(次木は四十七期)----村中大尉の教え子
 ----彼に出会うことによって、二十歳にして初めて日本人として生れ直した。
彼は士官学校事件の核心である。
彼がいなければ私もないのだから、士官学校事件は起こらなかったた゛ろう。
別の形で何かあったとしても、幡掛正浩の「悲しき命」以外に彼のことにふれたものはないし、
それは支那事変中に発表されたことだから筆が抑えられている。
私らは何も書いたり、
しゃべったりした事がないから士官学校事件が謎につつまれているのは当然である。
士官学校事件の同志を述べて置く、
学生側、京都帝大農学部、北原勝雄、文学部、幡掛正浩、
士官候補生次木一、
その核心が田中哲夫である。
北原は七髙以来、血盟団の思想系統に属する。
幡掛、私は独自である。
私と幡掛は私の中学の友人岡島良平の紹介で五髙の東光会で相識り、
各前後して独自に田中哲夫と相結ぶに至ったのである。
田中と私は関釜連絡船で出会う。
幡掛は東筑中学の二年後輩の故を以て田中を折尾の自宅に訪ねたのだときく。
北原は幡掛の紹介で、京都北白川の白幽荘で田中と相許すに至る。
私もここで北原を識ったのである。
荒川嘉彰は温水秀則が五・一五民間同志として病没しているので、北原とは既に面識があり、
田中とも相入識るに至った。
佐々木貞雄は近歩四の候補生として在隊中磯部主計の啓発にかかるもの、
唯 私と予同科区隊だった関係で、私には荒川よりも親しかった。
事件前、荒川とは余り接触がない。
田中は五・一五前、予科二年の時、五・一五事件坂元兼一氏(四五期)らと既に接触があり、
坂本氏らから何か印刷物の謄写を頼まれ、それが発覚して、
同期の山岸(五・一五山岸海軍中尉の弟) と共に重営倉一ヶ月の処分を受け、
これが原因で腎臓病となり、延期して四十七期、又 一年延期して四十八期となり、
遂に昭和十年十一月昭和維新を見ることなく、憂悶折尾の自宅で病没したのである。
ひとり寂しく。

将校にとって候補生は子供である如く、
候補生にとって予科生徒は、予科チャメであり子供にしか過ぎない。
候補生が蹶起する時、田中は子供なるが故に後に残された。
死ぬのは最小限でいいのだから。
而し 五・一五は所期の目的を達し得なかった。
効果不充分であったのである。
彼は残された者として、その志を継承せねばならなかった。
聖明を覆う妖雲を掃う、破邪顕正、斬奸の剣を振わねばならなかった。
病軀を鞭打つて彼は死士を求めた。
志士ではない。
私達はその至情に打たれて彼を核として結集されたのである。
何の理論が必要であろう。
悪は既に極まっていたのだから、根源を一日も早く絶てばよかったのだ。
彼は学校にとどまろうとしたが、彼の病軀は学校の激務に堪えない。
後事を私に託して郷里に帰り、一日千秋の思いで私の手紙を待つ、白幽荘又然りである。
彼等飛電一下病床の田中を担いで東上せねばならぬ。
みいくさに生命死するために。

辻大尉が学校内で事を構える為、中隊長に赴任するから注意せよ、
と言う 知らせが砲兵少尉安田優 (二・二六参加死刑、四十六期、熊本済々黌出身、次木は熊本中)
から 辻の着任前にあった。
併し、辻は予科以来、模範的青年将校として喧伝され、当時候補生尊敬の的であった。
私の不明にして、この不愉快 (策動を想わせる) な忠告に耳を籍さず、
三笠宮(四十八期)訓育の大任の為、陸大出の身を以て、
(士官学校の中隊長には未だかつて陸大出の大尉、少佐が任命されたことはなかった)
進んで志願したものと看做した。
同期トップ小林友一、林八郎 (二・二六参加死刑) 等は 彼が週番に服する時はよく出入りしていた。
荒川も時々出這入りしていた。
私はその必要がなかった。
田中を背負って、卒業前に死なねばならなかったから。

