村中孝次 磯部浅一 片岡太郎 辻正信 片倉衷 塚本誠
昭和九年十一月
陸軍特別大演習
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(一) 發端
昭和九年十一月
群馬県高崎市附近に於て行われた陸軍特別大演習終了直後東京の 料亭 宝亭 に於て陸軍靑年將校ニ、三十名が會合した。
其中には在京の皇道派と目される急進派的靑年將校多數と金澤聯隊市川中尉、丸龜聯隊江藤中尉、小川中尉等の顔觸も見え
皇道派の急進分子が會合し、何事か謀議したるものと思はれた折柄、
其一味の 陸大學生村中孝次大尉が來訪した士官候補生數名に不穏の計畫を話した爲め、
十一月二十日早朝 村中大尉、磯部淺一 一等主計 外數名の現役軍人が檢擧せられ軍法會議の取調を受けた。
(ニ) 事件の内容
同事件は遂に其の詳細が發表されずに終つたが、
村中、磯部自身取調べを受けた際の被疑事實として『肅軍に關する意見書 』 に記載する所によれば次の如くである。
一、事件の全貌
概ね五 ・一五事件と同様の方法を以て元老、重臣 及警視廳を襲撃し 「 クーデター 」 を決行
ニ、決行時期
當初は臨時議會前の豫定としありしも臨時議會中 又は通常議會の間に決行することに延期したりやの聽込あり
三、襲撃目標
第一次 齋藤實、牧野、後藤文雄、岡田、鈴木、西園寺、警視廳
第二次 一木、伊澤、湯淺、財部、幣原
第一目標襲撃後 首相官邸に集合 更に第二次目標襲撃に嚮ふ豫定
四、首謀者と認むべき者 及 參加者
軍部側 陸大---村中 砲一---磯部 戸山---大蔵 戰車---栗原
歩一---佐藤竜雄 歩一---村田 歩一---佐藤操 歩三---安藤
近歩三---飯淵 歩一八---間瀬惇三
地方側 西田税
歩兵学校補備教育中の左記將校
歩三八---鶴見 歩三---北村 歩一三---赤座 歩七三---池田
歩五---鈴木 歩二五---高橋 歩三一---天野 外氏名不詳數名
五、實行方法
歩一 兩佐藤 ニケ中隊・・・・齋藤
歩三 大蔵 村田 一ケ中隊・・・・後藤
近歩三 飯淵 磯部 ニケ中隊・・・・牧野 一ケ中隊・・・・岡田
鈴木 間瀬 不詳・・・・西園寺
陸士豫科 片岡 戰車ニ 栗原 三台・・・・首相官邸 四台・・・・警視廳
(三) 事件の處分
磯部、村中は斯る計畫は架空のものなりと主張し、
却って軍内一派の皇道派彈壓の奸策なりとして、
強いて處分するに於ては三月事件、十月事件を公表し是非曲直を明かにすべき氣勢を示し、
部内の暗流に絡んで複雑なる關係を生じたものの如くで、遂に事件は嫌疑不十分の理由を以て不起訴處分に附せられた。
・・リンク→法務官 島田朋三郎 「 不起訴処分の命令相成然と思料す 」
併し 俗間にてはこの事件を目して皇道派による空前の大規模なるクーデター計畫なりとした。
陸軍當局は翌十年四月 當局談の形式を以て左の如く發表した。
( 陸軍當局談 )
昨年十一月中旬在京靑年將校及び士官候補生若干名が不穏の企圖をなしあるやの疑ありしを以て
嚴正調査のため軍法會議において關係者を取調べたり。
その結果によれば これ等將校及士官候補生は豫てより、
我國の現狀は建國の理想に遠ざかり宿弊山積し 國家の前途憂慮すべきものあるを以て、
速かにこれを刷新改善して我國體の眞姿を顯現せざるべからずとの考を懐き、
これに関し談合聯絡等をなしたることあり。
然れども不穏の行動に出づるの企圖に關しては徹底的に取調べたるもその事實を認むべき証據十分ならず、
軍法會議においては本件を不起訴處分に附したり、
然るところ、これ等靑年將校及士官候補生の言動において軍紀上適當ならざるものありたるに因り
それぞれ適應の處置を講じたり。
( 東朝昭和十年四月五日 )
同事件に關し 左記の三名に對して四月二日附行政處分が行はれ 四日附官報に發表せられた
歩兵第二十六聯隊大隊副官 村中孝次
陸軍士官學校附陸軍歩兵中尉 片岡太郎
野砲兵第一聯隊附一等主計 磯部淺一
停職被仰附 ( 各通 )
尚 停職處分は行政處分として最も重きものであつて、六カ月間は復職出來ず
又 一ヶ年以内に復職せざるときは自然休職になる規定となつて居る。
(四) 餘波
村中、磯部 兩名は三月事件、十月事件に對し何等の處置をも講じなかったのに拘らず、
單なる聽込を以て現役將校を三ヶ月餘拘留して取調べたるが如きは全く偏頗なる處置にして
一に永田軍務局長を中心とする統制派が正義を以て立つ皇道派を彈壓せんためにしたるものと斷じ、
軍内攪乱の本源を中央部内軍当局者の間に伏在するものとして
『 肅軍に關する意見書 』 なる一文を作成し、
三月事件以來の諸事件 靑年將校一團の行動 及 之に對立する一等あることを暴露し各方面に配布した。
これがため兩名は同年八月二日附を以て部内の統制を紊すものとして免官處分に處せられた。
此後 斯る諸事情が因をなして益々部内の暗流の爭闘激甚となり、
同年八月の人事異動に關聯し
眞崎敎育總監更迭問題
永田軍務局長刺殺事件
となり、
更に
ニ ・ニ六事件
に迄至つたのであつた。
「 右翼思想犯罪事件の綜合的研究 」
第四章 十一月事件
現代史資料4 国家主義運動1 から