私等の不穏な、過激な言動が村中、磯部氏らを心痛させたのは当然である。
子供が掌中より逸脱し、暴走するやに看取されるとき、親はいかになすか、
胸に手を置いて静思してみよ。
彼等は五・一五のとき子供に裏切られた、彼等は私が今も信じて疑わざる如く、
当時は絶対に直接行動に出る気はなかったのだ。
彼等が二・二六の首魁たるを以て当時も何等かの、予備行為があったのではないかと疑う向きは
史書を読む資格はない。
どうしてこの可憐なる候補生達を鎮撫して、誤らしめざるか、親心以外に他意はなかったのだ。
かくして、土佐下宿に於ける、
予科区隊長片岡太郎中尉(土佐出身)の蹶起時の行動概要の説明となる。
要旨は、
一、攻撃目標、政財界黒幕----指名略(牧野内府、西園寺公以下類書の如し、軍閥はまだない)
二、中央、地方師団も同志を以て動かす
三、行動概要
   予科生徒を非常呼集にし夜間召集(担当片岡中尉) 本科生徒(私達同志の意)の引率を以て
   皇居の衛門を押え、参内する重臣を門前に逮捕する。
四、武器弾薬
   学校の兵器庫より持出す、週番指令これを許可せざるときは逮捕か斬殺す。
五、時機は臨時議会前後とするも青年将校に一任すべし。

多少記憶に間違いがあるかも知れないが、この情報が佐藤より辻に届けられ、
辻策謀の決定打となったのである。
私等三名は佐藤によって指名されたものであろう。
指名洩れもあるのだから。
十一月二十日頃学校内で取り調べが始まった。
区隊長川崎中尉の聞取りから、
中隊長西本少佐の聞取りへと進展して十二月四日軍法会議なるものに送られたのである。
これまで学校は私達を拘禁していた訳ではない、授業に出ていたのか、
謹慎していたのか覚えていないが、他の候補生とは起居を同一にしていたと思う。
二十日前? 佐藤がなれなれしく私を窓外より呼出し、
「青年将校が竜土軒で会合し、騒いで計画がばれ逮捕された」 と。
私はこの時が佐藤との初対面だと信じるが、
佐々木から佐藤という意気のいい奴が四十八期に出来たとは聞いていた。
佐々木、佐藤は幼年学校出身で、近歩三、近歩四と隣りである。
武藤は田中が医務室で話し合った結果、村中、磯部氏の許へ出入りするようになった。
と 聞いてはいたが、私達はよく知らなかった。
佐藤が武藤に近づき、田中が口にする私達三人の名が、佐藤の耳に入ったのだろう。
私にとってこの二人は同志ではなく、他人だったのである。
私は死士は魂の見参でわかるとなし、同志の獲得など努めなかった。
その後、荒川が来て、赤石、市川両少尉 (共に砲工学校在学中、荒川ともども金沢師団)
の連絡を伝える。
外は無事だが学校で何かあったのではないか、用心せよと。
夜、寝室で筑前出身池田功(東筑中、幡掛と同期?)が下宿に参謀が来て、
青年将校が何かして捕ったらしいと話していたと話す。
参謀らしい情報の流し方よ、辻には仲間があったのだ。
明石少尉の連絡と正反対であり、この時点では明石の方が正しかったのだ。
田中一人を絶対として信じ、
磯部を信じなかった私は、志士気取りで磯部さん達が大言壮語して、
引っかかったのだと判断した。
私はあくまで彼等を信じなかった。
併し 被害は最小限度に、又 関係者には成るべく迷惑をかけないよう心掛けた。
都合の悪いことは佐々木にかぶせた。
彼は予科以来の仲間だ。
許して呉れるだろうと、佐々木も亦都合の悪いことは私にかぶせて累が及ばないようにしたらしい。
事になれた荒川は辻を疑った。
流石である。
彼は知らぬ、存ぜぬの一点張りで逃げを張ったに違いない。
頭も鋭敏で判断能力に優れていたから。
磯部氏の呼出しを毎晩真剣に、雄健神社で待った佐々木は「やる」一点張りで自己の信念を
最も過激に表現したのではないか。
私は「やる」意志は明確にしたが、
極力関係者の名は憚り、忘れた、思いましたと あいまいに逃げることに努めた。
記憶の乏しい私はこの点助かった。
併し青年将校の「やる」意志のないことの説明は、必しも彼等の弁護ではなくて、
真実そう思っていたのである。
法務官は将校をかばっていると、好意的に解したようだが。
事件名簿の序列が佐々木、次木、荒川とあるのは言辞の過激な順ではなくて何であろう。
単なる偶然ではあるまい。
成績の順なら荒川、佐々木、次木の筈だ。
荒川は工兵科では二、三番の秀才だ。
荒川が一番嫌われたのは、辻にとって手強かったからである。
候補生にあるまじく、「やる」意志の表現を賢明にも、
彼は逃げたから学校側の一般の将校には 「きたなく」未練に見えたのに相違ない。
未決に収容される前、この哀れむべき単才二人は簡単に「我事畢れり」と全てをあきらめ、
「荒川はひねくれている、辻の陰謀などと言って」相手にしない事にした。
豈はからんや、荒川の情勢判断が正確であって、彼の処置が適切であったので、
私と佐々木の単才とやる主義の馬鹿さ加減が辻の策謀を成功させる原因だったとは。
若し私と佐々木が荒川の対策に同調し、知らぬ、存ぜぬと頑張り通せば、
私達をいくら調べてもノートもなければ武器もないのだから、事件の構成など成り立つ訳はない。
事件は学校内の問題として隠蔽され、
私達の処分だけで済み、累は青年将校まで波及しなかったろう。
二十日から二週間、軍法会議に廻るまで、荒川一人否認のまま、
私と佐々木が 「やる、やる」 と強調したので軍法会議で徹底的に、
調べる事になったのではないか、
その馬鹿さ加減が我ながら恥ずかしい。
第一師団長香椎浩平の決定で、軍法会議にかけることになったと、退校後、聞かされた。
辻、片倉、塚本一流の企図も事の意外な進展 (彼等は軍法会議など考えていなかったのだ)
で 遂に事態の収拾がつかなくなる。
作為された事件は作為者の手をはなれて、事件そのものとして一人歩きを始める。
青年将校亦事志と異り (候補生慰撫) 誣告として己が冤罪を晴らさんが為その策源に単身肉迫、
攻撃せざるを得ぬ。
彼等は大人(おとな)なのだから。
かくして事件は予想外に拡大し、軍法会議に証人として召喚せられた将校数十人、
三ヶ月を要する審理の結果、証拠不十分、責任付保釈となり、
事件内容の口外無用を条件として私達は学校に帰された。
荒川の取調べ四日、佐々木三日半、私は三日、五・一五の余慶をうけて温かい取調べだった。
九十日の独房で私達は、「近世日本国民史」、「般若心経講義」等学校から差入され枕読した。
荒川の心中は知らず、我事畢れりとした。
私と佐々木とはおとなしく観念していた。
そして村中、磯部両氏の闘争に感歎したものである。
私の独房は真中で、
前に片岡、磯部、村中の順で 後ろが佐藤、武藤、荒川、佐々木かと記憶する。
これは感じでわかるのだ。
磯部氏は豪快だから放屁はする、大きなあくびをする。房内運動のときはがたがたさせる。
癪だが彼の反抗運動は見事なものだ。
併し 彼も村中氏も冷静緻密に法務官との問答を、メモ整理していた。
馬鹿な私は何を聞かれ何を答えたか、恥ずかしい話だが取調べを受けた後はケロリと忘れていた。
死ねばいいのだから別に嘘を構える必要もないし、他人には何等 (佐々木にひっかぶせた外は)
迷惑をかけてないとの自恃は心安かった。
佐藤の態度は寔にもって以外だった。
悪口になるからその醜状は伏せておく。
彼の父は陸軍大尉、青島で戦死、母一人子一人の戦死軍人の遺児である。
彼は自己の行為を正義と信じていたに相違ないから、
未決に私等と同列で入れられるのが納得出来なかったに違いない。
悪いのは私等で、それを救わんとした自分が、何故収監されねばならないのか、
その不合理が彼を狂乱せしめたのではないか。
私は可哀想だと想う。
彼の真意が何であったか知らぬが、取調べの過程で、スパイであって、
荒川の判断の正確さをいやという程知らされた。
佐藤の挑発的発言が私等以上に過激であっても、
村中、磯部両氏が士官候補生に
スパイの嫌疑など どうしてかけられよう。
彼等は政治家ではなく、忠良な軍人だった。
親(将校)であり 私等は子供(候補生)でしかなかった。
生きた歴史とは誠に悲しいものだ。
辻は候補生は学校内の問題として止め、絶対退学させぬというのがその根本方針であったのである。
佐藤が自発的に他の候補生を救う目的のためか (本人の言の如くならば) 或は命令によるのか
その真偽は永遠の謎であるが 辻は佐藤を退学させる訳には行かぬ。
併し、軍人がどうして仲間をスパイするような卑劣な行為を許容するか。
荒川が嫌われた理由は前述した。
が、私等は「あわれ」として同情されたのである。
辻は三笠宮の訓育中隊長なるが故に、自分の精神訓話に関する三笠宮の日記を証拠として、
生徒隊長に候補生を絶対に退学せしめざる様、強要するに至ったのである。
中隊長は辻一人ではない。
這般の情報が洩れるにつれ、校内の辻の立場は孤立する。
辻がどの程度真剣に私達のことを考えて呉れたかは知らぬ。
自分の使った佐藤は絶対に退校せしめてはならぬ。
私達のみ退校させるのもおかしい。
故に異質の候補生を一緒にして、退校反対の運動をせざるを得なかった。
参謀本部系統もこのため、学校に圧力をかける。
学校は佐藤を嫌っただろうが、佐藤のみ処分することは出来ない。
復学させん方針をとる。
学校は教育総監部の監督下にある。
教育総監部も復学の方針である。
私達は三月四日出所、帰校後数日学科授業に出たと記憶するが、その後就学を禁じられ、
四月某日退校になるまで、謹慎の形で無為に日々を送った。
処分するのかしないのか約一ヶ月を要したのである。

昭和十九年、
四元義隆氏と覚えているが、同氏に伴われて世田ケ谷の真崎大将托を暮夜訪ねた時、
「君があの時の候補生か、苦労しただろう、蒙古にいるのか、
東京がこんな風だからさぞ現地も大変だろう、私の傍には赤のスパイがいて何も出来ぬ。
君達を退校させたのは私である。
参謀本部も学校も両方共卒業させろという注文であったが、
軍紀維持の見地から私が退校を命ぜざるを得なかった。
私情としては誠に申訳ないことではあった」
と 詫びられたのである。
私は人間真崎を鯰のように感じたことを附記する。  (ナマズ) 
この退校未決定の間である。
辻から荒川に詫び状が来たのは。
あくまで彼を籠絡するためにと思う。
松本清張氏の昭和史で荒川の談話として、詫び状のことが出ていて、
これが事実なら辻の謀略の証拠となるが、
現物がないので真偽不明である旨 記してあったと思うが、
奉書で達筆、墨書きの様に荒川は話しているが、
これは彼の記憶間違いで、
軍用通信紙に二枚、赤鉛筆でなぐり書きした漢文調の美文であった。
手紙中の " 倚門の情 " の意味がわからず、
辞書を引いた私は自分の無学に唖然とした記憶がある。
内容は殆ど荒川の談話通りで、
老父、老母が閭の門に倚って、皆の錦を飾って故郷に帰るのを待っている時、
事志と違い かかる事態に皆を追い込んだのは、皆私の不徳の致す処であり責任である。
若し怒情いやし難く私を許せなければ気のすむままにしてくれ、首を洗って待っていると、
情に訴えようとする芝居気は、本性見事なものだった。
もう私は欺されなかった。
身の為に国を思う者と、国の為に身を思わない者との根本差を、
はっきりと知ることが出来たのだから。
立身出世型と、散兵線の消耗品とは志す所が根本的に違う。
・・・・

私は手記の全文をここに書き写したかったが省略した。
これは士官学校事件を身を以て体験した 次木君の見た事件の真相である。
この気持はなかなか一般の人には分ってもらえないかも知れないが、
私には胸の中にまで浸み透ってくる。
卒業して歩兵第一聯隊に帰ってから、林と十一月事件に就いて語り合った。
この時、林は三人の中で荒川が一番しっかりしていたと話した。
林は事件の真相を相当突込んで研究していた。
林が辻大尉から離れ、
結局二・二六事件に参加した原因も、またここにあると思われてならない。

真崎大将はこの時すでに台風の眼の中にいたのだ。
そして片倉、辻等は反真崎である。
何かどうにもならないメカニズムが、からみ合っていたように思う。
候補生を退校させた真崎大将の決意を私は複雑微妙なものに感じている。
そしてこの時から暗雲が陸軍部内にその影を濃くしていったのだ。
次木君は五・一五の坂元氏の衣鉢を継いでいる。
そして坂元氏は三上卓氏の衣鉢を継いでいるのだ。
この道統は昭和維新の道なのだ。
いまでもその道は死に絶えてはいない。


生きてる二・二六

池田俊彦 著より 


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